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雑感記録(248)

【かくも卑猥なる生き物】


桜が綺麗に美しく咲き乱れている。

一昨日の金曜日。ふと思い立ってお酒を片手に桜を見て帰ろうと思った。所謂、夜桜というものを味わってみようと思った。神保町から歩き江戸川公園に向かう。しかし、「江戸川公園」という名前にも関わらず、その公園は文京区に存在している。僕は個人的に「あ、江戸川区じゃないんだ」と思ったが、どこの区に何の公園があるのかなどというのは関係ない。何故ならば公園は公園だからである。公園という存在に変化などはない。

レモンチューハイのロング缶を片手にゆったり歩く。

歩けども歩けども高層ビル群が並ぶ。大きな道路には多くの車が行きかい、歩道には多くの人が行きかう。爛々と輝く光が眼に飛び込んでくる。眩しい。「眠らない街」という比喩表現がある訳だが、この光景こそ正しくだといった感じである。そんな中をただ黙々と酒を呑みながら歩く。レモンチューハイは美味い。ヘッドホンからは河島英五の『酒と泪と男と女』が延々と流れている。

僕は過去に「散歩の極意」なる文章を書いたことがある。今回もそれに倣いGoogleマップは利用せずにただ歩いた。金曜日で翌日、予定があった訳だがそれは夕方からであった。時間には余裕がある。迷いながら歩く。夜の散歩は日中の散歩とは違う絢爛さみたいなものがある。それは先にも書いたが「光」そのものから来るのだと思う。ある程度の不明瞭感の中で歩く。先が見えない散歩。これもまたこれで乙なものである。

会社を出てからおよそ1時間程度歩いただろうか。僕の視界に「江戸川橋駅」という文字が入って来た。「へえ、ここが江戸川橋か。」と思っていたら、何だか橋にたむろしている人たちが居た。「ああ、なるほど。ここが江戸川公園か。」と僕は僕の中で勝手に評定した。横断歩道を渡り、その人混みに向かって歩みを進める。すると桜が眼に映る。「綺麗だ…」と思ったのも束の間、人と接触する。


公園は神田川沿いに沿って広がっており、桜が咲き乱れている。しかし、それと同時に多くの人が行きかっている。所々で人々は桜の前に立ち止まり、スマホやカメラを構えている。中にはご丁寧に三脚などを立てている人も居る。そして空いたスペースにシートを敷きその上で大声を出しながら宴会をしている人々も居た。僕も写真を撮ろうかと思ったが、あまりの人の多さ、そして写真を撮影する人が多すぎて僕は上手に写真が撮影できなかった。

しかし、何だか次第に僕はここで写真を撮影することが憚られてしまった。それはあまりにも写真を撮影する人が多く、道を塞ぎ、純粋に桜の美しさを味わいに来ている方々の邪魔になってしまうと思ったからだ。そして何より、桜の美しさというのは写真に残るから美しいのではなくて、桜が咲き、そして散っていく。その時間の移ろいが美しいのである。それは写真では収めることは不可能だ。

だから僕はなるべく写真を撮らないように、純粋に桜のその美しさ、季節の時間の移ろいの切なさ、美しさを全身で全力で感じる為に歩いた。

ところが、歩けば歩くほどに人は多くなり、桜の美しさを味わうという状況が厳しくなる。何だか僕は嫌な気分になる。それは「桜を味わう」というよりも「桜を写真に収める」ということそれ自体が目的と化しているからだ。桜のこの時期、この空気感、この温度、この環境でしか咲き得ないという季節、言ってしまえば生命の移ろいみたいなものを投げ捨てている。それが僕には耐えられなかった。

何だか僕は、僕という存在も含めてだけれども、人間という生き物は何て卑猥な存在なのだろうと思う。「桜の美しさ」というその表層だけを愉しんでいる気がしてならない。昔、どこかの誰かが「表層批評宣言」と言っていた訳だが、それとこれとは話が別だ。「桜」そのものの存在を人間があれやこれやと手を尽くし、自然的な、つまりは桜そのものが持つ美しさを、人工的な、どこか僕等人間用にカスタマイズした美しさにしている気がしてならない。

冷静に考えて、そもそも日本に咲いている桜の殆どはソメイヨシノであり、アメリカから輸入してきた植物である。さらに言えば、日本の古来の暦で言えば春というのは1月~3月である。ならば春を感じる花というのは本来的には梅だったのではないかと思う。何故、花見=桜というように変遷していったのだろうか。僕にはよく分からない。しかし、その桜、ソメイヨシノなるものは移植に移植を繰り返して日本全国に桜が広がったというではないか。そもそもが日本人、人間本位に作られてしまった悲しき植物なのである。

人間というのは何処まで行っても卑猥な存在だと思う。


それで僕はこの空間、都市空間というものも1つの要因としてあるのだと思う。文化や文明というものが中途半端に進歩しすぎてしまった所産なのだとも思う。この都市空間の中の自然の違和感についてもこれは過去の記録で触れた。これもぜひ読んで頂きたい。

僕は個人的にだけれども、都市化するならば徹底的に都市化するべきだと思う。都心や副都心に中途半端に小石川後楽園やら代々木公園、新宿御苑など存在しているからややこしいことになってしまう。その根底にあるのはやはり皇居だ。皇居があることが僕は1つの原因のように思われる。あれが1つのスタンダードとして存在してしまったことに問題がある。「都市空間に突如として現れる、人間本位にカスタマイズした自然」がごく当たり前のように浸透してしまった訳だし、それが良しとされる場が醸成されてしまったのだろう。

これは僕が個人的に考えていることだからあてにしないで欲しいんだけど、都市が徹底的に都市化したならば地方の過疎化がある程度は改善されるような気がしている。圧倒的な都市化が進んで、自然を排除していけば、自然を求めて都市から離れるということもある訳と思う。僕だったらすぐにでも実家に戻る訳だが、しかしこれはあくまで暴論だし仮定の話だ。何度も言うようだがあてにしないで欲しい。

自然との共存とか何とか言うけれども、それはあくまで結局「人間がどう生活していけるか」という思想が根本に必ずある。そう考えているのが人間であるのだから仕方がないと言えば仕方がない。だが、何とも僕は傲慢なような気がしてならない。そもそも僕等は前提として、自然をどうすることも出来ない。だから僕はずっと思っているんだけれども、自然と共存なんて絵空事でしかないのだと思う。共存するならば極論、死ぬしかない。人間が死に、土に埋まり、初めて自然と一体になれる気がしている。それでこそ初めて自然と共存出来るのではないか。

だからもう割り切るしかないのかなとも思う。つまりは、僕等は一生を掛けて、生きている間は本当の意味で自然を感じることは出来ないんじゃないか。と。僕等が感じている自然は人間用にカスタマイズされた自然でしかない。鍵括弧付の「自然」を僕等は享受しているに過ぎない。そこに存在している美しさは人間の卑猥さから来る美しさなのかもしれない。


だが、余りにも先日のあの空間は酷いものだった。特に早稲田方面、面影橋あたりに差し掛かったあたりで夜だというのに人が密集していた。皆が見ているのは生のものではなく、スマホやレンズを通した桜である。人工的自然を人工物で濾過して極限なまでに鮮明に、そして明瞭に写し出す。

終いには「ここを加工すればもっと鮮明になるよ」という声が聞こえる。この瞬間に僕は冷めてしまった。そうか、この人たちは桜の美しさなんて事実どうでもよくて、そのレンズを通して撮影したものを更に加工し、より人工的なものにして美しさを感じようとしている訳だ。そこに存在する空間、季節感、肌で感じる原初的な美しさというものよりも、さらにそれを加工した人工物の美しさを求めている。

勿論、僕も写真を見るのは好きだから、美しく撮るということは分からないでもない。機材に拘り、より鮮明に撮影するということについては否定しない。だが、デジタル技術が発展したことにより段々とその生としての原初的美しさがどんどん廃れているような気がしてならない。これも過去の記録で書いた訳だが、僕は「人間の眼で見る様に写真を撮影する必要はない」と思っている。寧ろその方が良いと思う。加工してより鮮明にしてしまったら、人間の卑猥さが露見してしまう様な気がしてしまう。これは木村伊兵衛展での記録で触れたことでもある。これ以上は書くまい。

いずれにしろ、僕は散歩をする中で、目的を勘違いした卑猥な人間が多かったように思う訳だ。そして自分自身も「結局、自分も卑猥な人間なんだな」と考えさせられてしまった。僕は人間という存在、詰まるところ自分自身にほとほと愛想が尽きてしまった。


昨日は日中に桜を見に行った訳だが、昨日なんかもっと酷かった。至る所で皆はスマホをかざし、道を塞ぎ、大声でしゃべり、通路のど真ん中に三脚を立て記念撮影らしきことをする人間ども。僕は軽蔑しながら彼らの横を歩いて行った訳だが、しかし、よくよく考えてみれば、僕も「よし桜を見に行こう」と思い立ち、桜を見に行っている時点で卑猥なのだ。僕もそこに居るだけで彼らと同じである。

僕は常々、季節を感じる時間は大切であると書いている。

季節を感じるというのは、詰まるところその季節にしかないもの、そして空気感や匂い、気温、湿度、あらゆるものを全身を使って感じるということである。だが、僕等は手元に簡単に操作できてしまえる機械を手にしてしまったが故に、それに依存してしまっているような気がしてならない。いつからか、その小さなデバイスに広がる世界を基準にしてしか物事を見られなくなっている。

だから、せめてこういう時ぐらいは機械から離れたいと思った。

僕も写真を撮っている時点で卑猥な人間である。先にも書いたが、僕は僕自身が人間という存在であり、どこまで行っても卑猥な存在であるということを看取してしまったその瞬間に愛想が尽きてしまった。しかし、僕は人間であることを辞められない。それに自分は人間でありたいと思ってしまう。このジレンマから抜けられない。

生きるということは難しい。それを痛感した花見だった。

よしなに。

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