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雑感記録(251)

【成功が破滅に導く】


僕は最近、何だか調子が悪い。これは体調不良だとかそういうことを言いたい訳ではない。ただ、こうしてnoteを書き始める度に詰まってしまう感覚だ。厳密に言うと、書きたいことはあるのだけれども、どうも途中まで書き進めてしっくりこないというか。そういう状態がここ1週間続いている。それで実は昨日無理矢理『定期的自己フィードバック「2」』と題して纏め作業なるものをしてみた。

やってみると結構自分の記録を読み直す訳だから、凄い気持ちが悪いけれども、「いやぁ、我ながら良いの書けてるわ~」みたいに自画自賛しちゃったり。あとは「なんかここ、おかしくね?」みたいなことも沢山あったりで面白い。それで読み返している中でふと、自分の記録で気付いたのだが、僕の記録にはおよそ「成功体験」とか「サクセスストーリー」みたいなものが面白いことに殆ど存在しない。

それで、自分自身でも不思議に感じたのだ。

冷静に自分の過去を振り返ってみて、僕の「成功体験」とか「サクセスストーリー」って何だろうと。だが…思い当たる節が全く以てない。こういう「成功」とか「失敗」などというのは個人的な所に帰結するものであるから、本人が「それは成功じゃない」と言えば「成功」ではないし、「それは失敗だ」と言えば「失敗」である。第3者がやいのやいの言える権利はまず以てない訳だ。

だが、僕の記録はどっからどう読んでみても「成功体験」とか「サクセスストーリー」みたいなものが1ミリもない。強いて言えば「転職活動」ぐらいか?と自分で考えてみる。確かにあそこの記録では「成功した」と書いたが、別にあの記録を読んでみると「俺って凄いだろ」みたいなことは全く以てないし、それに1人でやって出来た訳じゃないし。普通の話をただ延々と書いているだけである。極々一般の人間の考えたことを誇張して偉そうに書いているだけに過ぎないのである。


しかし、僕はいつも感じてしまうのだが、僕の嫌いな自己啓発本であったり、あるいはこういうnoteでもSNSでも何でもいい。とかく人は自分自身の「成功体験」や「サクセスストーリー」というものを語りたがる。「私はこうして成功しました」とか、「僕の努力の積み重ねでここまで来ました」とか。何だか僕はそういうものがいつも気持ち悪くて仕方がなかった。

これは小説の世界でも、いや、もっと言ってしまえば「物語」がある所には付き物なことなのかもしれない。それに大概「成功体験」や「サクセスストーリー」といわれるものには決まった型というか、大抵の話の筋などというものは決まっている。簡単に示せばこうなるだろう。

順風満帆→1回目の苦難→乗り切る→2回目の苦難→挫折→起き上がる→成功→今に至る→今後の展望

この要素の順番を組み替えてもいいし、あるいは途中に何回でも挿入しても構わない。実際に書いてみて思ったけれども、同じようなことしか書いていないんだ。これがただ延々と繰り返される。それなのに人はそれに惹かれてしまう。言い方は悪いが馬鹿の1つ覚えのような形で同じようなものを好んで読む傾向にあるような気がしている。

それで、こういう構成に飽き飽きしているのか、本というか出版社側も「今までにない○○」とか「かつてない××」みたいな感じで売る。そしてそれを読んでみると…「なんだ、同じじゃねえか」となる。勿論、書いている人のカリスマ性という部分も大きく関わってくるかもしれない。例えば、僕が(と書いたがそもそも僕などに「成功体験」やら「サクセスストーリー」と言ったものなのど存在しない)そういう本を書くのと、どこかの芸能人やアイドルが書いたのとでは雲泥の差だろう。誰も知らない僕のことなど読んだところでゴミ箱行きだが、芸能人やアイドルが書けばそれは崇め奉られるだろう。


それに、冷静に考えて欲しい。人の「成功体験」や「サクセスストーリー」を読んで何になる。「そういう人生歩んできたんだ」でお終いでしょう。「よし。俺は彼と同じになりたいからこの本に書かれていることをするんだ」っていうのはちょっと違うんじゃないのかなと思う。というか、この際だからハッキリ言うけど馬鹿なんじゃない、そういう人たちって。出版社の食い物にされてると思うけど。あるいは書き手の食い物にされていると思うけど。

それで僕はこの事態について、ちょっと考えてみたのだけれども、そもそもこういう類の本が好きな人というのは、言葉を選ばずに言えば「考えることが出来ない人」なのかもしれないと思う。特に真に受けてしまう人は。

「果たしてこれは本当なのか?」という簡単な疑問ですらも生じないなんて、それは如何なものかなと僕は個人的に思う。「こんなの嘘じゃーん」で終わってしまう。その先が無い。例えば「じゃあ、何で俺は今これを読んで嘘だと思ったのか?」ということを考えてみたりしないのか。あるいは、「俺がここに書かれているように実際になれるのか?」ということだっていい。そんな単純なことすら考えられないのか。

それではそこに書かれている「成功体験」や「サクセスストーリー」などは唯のゴミとなる。だが、当たり前の構造だからこそ食って掛からねばならない。「なんで」「どうして」と。ただ…哀しいことにそれが出来ない短絡的な人が多いのではないかと僕は思ってしまう。別に僕だってしっかり考えているかと言われれば分からない。だが、少なくともこういう類の本を読んで勝手に感動したり、凄いとか俺もこうなりたいで終わらせている人達よりは考えていることは事実だと思う。その考え自体が正解か不正解かであるかは置いておくとしても。

ところで、これを考えるときに参考にしたのが、映画の『闇金ウシジマくん Part3』である。

本郷奏多演じる沢村がネットビジネスを成功させる為に「天生塾」なるグループのセミナーに参加することから始まる訳だ。最初は半信半疑だったが。親玉の天生翔のセミナーで彼の成功体験談を聞き、馬鹿にしていたものの、結局どっぷりと浸かってしまう。それで沢村も同じ手で金を稼いでいく訳だ。

注目したいのは「これを売れれば成功できる」と他人の「成功体験」に踊らされてしまった点にある。天生翔は言葉巧みに「私のメソッドを真似れば成功できる」と伝える。ただ、この場合に於いては成功と言うものが何であるかというのを「お金を稼ぐこと」と示してくれているだけまだマシなのかもしれない。自己啓発本やらSNSの「成功体験」や「サクセスストーリー」の方が抽象度が高く「成功とは?」となりがちである。

しかも、これの上手いところが実際にお金がある風に装って、確認をさせている点にある。例えばこれが本だけだったら、結局テレビや画面を通したフィクションとしての書き手となり、その人は存在しているけれども、「今、この瞬間」には存在していない。僕等が把握できるのはあくまで画面上での虚構としての作者だ。ところが、実際にセミナーを開き対面にさせることでフィクションがフィクションで無くなる。それが演じられていようとも、「今、この瞬間」にそこに存在しているのだから、存在的具体性はある。つまり身をもって確認できる。


とまあ、話は幾分か脱線してしまった訳だが、とにかく僕は他人の「成功体験」や「サクセスストーリー」というものが嫌いだ。そもそも、その人はその人だから出来たんであって、仮に同じ方法で試して100%出来る訳でもないでしょう。ただ、それを承知の上で実践するという人は尊敬できる。失敗から得ることの方が大きい。

だから僕はわりかし暗い人の作品が好きなのかもしれない。

暗いかあるいはぶっ飛んでいるか。だから僕は園子温のエッセーが好きなのだと思う。何というか、あれ程に地を這うようなエッセーは無いなとも思う。僕がかつて記録で残した「泥水を啜るような」という比喩表現が正しくと言った感じである。

僕が怖いのは、この押し売りが伝播することにある。本ベースで言えば「この本めっちゃ良かった。俺の人生観とか変ったわ。」とこれまた紋切型の言葉を使用してオススメしてくる。まず以て僕はこの時点で辟易とする。「人生変わったってどこがどういう風に?それに人生まだこれからでしょ?何、もう生きるの辞めるの?」と聞いてみたくなる。しかし、大抵この手の質問をするとこれも抽象的な答えしか返ってこないので聞くのが無駄なんだが。

そういう考えない人がどんどん量産されて行くシステムが僕はこういう「成功体験」や「サクセスストーリー」を中心とした自己啓発本の類だと思っている。

目下、僕の敵は自己啓発本である。

せめて、疑うぐらいはして欲しいものだが…。じっくり考えることが出来ない人が増加したことを憂えばいいのか、あるいは自己啓発本というものが売れてしまうという事態を憂えばいいのか。はたまた、その両方なのか。本当は無視したいのだけれども、あまりにも眼につきすぎるのでつい。

短気は損気というらしい。肝に銘じておこう。

よしなに。




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