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雑感記録(191)

【小旅行のおもひで】


昨日、友人と埼玉県の深谷市に行ってきた。

僕はあまり遠出をしない質の人間である。出掛けることは好きなんだけれども…。1人で旅行をしたことが実はあまり無くて、大概誰かに誘われてということが多い。今回もそのパターンである。誘ってくれるだけでも有難いことだが、連れて行って貰えるということには感謝してもしきれない。

目的地は友人のオススメする古書店と温泉である。

僕は車を所有していないので、図々しくも友人に荻窪駅まで迎えに来てもらった。集合時間は「荻窪駅に9:00」だった。僕は割と余裕を持って行動したい質の人間であり、約束の時間よりも30分前に集合場所に着いた。とりあえず喫煙所に向かいタバコを蒸かしスマホを開く。LINEで「早く着きすぎた」とメッセージを送る。数秒後、着信。「俺も早く着きそう。あと3分ぐらい。」僕と友人はいつもこんな感じだ。遅刻することは決して無く、むしろお互いに早く着きすぎる。大学時代もこんな感じだった気がする。

寒かったので温かい飲み物を友人と僕の分で購入するため、少し歩きコンビニに入る。セルフレジとは便利なものだなと思いつつ、コンビニを出るとちょうど目の前を友人の車が過ぎ去ってゆく。僕はそれを目で追う。しかし、「いや、目で追ってる場合じゃねえ」とすぐに立ち返り、早歩きで彼の車を追いかける。幸いにも「喫煙所でタバコを蒸かしている」ということは事前に伝えてあった。彼は喫煙所付近で車を停めてくれていた。

僕は彼に簡単に挨拶し、そそくさと車に乗り込んだ。


車の中ではお互いに色んな話をした。この時間が何時も尊い。

有難いことに彼は僕のnoteを読んでくれているみたいで、僕が書いた記録の内容について話をした。また、彼も僕とは別の媒体で記録を残している。僕は1人のファンとしてそれを読んでいる訳だが、それについても話をした。お互いにお互いの記録を読んでいるから、何について考えているかということについて10知らなくとも3ぐらいは情報として知っている。それが手触りとしてやってくるのは対話が始まってからだ。

彼と対話する時、これもいつも有難く思うのだが、「今何してるの?」「どうしてるの?」ということは大体聞いてこない。「最近こんなことがあって、こう考えてるんだけどさ、どう思う?」というように聞いてくれる。勿論、「最近どうよ?」みたいな話もするし愉しいのだが、あくまでそれはただの報告作業になってしまう。何というか、烏滸がましいことこの上ないのだが、僕と「対話」しようとしてくれるその気持ちがあるだけで嬉しく尊いものであると感じる。

それで色々と断片的な話をしていった。その時はどんな文脈であったか忘れてしまったが、彼が最近悩んでいることがあるという始まりだった気がする。僕も昨日のことで実際所々忘れてしまっていることが多い。確かこんなような話だった。

最近のメディア、とりわけ『文藝春秋』や『週刊新潮』などに某芸人のスキャンダルや某スポーツ選手の不祥事が大々的に取り上げられている。それについて読者、つまりは受け手側が「それはいけない」ことだとして断定する。そしてその過激さが熱を帯びて社会現象になる。各種SNSなどを巻き込んでさらに肥大化していく。当然に悪いことをした人間であるならば罰せられるべきだが、その加熱さには些か疑問がある。どちらかの立場で「良い」「悪い」という完璧な二項対立で片づけられるものなのか?

根本的な所で『文藝春秋』や『週刊新潮』は文藝春秋社と新潮社、所謂出版業界では大きな力を持っている会社な訳だ。僕らは本を読む人間なので、文春文庫や新潮文庫などお世話になっている。そういった素晴らしい作品を世に生み出している出版社がこんな(といったら失礼かもしれんが)ある種パパラッチみたいなものに熱を入れすぎていいものなのか?文藝春秋社なんかは実際に芥川賞や直木賞を主催している出版社だ。そういった出版社がパパラッチのようなものに加熱しすぎるとは如何なものか?というような内容だった。確か。

僕も同じように思うところがあるので、僕は私見を話した。

僕は何度も記録で書いているが、詰まるところ僕ら含めた受け手側、広く言えば読者になる訳だが、それの圧倒的レヴェルの低下。そしてメディアの過度な発達。さらには想像力の問題について色々と話した。最初の問題について彼は付け加えてこう言った。「完璧に悪いとか完璧に良い、みたいな言い方ということは実は出来ないんじゃないか?『どちらかというと…』とでしか言えないのではないか?」ということであったが、僕もそれには同意する点がある。パッと聞いて僕はデリダに直結する訳だけれどもその後に彼はこうも言った。個人的に僕はこの言葉がずっと心に残っている。

「全員、一遍自分が信じているものが破壊されて傷ついた方がいい。そこから生まれる"複雑な感情"を看取することが大切だ。」

過激な表現とも取れる言葉だが、僕には凄く響いた。自分が信じているものが失われる時の複雑な感情を看取すること。ここから何かが生まれる。僕の身に置き換えて言えば、僕は過去に散々書いているが現代の小説を読むこと、あるいはそもそも現代に於いて文学があるのかないのかも分からないと書いたことがある。僕は今まで文学というものを信用していたし信じてきた。だからこそ小説を書いてみたり、詩を今でも書き続けてみたり、文学について熱く語ってみたり。だけれども、正直に言うと最近は惰性で文学作品を読んでしまっているところがある。

僕は文学には何某かの力があると思って向き合ってきたし、きっと何か社会を変え得る力を持っているのだと信じて突き進んできた。ところが、どうも最近はそんな必要すらなくなってきてしまっている気がしてならない。だから僕は過去の作品に執着しているのだと彼との「対話」で気付かされる。自分で言うのも烏滸がましいし、凄く恥ずかしいのだが、文学を信じて傷ついた人間の1人である。

「お前は文学に凝り固まりすぎだよ。だから、ここで自分に合ってないことにチャレンジしてみるのも良いかもしれないよな。」

なるほど、それは思いもしなかった。文学に凝り固まっているのは自分でも承知していたが、敢えて自分に合わないこと、もっと言ってしまえば嫌だと思っているものにチャレンジするのも良いのではないかとアドバイスを頂く。これも結構ガツンと食らった。「例えば、お前がラノベ書いてみたら売れたりするかもしれないよ…」と言われたが、すまん。それだけは勘弁してくれ…。


というように様々な話を車中でしながら高速道路を走る。

本当は色々と話をしたが、ここでは書き切れない。お互いに古井由吉が好きだから古井由吉の話をしたりとか、保坂和志と山下澄人の話をしたり。あとは延々と音楽について語り合っていた。これが不思議なんだが、音楽の好みは彼と大体似ている。例えば「最近これ聞いてるんだけど、めっちゃ良くてさ…」と話をすると「え、マジ、俺も!」となることが多い。というか殆どがそうである。

この記録に載せた曲のLuv Myselfなんかは本当に偶然というか、何というか。結構この曲が最近のお気に入りでヘビロテしていた。それで車の中に座っていたら突然この曲が流れてきて、驚いた。そして彼は「この曲最近めちゃくちゃ聞くんだよね」と言われたので「え、俺も」と言ってお互いに驚き。こういうことは彼との間では頻繁に起こる。最初は驚きもしたが、今では何だかもう「ああ、まただね」みたいな感じである。それも居心地の良さの秘密の一部なのかもしれない。

これもあるあるなのだが、大概彼がオススメする曲は自分にハマる。狂ったように僕は聞く。Analogfishもそうだし、AKLOとか、キリンジとか…。ありすぎて挙げたらキリがないんだが、音楽系の趣味に関しては彼の影響を大いに受けているところがあるなと思う。ちなみに、昨日オススメされてから片想いの『感じ方』をヘビロテしている。

彼曰く「NHKの曲」らしい。実際にNHKの曲ではなくて、雰囲気がNHKっぽい。言いたいことはめちゃくちゃよく分かる。「みんなのうた」に流れてきても違和感のない曲である。しかし、この曲調といい歌詞といい、悉くのんびりしているのに割と大切なことを歌っているので思わず感心してしまった。今日の通勤はこの1曲をひたすら繰り返して聞いていた。

「対話」する中で気付かされたのだが、僕は曲を聞く時の優先順位として歌詞が1番上に来るらしい。個人的にはあまり意識していなかったがどうやらそうらしい。彼に言われて気が付いた。結構リズムとかでも聞くんだよなと思いつつも、やはり第3者から言われるのだ。説得力が違う訳だ。ちなみに、最近リズムで聞いているのだと先日の記録にも乗せたが、LEXのPsychedelicである。KEIJUとのコラボがまた最高なんですね。

音楽についてはまたいつか、書きたくなったら書こうと思う。


しばらく車で運転してもらい、お目当ての古本屋に着く。

須方書店

埼玉県深谷市にある「須方書店」である。彼は何度か足を運んだことがあるらしく、様子を色々と知っていた。僕は初めてだったので少しの緊張と高揚感に包まれながら彼の後をついていく。話を聞くとどうやらかつて酒蔵だったところを古書店にしているとのことだった。佇まいをみると確かにそうで、本当に蔵の中に古本が詰まっているという感じだった。

実は、この古書店は11:00開店なのだが、僕らが予定時間よりも早く集合したため、思いの他早く着いたのである。開店20分前ぐらいに到着。途中途中で色んな所に寄って時間調整をしながら来たのだが、それでも早かった。お店の入り口は空いていて、亭主も何やら仕事をしていた。僕等は今か今かと待っていたが、ついに我慢できずに開店前に「もうやってます?」と聞き、外に配置する書棚の準備を半ば急かしてしまった感があり申し訳なさを感じながら店内へと入る。

店内に入ると所狭しと本が詰め込まれている。僕は古本屋はそれなりに行っている方だが、何というか天井が高い分、わりと詰め込まれていても窮屈さを感じない。神保町の古書店は狭さが尋常じゃないのに本が沢山積まれているので尚のことである。そういったストレスを感じることなくお店を回れるのはまず以て嬉しい。

色々散策しようと思って歩いてすぐ、僕は個人的激アツコーナーを発見した。なんと!なんと!中野重治の作品が数多く並んでいるではないか!?当然に既に持っている作品の方が多かったが、しかし、あまり中野重治の作品を置いている古書店さんもないので個人的に1人ブチ上がっていた。迷いに迷った挙句、僕は1冊の本を手に取ることにした。

店内を回っている時に亭主と地域のお客さんだろうか、物凄く親密に話をしていた。何だか僕はそれが凄く嬉しかった。別に自分のことじゃないんだけど、でも何だか凄く良い光景だった。それこそ僕は先日の記録で「寂しさ」について書いた訳だけれども、こういう交流の場があるのはいいなと純粋に思ったのである。いつか自分もこういうマイクロライブラリーあるいは古書店が開ければいいなと、今まで以上により一層思ったのである。

時間を掛けて店内を巡る。2,3周ぐらいした後で友人の元へ行く。友人はウンウン言いながら本を出し入れしている。どうやら好きな作家の本があったらしい。これも毎度お馴染みの光景っちゃ光景である。大概僕は決めるのが早い。それは簡単な話で、「本に対して僕はお金を惜しまず使う」ということを決めているので興味があるものや、読みたいものであったらお金は惜しまない。だから躊躇なく本を選ぶ。しかしだ、通常これはおかしい。何故ならそれ以外は全くお金を掛けないからだ。要は極端すぎるのである。

しばらく彼は悩んで購入する本を決めた。2人でレジに持っていきお会計をしてもらう。亭主は若い方で気さくに話しかけてくれたのが嬉しかった。実はもう少し話が出来ればなと思ったのだけれども、僕も友人も何というか気おくれしてしまって、あまり話せるような感じではなかった。もう少し話せる勇気があればなと思ったりもしたし、意外と(かどうかは分からないが)僕も人並みにはコミュ障なんだなと改めて思い知らされる。


お店を後にして、続いての目的地である温泉に行った。

温泉に向かう道中、腹が減ったなとなり、小腹を満たしてから温泉に向かうことにした。ここは大したことないからさらっと書くが、マックでドライブスルー。腹を少し満たして温泉に向かう。

温泉に到着したのは12:30頃。受付を済ませそそくさと更衣室に向かい、着替えて温泉に入る。僕にとっては温泉は多分…大学生に入った時が最後だったと記憶しているので、それ以来なので8年ぶりぐらいにはなる。別に温泉が嫌いとかそういった訳では決してなくて、何というか行く機会があんまりなかったというそれだけのことである。自分から進んで温泉に行きたいとなる訳でもないし、そもそも熱い湯船に長く使っているのが得意ではない。

しかし、だからといって温泉が嫌いとか湯船に浸かるのが嫌いという訳では決してないということだけ言っておく。長風呂が得意ではない。そういうことだ。身体を綺麗にシャワーで洗い流した後、ゆっくりと湯船に浸かる。凄く気持ちが良かった。何とも言えない気持ちよさ。どう表現していいか分からないが「飛ぶ」感覚ってこんな感じなのかなとも思ってみたりする。大きなため息を付く。

大きなため息をついた後で別に聞かれた訳でも何でもないのに、友人に対して「いやね、このため息ってのは幸せを意味するため息でね。つまりは、幸せを感じすぎるとため息が出るんだよ。」とかなんとか分かるような分からんような話をした。沈黙。その後彼は「温泉に浸かると気持ちよくて頭が働かなくなるからな。何言ってんのか分からなくなるよな。」とフォローしてくれた。再び僕は大きなため息をつく。

何やかんやで温泉を満喫。温泉を出たあとは2人で喫煙室へ向かう。いつ何時吸っても、風呂上がりのタバコの美味さに敵うものなどない。彼は完全に紙タバコを辞めて電子タバコのみを吸っている。しかし、僕にはショートホープを吸う彼の姿がいつも眼球の奥に存在している。大学の時、彼は紙タバコを吸っていたが、僕の中ではショートホープの印象が強い。今では僕が吸う紙タバコの匂いもしんどそうだ。何だか申し訳なくなる。

そこの温泉にはお食事処があるということで、温泉に入った後で飯を食べようと計画していた。ところが、温泉に行く途中でマックで簡単にお腹を満たしたこともあってお腹が空いていない。それはどうやら彼も同じだったみたいで、どこかカフェで茶をしばくかという話になった。しかし、深谷でいくら探しても良さそうなカフェが見つからない。うーむ…と悩んでしまった。

「まだ14:00前なんだよな…。よし群馬行こう!」

彼の行きつけのカフェがあるということで深谷から1時間ほど車を運転し、群馬県へ向かった。


群馬に向かう道中でも色々な話をした。この時は本の話よりも音楽の話がメインだった。というよりも2人で熱唱しながら群馬まで向かった。それは温泉に入ったことで2人共眠かったこともあるだろう。それに先にも書いたがお互いの曲の好みがほぼ同じなので、お互いにオススメする曲が最高に素晴らしいのである。僕はひたすら浜田省吾の『Midnight Blue Train』を推した。どうやら彼も気に入ってくれたみたいで嬉しかった。

自分が好きなものだったり、好きな事だったり、そういったものを共有して良さを分かってくれること程嬉しいことはない。これはつくづく感じるところである。何でもかんでも共有することが良いとは思わないけれども、こういうことを気兼ねなく話せる友人が居ることは貴重だと改めて思う。

そんな中でキリンジの『Drifter』が流れる。

いろんな人がいて いろんなことを言うよ
「お金がすべてだぜ」と言い切れたなら
きっと迷いも失せる

みんなの愛の歌に背突かれて
与えるより多く奪ってしまうんだ
乾いた風が吹き荒れて
田園の風景を砂漠にしたなら
照りつける空の下
あなたはこの僕の傍にいるだろうか?

キリンジ『Drifter』(2001年)

僕はこの歌詞の「田園の風景を砂漠にしたなら/照りつける空の下/あなたはこの僕の傍にいるだろうか?」という所が物凄く好きである。特に「この僕」と限定的な表現をしている所にある。しばしば、恋愛曲では誰かの為に、万人に広く分かるような歌詞が多い。ある種、そういうものが紋切型として存在する。エクリチュールとして皆にも分かるというのが前提となる。ところが「この僕」と指すことで、「この僕」以外という存在が歌詞外に居ることになる。詰まるところ「この僕」というのはこの『Drifter』の中に居る「この僕」なのであって、クローズドな僕である。そうすると不思議と特別感を感じるのである。そこが僕は好きである。

その後、『エイリアンズ』も流れてきて「ああ、いいなあ」なんて思って聞いていた。彼が突然、「キリンジの歌詞ほどエロいものはない」みたいな話をしていた。でも、何となくだが分かる気がする。「キリンジみたいな歌詞を書けるなら絶対モテるだろ!」ということも言っていたが、それも分かるような気がした。所々しっかり聞くと本当に良い歌詞を書いている。ぜひ聞いてみて欲しい。

そんなこんなで1時間ぐらい曲の話を延々としながら目的地であるカフェに辿り着いた。


伊藤屋珈琲

場所は群馬県の桐生市という所にある伊藤屋珈琲というカフェである。雰囲気が凄く良いお店であった。何よりコーヒーが写真のようにポットに入って出てくるのも嬉しい。コーヒーの味も美味しい。じっくり味わいながら飲んだ。しかし、お互いの眠さがピークに達したのか、黙々とお互いにコーヒーを啜る。

僕は隣の席に座っている男女の会話に耳を澄ますことにした。何だかよそよそしい会話だった。男性の方が探り探りで女性に頑張って話している感じが言葉から伝わってくる。しかし、何だか学歴の話をしていた。慶應、早稲田というワードが飛び交う。耳を凝らすが結局何の話をしているのかよく分からない。多分だけれども、これは僕の経験則からの推測だが、マッチングアプリで出会った男女っぽい会話だった。

これはあくまで僕の推測の域を出ないから正解かどうかは分からないが、あのお互いのよそよそしさはそうだろうなと。しかし、これ冷静に考えてみると怖い。何故なら僕も一応マッチングアプリユーザーな訳で、女性とカフェでお茶することがあるからだ。つまり、他の人にも僕が思っていることを思う人が少なくとも居るということが分かってしまったからである。

何だか不思議な感覚だった。自分もこう見られてるのかなと思った。何と言うか、自分で自分を見ているみたいだった。ただ、僕の方が話すのは上手だ。多分。きっと…。おそらく…。僕のプライドだ。l

しばらくして2人は席を離れ帰ってしまった。個人的には面白かったのでまだ聞いていたかったのだが、残念である。それで友人とその話をしようと思ったのだけれども、彼は先程買った本を眺めていたので辞めた。好きな本を眺める瞬間程、愉しいことこの上ない。この時間を奪うことは犯罪だと思うぐらいに僕は感じている。

しばらく、お茶をしていい時間になったので帰ることにした。


帰りの道中でも音楽を聞きまくる。お互いに好きなKEIJUとKANDYTOWNの曲をぶっ続けで掛け続ける。2人も熱唱。この時間が最高だった。結局そこから2時間以上運転してもらい、最初のスタート地点である荻窪駅まで送り届けて貰った。

ヘトヘトなところを長時間も運転させてしまって申し訳なかったと思う反面、その時間が僕にとって掛け替えのない時間になったことは言うまでもない。感謝してもしきれない。

結局、今日までその余韻に浸りながら1日を何とか過ごした。外は雪が降っている。帰り。折り畳み傘が壊れ、びしょぬれで帰宅。そして置き配の段ボールが雪でビチョビチョ。中身もビチョビチョ。最悪だ。しかし、昨日が最高な1日だったのでどうでもよくなって、今こうしてnoteを記している。

感謝。また行こう。

よしなに。

ちなみに、この古井由吉の『招魂のささやき』はサイン入り。


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