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雑感記録(178)

【書く事は「ない」が「ある」】


ここ数日、何だか書きたいことが沢山あって毎日投稿している。現にこうして文章を書き始めている訳なのだが、実は、今日、書きたいことが特段ない。先日僕は批評や哲学の必要性みたいな記録を残した。あれで何というか「出し切った」という表現も些かおかしな気もするが、ここ数日のモヤモヤを消化しきった感がする。だけれども、どうしてか、何を書きたいわけでもないけど、「書きたい」という欲望は常に僕の心の裡に潜んでいる。

ちょうど昨日、『中野重治全集第16巻』と『中野重治全集第22巻』が届いたのでそれを読んで中野重治のことについて書いてみようかとも思ったのだけれども、まだぼやけている。それに『日本語実用の面』をもう1度じっくり読みたいという気持ちがあるので、中野重治について書くのは当面ないだろう。いつかは書くかもしれないが、少なくとも直近で書くということは無いように思われる。しかし、実際の所は不明である。

それでは一体何を書こうかなとなる訳だ。

僕はいつも、「書くことが無くても書き出してしまえば何とかなる」と信じて疑わない人間の1人である。書き出すというと些か変な感じがする。つまりは、「単語」「言葉」そういったものを書けばそこから広がる何かがきっと存在するのである。それを信じて僕はこれを、今、こうして、書いている!


それでまた思い出したのだけれども、僕が好きな柄谷行人の言葉で「後に戻ることで前へ進もうとしている」というものがある。ここ最近の僕の記録では頻出である。この引用は柄谷行人の『反文学論』の中の古井由吉に対する批評からのものである。しかし、引用と言うのはやはりどうも恣意的にならざるを得ない。実はこの前後に古井由吉作品の神髄が語られている。

手元にない(というよりも本棚から引っ張り出してくるのが面倒なだけなのだが…)ので僕の記憶で語ることしか出来ない訳なのだが、ここで柄谷行人は「古井由吉の作品は"言葉”から始まる」ということを強調して言っている訳である。つまり、ストーリーと言うか内容がアプリオリにあるのではなくて、"言葉"がアプリオリに存在しているということを言っている。……やっぱり引用しよう。

古井氏は「内向の世代」とよばれたが、そのラベルとは逆に、いわば「内部」など全くもたない作家だった。「書きたいことがなくなったときから、作家は書き始める」と言明した作家だったのだ。「書きたいこと」という価値を転倒することからはじめたのである。近作の『哀原』(文芸春秋)では「雫石」「仁摩」「櫟馬」「池沼」というように、固有名詞(地名)から触発されて書かれている。いいかえれば、古井氏は「文字」から書きはじめているのであり、その前にあると信じられている”現実""生活""内面"なるものを見事なまでに拒絶している。それを私は「悪意」とよぶのである。ところで、右のような方法は日本の古典文学ではきわめてありふれたことであり、古井氏は後へ戻ることで前へ進もうとしているといってよい。

柄谷行人「文字と文学」『反文学論』
(講談社文芸文庫 2012年)P.125

とここまで書いたけれども、事はそう単純なものでもない。

実際に古井由吉の作品を読んでもらえれば分かるが(これも手元にない且つ本棚からとってくるのが億劫なので僕の断片的な記憶ではあるが…)確か『陽気な夜まわり』だったかな?あれに収録されている作品で、何だったか忘れたけれども「これが柄谷行人が言ってたことか!」と感動したその鮮烈な感覚だけは自身の記憶としてある。身体が覚えているとでも言うのだろうか。

それで、またこれを書いているときに思い出したのだけれども、確かいとうせいこうと奥泉光による対談集。『小説の聖典』?ってやつだったかな…。タイトルについては些か記憶に自身が無いのだが、確かこの2人が出ている著作であることは間違いない…はず。ここで2人が言ってたのが「他人の言葉から始める」という事についてだった。……これも引用しよう、やっぱり。

いとう  なんにせよ、「二行目がものすごく大事だ」ってことはわかるな。

奥泉  ちなみに、いとうさんの一行目はなんだったんですか。

いとう  …思い出しました。『ノーライフキング』は、テレビゲームに熱狂した子供たちがわけのわからない噂に巻きこまれていくという筋なんだけど、それについての嘘の新聞記事を書いたんですよ。

奥泉  新聞記事!そこ、重要ですね。

いとう  「そういうことが起こった」と自分で信じてから、小学生の男の子に移って、そこから小説が始まった。記事は作品内には出てきません。

奥泉  それはつまり「他人の言葉から始める」ということではないですか。

いとう  おっ、来ましたね。

奥泉  いとうさんは新聞記事から書いたんですよ、いいですか、みなさん。

いとう  みなさんって(笑)

奥泉  急に語りかけてどうするんだ……ちょっと興奮したものですから。とにかく、強く言いたいんですが、いとうさんは「他人の」言葉から始めている。決して「自分」の言葉じゃない。ぼくの一行目も「気がかりな夢から醒めると~」でした。カフカの「変身」そのまんま(笑)

いとう  だから、二行目を書いたときに「作家になるしかない」と思ったんだ。

いとうせいこう・奥泉光「職業作家でいこう!」
『小説の聖典 漫談で読む文学入門』
(河出文庫 2012年)P.32,33

今、引用終えて思ったのだが、古井由吉を論じる時の柄谷行人の文章は何故かいつ読んでも愛を感じる。


先の引用で古井由吉に対して「「書きたいことがなくなったときから、作家は書き始める」と言明した作家だったのだ。」と柄谷行人は言う。さらに「「書きたいこと」という価値を転倒することからはじめたのである。」とまで言う。何だかこれまで僕がこうして書いているのが何だか阿保らしくなってくるというよりも、まんまと嵌められているような感じがしてしまう。こう上手く言葉で表現できないのだけれども…何かちょっと悔しい。

でも、言いたいことは何となく分かるような気がする。それは僕が古井由吉を読んできたということも当然にあるから、作品として実感を持てる。ただ、こうして「ただ俺は書きたいんだ!」という書き出しからこの記録を書き始めてみて実感することもある。

昨日の記録でも書いたが「好き」と言うだけでは物は語れない。書くことも当然であり、同様に「書きたい」という気持ちだけでは正直中々書けないというのはこうして書いていて感じられる。だから古井由吉が「文字」(引用部で言うところの「固有名詞」)から書き始めるというのは何だか分かるような気もする。

結局僕は「書きたいけど書くことがない」というような言葉の羅列から始まり、気が付けばここまで来てしまった。奥泉光が言うところの「他人の言葉」を少しばかり拝借しながらここまで書き始めている。もっと言うなら、僕のこのきろくは柄谷行人の言葉といとうせいこう・奥泉光の言葉から始めていると言っても過言ではないような気がする。些か傲慢にも程があるが。

意外と書き出すと「何かを書かなければならない」というある種の強制力が働く。そこに対して僕は身を任せて頭に浮かぶ言葉や文章を適当に書き始める。そうすると「あ、そう言えば…」と言うことが数多く出て来る。そうして気が付くとこんな遠くまで来てしまっているのである。やはり、「書きたい」という気持ちだけでは書けないことを痛感する。

と言うのも、結局書き出してみたら、「そう言えば」「そう言えば」の連続で結局僕の言葉からこの記録は始まっているように見えて、実はそうではないのではないかと考えさせられる。自分がこれまでに経験した読書経験が自身の書く言葉に惹きつけられて徐々に思い出される。それを僕は書いているに過ぎない。


つまりは、僕は「書けない」「書きたいことがない」と書いている時点で既に「書ける」と言うことなのではないか?書き出してみたら結局ある程度は書けてしまった訳だし。その質はさておくとしても。「書けない」と既に書いているではないか!?

これは僕の屁理屈か、あるいは…。

よしなに。

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