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雑感記録(266)

【人生の諸相】


僕は実家に戻る度、必ずやることがある。

今日もそういう訳で、午前中は実家の猫を風呂に入れ、体躯を綺麗に洗う。僕の実家では猫を2匹飼っている。オスとメス。メスの方は人間年齢に換算するとおばあちゃん猫である。しかし、食が細くなることは一切なく、むしろ段々と肥えてきている。抱っこする時は一苦労である。一方オスの方も人間年齢に換算すればおじいちゃん猫である。こちらは以前、内臓を悪くしてから体重は減退している。メスとは逆に食べさせるのに必死である。抱っこする度に「軽くなった?」と両親に聞くぐらいである。

猫は水が苦手である。各家庭の飼い猫によっても違うらしい訳だが、僕のうちの猫たちは水が嫌いだ。シャワーでゆっくり水を掛けるのだが、ニャーニャーうるさい。だが、冷静に考えて「身体を綺麗にする」というお題目で僕等が勝手に洗った方が良いと評定して洗う訳だ。猫からしたら拷問な訳である。僕はビチョビチョになりながら何とか2匹を洗い終える。

終った後、僕は両親と共に買い物に行く。

こうしてみると、何だかんだで僕は家族といるのが好きなのかもしれないなと思ってみたりする。別に家族とこの歳になって一緒に過ごしても苦ではないし、母親には所々イライラするんだけれども、大概父親も同じところでイライラしているのが分かると何だか面白い。父と息子なのだからそれは似るのは当然と言えば当然なのかもしれないが、この状況を冷静に捉えることが出来るその状況が面白く感じる。


買い物から帰り、いよいよやることをしに向かう。

外に出て、うだるような暑さ、それなのに風が気持ちいというこれまた相反するものが共存する。しかし、どういう訳か暑さとは言え、「痛い暑さ」ではなくて「優しい暑さ」である。僕は実家に戻る度に思うことの1つである。盆地特有のものとでも言えばいいのか、あるいは僕がこういうように感じている、感じたいと無意識化で感じているからなのか。だが、そんなことはどうでもいい。とにかく、地元の暑さはいつも優しい。

背中の汗が服に滲んでいくのが肌感で分かる。地元で車を持っていないというのはやっぱり致命的なんだなと思い、ヘッドホンから流れて来る音楽に集中しながらただ目的地へと黙々と歩く。

緩やかな長い坂を上って行く。目の前に広がるのは山だ。周りを見渡せば山だ。勿論、建物もある訳だが東京のように高く広がっている訳ではなく、こじんまりと低く小さく広がっている。こういう光景を見ると僕は落ち着く。ここが生まれ育ってきた街だからか?多分そうだろう。少なくとも僕は幼少期から自然に囲まれて育ってきた。「自然」ではなくて自然にである。

思い返してみれば、小さい頃は祖父によく山に連れていかれた。

春になれば山菜を採りに山へ行った。タラの芽やコゴミやコシアブラ…。季節が変わればタケノコを採りに行ったり、栗を拾いに行ったり、リンゴを採りに行ったり…。とにかく小さい頃から身近にそれはあった。この手の想い出を語りだしたらキリがない訳だが、とにかく僕は自然に囲まれて育った人間である。

そう言えば、今週実家に帰ってきて、食卓に出されたのはタラの芽の天ぷらとコゴミの天ぷらだった。僕は山菜のあの渋み?エグみ?とでも言うのか。あれが堪らなく好きである。あの独特な感じ。「これ本当に食えるのか?」という味。あれが堪らなく好きである。だが、これはよくよく考えてみれば、やはり幼少期にそういう経験をある程度詰める環境に居たからなのではないかと思われて仕方がない。亡き祖父には本当に頭が上がらない思いだ。亡くなって彼是20年経つ訳だが、ようやく、今更にして有難みが身に染み入るようにして僕を侵食する。僕は祖父の優しさに包まれて育った。


歩けども歩けども山が広がる。

これから向かう所も山の中腹である。車で向かえば自宅から10分ぐらいで行けてしまうのだろうが、歩きともなると相当な時間が掛かる。僕は色々なものに包まれながら坂を上がる。

そう言えば、もう1人の祖父はアイスが大好きだった。

暑い季節になると祖父はいつもアイスを買ってくれる。だが、祖父が買ってくれるアイスは決まって、ジャイアントコーン、ビスケットサンド、アイス饅頭の3つのどれかだ。それ以外の選択肢はない。祖父はいつもそれを美味しそうにほうばる様子を祖父の膝の上から見上げていた記憶が鮮明に思い出される。小さい頃は「他のが良い!」と駄々をこねたものだが、今この年齢になってくると祖父なりの優しさだったのかなとも思ってみたりする。お陰で僕が好きなアイスは冗談でも何でもなくビスケットサンドとアイス饅頭が1番好きである。

暑さでまた思い出したが、それは小学校の時だった。学校の授業かなんかで米を作った。それでもう収穫できるとのことで、保護者を呼んで一緒にやるという謂わば授業参観的なことがあった。その時に両親は忙しかったので祖父に出てもらうことになった。だが、僕が時間を祖父に間違えて1時間早い時間を教えてしまった。

丁度、そのタイミングで僕は体育の授業で外に出ていた。すると祖父が校庭の大きな木の下で涼んでいた。僕はそれをすぐに見付け、祖父の所に走って行き「ごめん、おじいちゃん。1時間早く伝えちゃった。あと1時間後なんだ。」と言った。すると祖父は怒るでも何でもなく「ほうか。」と一言置いて立ち去ってしまった。皆で体操をしている時に眼前を歩く祖父を見て申し訳ない気持ちになった。あの時の感触というか、あれは未だに忘れることが出来ない。あんなに暑い中早々に待たせてしまった罪悪感とでも言おうか。暑くなるたびに僕は思い出してしまう。

そんな祖父が亡くなったのは昨年の8月である。

暑さと共に祖父は僕の元にやって来る。


延々と流れる音楽に耳を傾け歩く。

ようやく目的地に着いた。ここ最近の暑さもあったのだろうか。花は茶色になり枯れ果て、水は鈍色をしている。それに蜘蛛の巣が散りばめられており、枯葉も散乱している。とりあえず僕は箒と塵取りを借りて掃除を始める。無心で掃除をする。だが、ちゃんと準備して行けば良かったなとも思う。途中コンビニで線香だけは買ったが花を買い忘れた。というよりも、そういうシーズンではない訳だから販売されている訳もない。

手持ちのもので何とかするしかない。とにかく僕は掃きまくった。

やりながら頭の中では「ああ、雑巾があれば…」とか「ブラシ家から持って来れば…」と考えるのだが、何を考えようが後の祭りである。今更どうしようが無理である。手持ちのもので何とか出来る範囲で綺麗にした。バケツに汲んだ水を周囲に掛けて行く。こんな暑さでは涼しい土の中に居ても暑いだろうと思って僕は沢山掛けた。本当にアイス饅頭でも買って来れば良かったと思った。

線香を置くところも掃除しようと思い、線香置きを取出し、中に溜まった草木を掻き出す。すると1匹の蛙が突如飛び出してくる。僕は思わずビックリして後ろに少し跳んだ。僕は爬虫類やら両生類やらが苦手である。今にもこちらに飛んできそうだった。僕は遠目でしばらく様子を眺める。

蛙というと大抵茶色か緑のイメージが強い。だがこの蛙はどうも色味が違う。白地に緑の斑点みたいな模様だった。僕はそれを見た瞬間に祖父っぽいと感じてしまった。

祖父は生前凄くオシャレだった。出掛ける時はいつもきれいに整えられたスラックスと上はピシッとワイシャツでいつもキメていた。そういえば、葬儀の時に部屋を整理した際、祖父の沢山のスーツが出てきた。どれもオシャレで僕は素直に着たいと思うぐらいの代物であった。僕の今の職場ではスーツではなくて私服で出勤して良いと言われている訳だが、僕は頑なにスーツで出勤している。そこは祖父から受け継いだ感覚というか、僕自身スーツが好きである。これは祖父からのある種の贈物だったのかもしれないとふと思ってしまう。

線香置きを綺麗にして僕はコンビニで購入した線香にライターで火をつける。ライターは僕がいつもタバコを吸うので持ち歩いているから問題は無かった。線香を適当に何本か纏めて取り火を付ける。線香の煙が僕の方に襲ってくる。独特な匂いだ。あの匂いはいつも慣れないものであるし、正直あまり慣れたくはないものである。僕は線香をあげ、僕のタバコをお供えした。


4月14日はもうとうに過ぎてしまった。ふと頭を過る。

そちらもGW中に行きたかった訳だが、どうしても都合が合わず行くことが叶わない。何とも心残りである。何だか哀しい気持ちになる。家族という関係の複雑さを子供ながらに分かるのだから両親はきっともっと大変なんだろうなとも思う。僕からしたらどちらに優先順位があるのかないのかというのは至極どうでもいい話だ。両方とも僕の祖父に変化はないのだから。

そう言えば、中南海は美味しかっただろうか。祖父はタバコが大好きだった。タバコと大吾郎のお湯割りで生きていた人だから。この間、と言ってもお正月だけれども僕は中南海を買って行った。そして一緒に寒空の下、祖父は温かい土の中で吸っていたけれども、僕は凍えながら吸った。何だか薬草を吸っているみたいであまり美味しくなかったけど、これを美味い美味いと吸っていた祖父の気持ちが分かる日はいつか訪れるのだろうか。

僕はそれを知るまでは土には還れないなと思ってみたりする。

あれから20年だ。何だか変な感じだ。あの時の僕は小学生で、今はこんな廃れた大人になってしまった訳だ。この姿を見たら祖父は何と言うだろうかと考えてしまう。こういう時「死人に口なし」という言葉が僕の心をえぐり取る。「きっとこういうだろうな」と仮想祖父を自分の中で構築していくしかない。それにしても一緒に酒が飲めるようになるまで生きていて欲しかったなと今更悔やんでも仕方がない話だ。

会いたい時に会えない辛さというのは何時でも苦しい。


僕は目的を果たし帰路に着く。

それにしても今日はいい天気だった。雲1つない、快晴である。そして僕は空を眺めて「僕は久々に空を見た」と感動に浸る。だが、その感動を共有することも出来ぬまま、僕は途方に暮れながら来た道を戻っていく。

周囲は何事もないかのように動き続ける。車も人も自転車も。皆は何も関係ないように動く。だが人生というのは大抵そういうものである。周囲の物事など僕等が思っているよりも無関心に動く。そこに僕等という存在をどれ程没入させるかによって変わる。そういうものなのだ。自分自身を生きることということなのだろう。それが周りに周って様々な人を巻き込み、様々な人との関係づけを行なう中で自分という存在を初めて知るのだと思う。

それにしても、今日はいい天気だった。

よしなに。

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