見出し画像

雑感記録(238)

【駄文の円環part6】


今日は”ビジネスカジュアル”もどきと称して、ほぼ私服みたいな感じで出勤している。僕はいつもスーツで仕事をしている。そちらの方が仕事とプライベートのメリハリがつくし、急な来客にも対応が可能である。ところが今日は私服だ。靴も革靴ではなくて、ごついスニーカー。楽な格好で今日は職場に居る訳だ。しかし、僕は現状営業ではなくて、サポートという形で営業資料の作成に携わったり顧客対応といったことに従事しており外に出る機会がない。だから正直、毎日私服でいいっちゃ私服で良い。それにかっちりスーツで毎日キメていく必要はないのである。

だが、個人的にスーツは好きだ。これは個人的な趣味の問題も当然あるだろうが、僕はスーツが好きだ。理由は考えれば色々ある訳だが、パッと頭に思い浮かんだもので行くと2つ。1つ目が「毎日服を選ぶ手間暇が掛からなくて楽」、そして2つ目は「決められた範囲の中で自由に着こなせることが愉しい」ということである。

1つ目は結構あるあるではないかと思っている。例えばビジネスカジュアルでもそうだが、毎日毎日服を変えるなんて言うのは面倒くさい。季節感に合わせてジャケットやパンツの色を変えてみたり、あるいはネクタイをするかしないかというのも関わってくるだろう。前日の夜やあるいは出勤の朝にそんな面倒なことを考えたくない。ただでさえ出勤することですら苦痛な訳で、それを少しでも喚起させるようなものとは距離を置きたいと僕は思ってしまう。それに僕にはファッションセンスの欠片も無いので、失敗した日には溜まったものではない。「せっかく、自分で選んだのに…」とその落胆たるや!想像しただけで恐ろしい。

だが、スーツは上下セットで既に決まっている訳だ。このジャケットにはこのパンツというようにセットアップがある。しかも、完成されている訳だ。つまり「ええと、この組み合わせで…」ということを考えることをしなくていい。せいぜいネクタイをどれにするか、革靴をどれにするかということぐらい考えておけばそれで十分だ。ビジネスカジュアルは全体を考えなければならないが、スーツは既に決まっているのでそういう細々したものに対して拘ることが出来る。僕はスーツのそういう所が好きである。

単純に、これは僕の性的嗜好の問題もあるのかも分からないが、ネクタイで首がキュッと引き締まるのが気持ちが良い。……いや、居心地がいいだ。こう「ピシッとキマる感覚」が堪らなく爽快な訳だ。こうすると全体的に締まるような感じがして凄く自分も「しっかりしなきゃな」とどことなく仕事モードになれる。だからメリハリがつけられるということもあるのだろう。学生時代の名残もあるかもしれない。僕は中学高校と学ランだったので、1番上のホック、カラーの所のホックを付けるかどうか。僕の本心からすれば付けたかったのは山々だったが1番上まで付けていると何だか餓鬼っぽい。見た目的な部分で辞めた。

そういえば、学ランのボタンのどこを開けるかで意味が変わってくるとか何とか…みたいなことがあったような気がする。第1ボタンを開けていると「喧嘩上等」みたいな、確かそんなような意味合いだった気がする。勿論、僕は1番上まで締めていた…気がするのだが…。いずれにしろ、学ランで僕は色々と遊ばせてもらった訳だし、何より「学ラン」という枠の中で如何に自由を掴むか、拘るかという所が凄く面白かったことを覚えている。例えば、学ランの下にワイシャツでなくてパーカーばれずに着るとかね。改造ボタンとか。様々に改良の仕様はあった。しかし、短ランや長ラン、ボンタンとかになってしまうとそれは「学ラン」の領域を出てしまう。これらは学校内の風紀を乱しても、誰かの生活に何か迷惑が掛かるということは無いのだからまだ可愛い方なのかもしれない。

それで話は舞い戻って2つ目の理由になる訳だ。スーツもある意味では「学ラン」と似たようなものである。ただ、「学ラン」は学生服な訳で、着る対象が限定されてしまっている。大人が「学ラン」を着ていたらどこかのコント番組にしか見えない。それは何だか見ているこちら側としても何だか恥ずかしくなってくる訳だが…。スーツの場合は学生が着ても、社会人が着ても、はたまた子供が着てもビシッとキマるのだから不思議である。スーツは開かれた存在である。

そうすると、これも「学ラン」よりも幅広くアレンジを利かせることだって出来る。そのスーツという構造を逸脱しない程度に、そのスーツという構造の魅力を最大限に引き出すためにアレンジが出来る。正しく「学ラン」のそれと全く同じとは決して言わないけれども、類似性を以て見ることが出来る訳である。例えば、カフスボタンを変えてみたり、あるいは王道も王道。ネクタイを変えてみたり。さらには革靴も黒の革靴ではなく、茶色系の革靴にしてみたり。あとはハンカチーフなんかも入れてみても良いよね。…と考えだしたらキリがない訳だ。

少し長くなってしまったが、2つ目の理由は僕が学生の頃から慣れ親しんだものの延長線上にスーツというものが存在していたということである。枠を出ない中での自由。スーツを逸脱せず、尚且つスーツの魅力を引き出すワンポイントな逸脱。この矛盾を抱えているスーツという存在が僕は好きなのかもしれない。


先程から僕は「枠の中の自由」「逸脱」という言葉を使用している。これらについて少し書いてみようと思う。これもまあ、あまりあてにしない方がいい。

この「枠の中の自由」という言葉はLibroから拝借した言葉である。Red Bullとのタイアップ?というのかな?その動画の曲の中でLibroが発したバースの1つである。

実際、この記録もこの曲をキッカケに実は書き始めている所があるので、引っ張られると言えば当然なんだが、しかし本当に素晴らしいリリックだと思うんだ。ぜひ聞いてみて欲しいものである。

それはさておき、とにかく僕ら人間というのはとかく「自由」を求めている訳だ。例えば「働く場所に縛られたくない」ということで昨今ではノマドワーカーが増えている訳だ。それに副業を解禁する企業が増加しているということもある訳だ。これらは文化の発展、文明の発展の所産でもある訳だ。つまり、特にノマドワーカーなんていうのはテレワークが可能になって「出社しなくていい」という風潮になったからである。また副業解禁も結局、副業を始めるのに恐らくだけど最初は大体「せどり」から始めるでしょう。そうするとメルカリとかヤフーフリマとかbaseとか。様々なプラットフォームが存在していて、そこでいつでもどこでも始められるようになったからだと思うのである。

これらの現象を経済的な側面から捉える人も居る訳だ。例えば都内で仕事をするとなり、そこに定住するともなると家賃が馬鹿にならない。だがテレワークのお陰で働ける場所が自由に選択できるようになった。その家賃分を浮かせて何か他のことに充当するということで経済も循環していく。あるいは副業なんかは説明するまでもないけれども、様々な人が始めることで我々消費者の立場からすると、あらゆる場所で販売されている訳だから、それに対してお金は払う。そうしてお金はどんどん循環していく。そういった観点からもある程度の「自由」というのは担保されるべきである。

ところで、僕らは当たり前のように「自由」「自由」という言葉を使っている訳だけれども、「自由」とは何だろうかと考えてみたことはあるだろうか。ちなみに僕は無い。というよりも途中で挫折……という訳ではないけど興味関心が他の方に移ってしまった。やはり「自由」を語るときに忘れてはならないのはホッブズの『リヴァイアサン』やロックの『統治二論』などが挙げられるはずだ。日本で言えば、これは最近の書物になってしまうのだが大澤真幸の『〈自由〉の条件』などが挙げられるだろう。ちなみに僕はホッブズで挫折した。

とかく「自由」という言葉は政治や社会と関係性が深くなってしまうって馬鹿みたいなことを書いてしまったが、そもそも言葉を使う時点で政治的なんじゃないのかなとも思ってみたりするが、僕はそういうことを語るのが苦手だし、今は自分の生活でいっぱいいっぱいで、昨日の記録でも書いたが、僕の心はまだまだ豊かさが足りない。そんな僕が政治の何について語っても「それは人間として…」というような方向にしか持っていけないのだから無意味である。建設的な会話など出来る訳もない。

それで思い出したんだが、最近の若者の政治離れが増加しているらしい。僕も若者に入るのかどうか知ったことではない訳だが、ただこれは僕自身も自覚的ではある。正直に言えば、先に書いたことの繰り返しになるが自分自身や周囲の人を豊かにするので精一杯なので、そんなところにまで目を行き届かせることは現状厳しい。それに政治家などは結局「国民のことを考えてます」と口では言っておきながら、やっていることは「自分が対外的に政治家として評価されたい」ということが嫌みったらしく表情や態度から滲み出ていることを看取した時に嫌気がさした。彼らの主語は「国民が」「国民が」である。だが、そこにそれを発している主体としての自分がその「国民」に包含されていることを忘れ、「政治家」として「国民」の代表をしていますとしたり顔でやっているのが僕はどうも好きになれない。

しかし、彼らが存在しなければ僕らは飯も食えないし働けもしない。それに極限言ってしまえば、自分自身の豊かさを追求する事すら出来なくなってしまうのである。だから僕は口出しをする気はないし、文句を言う筋合いは別にない。ただ、僕は苦手だというそれだけの話である。……はて、何の話をしていたんだったか。

「枠の中の自由」というのは個人的にだけれども言い得て妙だと思うんだよな。これも過去の記録に書いたけれども僕らはこの世界に居る以上、「世界」という枠組みの中に存在している。当たり前っちゃ当たり前な話である訳だ。僕等が「世界」を操っていると思いがちだが、その実逆である。僕等がどれだけ小説や批評や映画や美術などで「世界」を創出したとしても、その「世界」に僕らは飲み込まれてしまう。まず以て「世界」は大きい。僕等ではどうすることの出来ない広さを持っている。それは物理的な大小の話ではなくて、そこに表現される数値を持たない何かである。

人間の恐ろしいところは僕はここだと思っていて、せいぜいちっぽけな人間が広大な「世界」を創出することが出来てしまうのだから、不思議である。物理的身体から見れば僕らの心臓あるいは、「世界」を創出する脳ミソなどは小さい。ここが不思議な話だ。まあ、そもそも大小で比較するような話ではないのだろうけれども、だがその広大な「世界」を創出できる人間は凄い訳だ。というように、「世界」は人間が創出できるということは、これは「自由」ということについても柔軟に対応できるのではないかと思う訳だ。「枠の中の自由」というその「枠」というものを「世界」と捉えればいいのではないか。この「世界」というのは我々人間が作り出した「世界」なのであって、結局僕らが言う「自由」になるということは世界に「世界」がぶら下がることなのではないかと思う訳だ。

ここで注意をしておきたいのは、世界と「世界」である。我々が生まれそして生きていく環境的な、つまり自然としての世界は世界である。しかし、我々人間が創出するところの世界は「世界」である。鍵括弧付の「世界」である。まあ、柄谷行人みたいにカッコは付けないけれども、ただ僕の場合は便宜上そうしていうようにしたいと思っているという話さ。僕等が創出できるのはあくまで鍵括弧付きの「世界」である。そんな既にある自然の世界とはレヴェルが違う。彼らは僕らが生まれる遥か昔よりそこに存在しているのだから。


ここまで何だか訳の分からぬことを延々と書いてきた。「自由」なぞというものはある意味でスーツみたいなもんだ。学ランみたいなもんだ。枠組みは決まっている訳だ。基本的な構造はそこで決められている。それが世界である。そこに僕らは例えばカフスボタンやネクタイに拘ってみたりして、そこに自分自身の「世界」をはめ込んでいく。そうして「世界」が世界にぶら下がるような形で僕らはそれを「自由」と呼ぶ。そのぶら下がりが終わった時、切れて落ちてしまった時にそこに世界は世界として存在して、僕らが寄りかかっていた「世界」が消失することで初めて自由が生まれる。

つまり、僕らは自由など求められない。「自由」=「枠の中の自由」だけが僕らに与えられた幻想的な自由なのではないかと思ってみたりした。

今日はいよいよ年度末だ。明日は東京都写真美術館へ木村伊兵衛を見に行く予定だ。さっさと今日よ、終わってくれ!アーメン。

よしなに。


この記事が参加している募集

スキしてみて

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?