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雑感記録(41)

【お客"さま"≠神さま】


僕は2種類の嫌いな人間がいる。僕はあまり「嫌い」というより「苦手」という言葉を使う方だが、敢えて「嫌い」という言葉を使った。しかし、それ程までに「嫌い」なのだから仕方がない。その2種類の人間とは①お客"さま"②そのお客"さま"に極度に迎合する人間。おおよそこの2種類だ。どうも好きになれない。

何でこんなことを記録にしようかと思ったのは、正しく僕はそのお客"さま"とやらに普通に接していただけで怒られたからだ。僕は普通に普段通りに淡々と説明して、細かく聞かれたから詳細にただ答えていただけなのに「めんどくさいんですか?」「そんなにめんどくさいならいいですよ、他の人に代わってもらって」と。挙句の果てに「すいません」とデカい声で上司を呼ばれ、「この人めんどくさそうなんで変わってください」と言われたからだ。

こういう類の人間、つまりお客"さま"という人間は本当に嫌いだ。何せ上から目線で来るのだから、話をするどころか通じる訳もない。この場に於いては「自分が1番偉い人間」なのだから何を言ったってしょうがない。僕が何を言おうが通じる訳もないのだ。主導権、決定権は自分にあるのだから僕らが「こうした方がいいんじゃないですか?」と提案した所で、そもそもスタートの時点で聴いてもらえる訳もないのだから、この場自体が無意味なものである。


今、上から目線と書いたが、僕は別に上から目線が嫌だとかそういうことを言いたい訳ではない。むしろ、上から目線はある意味で必要だと感じている人間であるからだ。何かしらの実績があったり、僕以上に知識を備えている人もいるので、そういう人たちからの上から目線は腹が立っても受け入れるもんだと僕は感じている。というよりこちらが勉強になる。

ところが、自身の疑問について聞きに来ているのに、何も調べもせずただ「どういうこと?」というような形で上から目線に立たれると話は違ってくるし、最低限のことも知らずに上から目線に立たれるのは非常に腹が立つ。全く以て愉しさもなければ、クソほどにも勉強にならない。学ぶこともない。

人にものを聞くときは自分でも必要最低限は調べる必要がある。と僕は思っている。そうしなければ時間の無駄になってしまう、双方にとって。何でもかんでも0から教えるより、1から教えた方が早いし、相手も0より1知ってた方がすんなり理解が出来ると思うのである。

しかし、お客"さま"という生き物は不思議なもので、本当に0の状態で来るから困りものである。「何でも聞けば何でもかんでも教えると思うんじゃねえ」ということを声を大にして言いたい。仮に全部が全部分からなくても、「あ、この人は少しでも調べてきてくれるんだ」という姿勢が垣間見ることが出来ればこちらとしても助かることこの上ないし歩み寄りたいとも思う。


お客"さま"の特性は自分が「神さまである」という認識が未だに根付いていることにあると思う。おかしな話だ。神さまは各書物、『聖書』やら仏教の経典など読めば分かるがある意味で全知全能な生物?概念?である。つまり、そもそも「知らない」ということがない状態なのである。

おやおや、矛盾している。「お客"さま"=神さま」と認識している主体は、何も知らずにやってきて「どういうこと」「なにそれ」と聞いてくるのだ。全知全能はどこへ消えたのやら。ということを考えるとそもそも「お客さま=神さま」という等式は成り立たないことになる。

我々は人間である。人間が同じ地平に立ち、同じ地平の元で対話をするのである。神さまという存在は概念であると僕は考えているので、現人神であらせられるお客"さま"など僕にとっては「?」以外の何物でもない。つまり、僕の中では存在していないことになる。

それに、人間対人間であるから当然不都合なことは出てくる。そこを埋め合わせるための対話が必要になってくる。そのための「雑談」というものがあるように思う。お客と僕には最初から溝が存在していて、そこをどう対話で埋め合わせていくことが出来るのかがコミュニケーションだったり、お客と折衝するときのポイントになるのだと考えている。

今日のお客"さま"は対話など一切なく、むしろ「対話など不必要。さっさと説明しろ」という態度であった。そもそも、対話する気がない人間に僕が淡々と説明して何が悪い。僕は対話をする気のないお客"さま"と対話をする気がない。それなのになぜこちらが怒られなければならないのか。こちらは歩み寄ろうとしたけれど、それを相手が放棄したのだから僕はなす術がないじゃないか。


加えて、そういったお客"さま"に対して極度に迎合する人間がいるのも腹立たしい。というより嫌いだ。そこで迎合してしまったら「喜んで神さまの下僕になります」と表明しているようなもんだ。お前は「神の子」なんかじゃない。人間だ。

こういう人間も対話を忘れた人間であると思う。というよりむしろ、奴隷的思考であり労働が中心に置かれている。そのお客の人と成りなんてどうでもよくて、とにかく自分から、いや自分の組織から離れないようにすることに一所懸命なだけである。

「お客"さま"に何とかしてやったぞ」という気持ちは只の麻薬に過ぎない。厳密に言えば会社に貢献してやったぞ!という一種の満足感を得て終わる。というより関係性はそこで終了する。所謂「顧客本位」の仕事からかけ離れたものになってしまうのではないかと思われるのだ。

むろん、こういった形で接して双方共に納得しそれで満足すればそれでいいのかもしれない。しかし、そこに何の面白みも感じないのは果たして僕だけなのだろうか。せっかく自身の知らない人と接する機会なのに、それを無機質なもので終わらせてしまうこと程もったいないことはないのではないだろうか。

仕事の醍醐味ってお金を稼ぐことかもしれないけれど、1番は結局のところ出会いなんじゃないのか?自分と全く以て関わりのない人と接する機会を気軽に持てることなんじゃないのか?そこから仲良くなれた人とは仲良くなればそれはそれでいいと思うし、それまでの関係であればそれまでだし。とにかく双方が「関係を持つ」ということを忘れてしまったらコミュニケーションなど成り立たないと僕は常々感じている。


何も僕は「人はみな平等で公平である」とかそんな綺麗ごとを言いたい訳じゃない。僕はただ日々に面白さが欲しいだけなのだ。それなのにこういった奴らのせいで僕の生活が侵食されるのは甚だ腹立たしい。

お客"さま"と意識している人間は少なからず多くいるように思う。そしてそれが「正義」だと振りかざしている。僕は思うのだが「正義」と「悪」は紙一重ではないかと。その正義感で苦労している人間もいる。それを忘れちゃいけない。

それに対話しているのはあくまで人間だしその人なのだ。僕はお客"さま"と対話をしたい訳ではない。その人と話をしたいのだ。勿論、短い時間でそれを引き出すことは困難なのかもしれない。しかし、それでも対話を忘れてしまったら、その人を知ろうと思わなかったら話したいことも話せず今回みたいなことになってしまうのだろう。

何より心苦しかったのは、上司が忙しい中出てきて僕の代わりに、先に僕が説明したことと同じことを説明させてしまったことだ。


僕は対話をしようとしているのに歩み寄るとまではいかなくても、その人に対する少しばかしの興味を持てない人間と話をすること程無駄な時間はないと思う。雑談・対話をすることの重要性を分からない人間は嫌いだ。

ということで、最後にバルトを引用して締めようと思う。

すでに示唆しようとつとめてきたように、この授業は、自己の権力という宿命にとらえられた言説を対象とするのであるから、実際問題としての授業の方法は、そうした権力の裏をかき、権力をはぐらかすか、あるいは少なくともそれを弱めるための手段に関係する以外ありえない。そして私は、書いたり教えたりしながら、次第に確信するようになったのだが、このはぐらかしの方法の基本的操作はといえば、書くときは断章化であり、語る時は脱線、または貴重な両義性をもつ語を用いて言うなら、遠足=余談(excursion)である。それゆえ私は、この授業において互いに編みあわされてゆく発言と聴き取りが、母親のまわりで遊ぶ子供の行き来に似たものとなることを望みたい。子供は、母親から遠ざかると思うと、つぎには母親のもとにもどって小石や布切れを差し出し、こうして平和な中心のまわりに、ぐるりと遊びの輪を描きだす。その輪のなかでは、結局のところ、小石や布切れそのものよりも、それが熱意のこもった贈物となる、ということのほうが重要である。

花輪光訳 ロラン・バルト『文学の記号学』(みすず書房1981年)P.52,53


最終部の比喩、「子供は~」は非常にこの話と通じるところがあるのではないだろうか。僕はお客"さま"やそれに極度に迎合する人間に関わって、自分の有意義な時間を奪われるのは甚だごめんだ。

もっと他に話したい人がいる。僕の時間はそんな奴らに使う余裕などない。例えそれが仕事であろうともだ。

大分感情的になってしまったが、考えることが多いなと文章にしてみて改めて思った。しかし、こういったことは今後嫌でもつきまとってくる問題だ。この関係性については「権力」という観点から引き続き考えてみたい。

見苦しい文章、失礼。

よしなに。






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