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雑感記録(139)

【岡上淑子のコラージュ】


今日、仕事の昼休みに昼食を食べに神保町を歩いていた。しかし、今日は普段一緒に昼食に行ってくれる先輩たちが出張や在宅勤務ということもあり、1人で昼食を食べる気分ではなかった。そこで昼休みの時間を利用して古本を物色していた。それにしても昼休みに古本を見に行けるというのは僕にとってはこの上ない幸せである。

今日の戦利品

それでこれらを購入してきた。とりあえず煙草を蒸かしに澤口書店の2階に直行。その後、「そう言えば最近、画集とかじっくり見ていないな」と思い立ち、写真や画集コーナーをぶらぶらする。するとたまたま『岡上淑子全作品集』が僕の目に留まった。値段を見て一瞬眩暈がしたが、しかし何事も出会いは一期一会。気にせず購入。さらに階下に向かい岩波文庫を物色する。

岩波文庫はいつ見てもワクワクするのだが、今日はあまりピンと来るものが無かった。しかし、この『日本近代文学評論選』を見た時に「そういえば、有島武郎の『宣言一つ』とか石川啄木の『時代閉塞の現状』とか読めるんだよな…」とふと思い出し購入することを決意。どうしても昭和時代編ももれなくついてくるらしく、「まあ、高見順の『描写のうしろに寝てゐられない』とか中野重治の『閏二月二十九日』が読めるのならいいか」とある種の諦めとともに購入した。

購入して職場に戻り、昼休みが終るまで『岡上淑子全作品集』を眺める。たまたま近くを通りかかった方から「何見てるの?」と聞かれたのだが「昼休みに古本物色してました。」という何ともズレた解答をしてしまった。終わるまでの時間、僕は幸せな気持ちと不思議な感覚に包まれながらデスクで1人ほくそ笑んでいた。冷静に考えるとヤバイ奴だが、何よりもそれが許容される環境に身を置けるその幸せがあるだけで十分だったのかもしれない。


ところで、岡上淑子という作家を皆さんは知っているだろうか。美術に造詣がある人はすぐに分かるだろう。コラージュという技法で数多くの作品を残している。とはいえ、全作品集によれば140点ほどらしい。正直、僕は美術に凄く詳しい訳でもないのでそれが多いか少ないかということは知る由もない。僕には彼女の作品が見れればそれでいい。

岡上淑子は主に1950年から1956年の7年間に渡りコラージュを作成したらしい。彼女が有名になったのはかの有名な瀧口修造が紹介したことが契機らしい。彼女が学生だった頃に授業で製作したちぎり絵が彼の目に留まったらしい。瀧口修造曰く「不思議の国のアリスの現代版」とのこと。それが1953年のこと。シュルレアリスムの新進作家として注目されたが、1957年に結婚を機に製作を辞めてしまった。

岡上淑子『夜間訪問』(1951年)

なるほど、瀧口修造が「不思議の国のアリスの現代版」というのも何となく分かるような気がしなくもない。現実の様相に突然、そこにはあり得ないがあり得る存在が屹立していて不思議な世界観を呈している。そこに映し出されるものは1つ1つが存在しているはずなのに、それが他の現実と交わることで異質な空間を作り出している。

現実×現実=幻想みたいな感じがするのが岡上淑子のコラージュなのかなと僕は勝手に想像する。僕は小説畑の人間なので語るベースが小説になってしまうのが些か恥ずかしいのだが…。

例えば小説でSFとかっていうジャンルがある訳でしょう。現実には現状では起こり得ない世界観がひたすら展開されていて、その世界観にワクワクするということがあるだろう。また映画なんかは特にだけれどもSFと言えば独自の世界観が繰り広げられる訳だ。『スター・ウォーズ』とか『スタートレック』とか…まあ、挙げればキリは無いのだが。

そのSFの世界観を僕等はすんなり受け入れてしまう訳だけれども、そもそもどうしてその現実とは異なる世界観をすんなり受け入れることが出来るのだろうか。そこに映し出されている世界は僕らの常識とはかけ離れた世界で、ある意味で別の世界が繰り広げられている。話す言語や慣習だって勿論異なるかもしれない。それなのに何事もないかのように僕等はそれらを享受している。不思議な現象だ。


僕は岡上淑子のコラージュを見てハタと思う。そうか結局のところ、そういった幻想的な世界観やSF的世界観と言うのは現実に立脚したうえで初めて成立するものなのではないのだろうかと。つまりは、現実という土台が、現実と言う前提があってこその世界感なのではないのかと。

それこそ先にも書いたが、岡上淑子の場合は現実に現実を掛け合わせることでそれを幻想的な世界観にしている訳だ。ある現実のシチュエーションにそぐわない現実を配置することによって総体的に見ると「あり得ない」となるが、部分部分で個体で見ていくと「あり得ない…訳じゃないよな」となる訳だ。これを更に敷衍していくときっと僕が毎度毎度書いている「真のリアリズム」というところに収斂するような気がする。大事なので中平卓馬からの孫引きのような形になるが載せておこう。

 また写真というものがもともと現実の似姿、模写像であるという特性をもっているがために、写実主義という言葉とあいまって、無規定に乱用されることになる。言うまでもなく写実主義とはリアリズムの訳語のひとつである。そうなると写真はすべて写実ということになる。あらゆる写真は写真である限り、写実主義―リアリズムの実践ということになる。リアリズムという言葉のあいまいさは、このあたりにも混乱の原因があると言えるだろう。
 だが、リアリズムとはそんなものではない。リアリズムとは「―は―である」という断定、断言を初めから排除するものである。反対に、リアリズムとはあらかじめ設けられた暗号解読格子をあえて崩壊させようという方法的意識のことである。私と世界の間を遮蔽し、私と世界を予定調和の状態におく意識下の解読格子をいま、ここで、世界と出会うことによって崩壊させ、世界と私をまっすぐに向き合わせようという方法としての意識を、その意志をリアリズムと呼ぶべきなのだ。

篠山紀信 中平卓馬「平日」『決闘写真論』
(朝日文庫1995年発行)P.224より引用

 J・リカルドウがどこかで、おおよそ次のように書いていたのを思い出す。写実主義者たちは現実を見ようとはしない。彼らは意味としての現実を見るにすぎない。だが、リアリズムとは一本の樹木をいま、ここで、眺めることによって、いままで持っていた樹木という意味を眼の前でゆるやかに崩壊させてゆき、一本のいままで見たこともない樹をそこに見出すことだ、と。リカルドウは文学のリアリズム批判としてこの文章を書いた。しかしこの言葉はやはり写真についても多くのことを示唆している。意味としての現実、それは解読格子を通された、濾過された現実である。つまり現実ではない。概念としての現実である。

篠山紀信 中平卓馬「平日」『決闘写真論』
(朝日文庫1995年発行)P.224、225より引用

つまりは「—は—である」というコードを破壊することにより新しいものを創出するというある種のリアリズム。小説なんかだとそれがあまりにも現実に依拠してしまうが故に何だか陳腐な様相を呈してしまうこともある訳だが、こういう作品では文字が無い分かなり直接的に伝わってくる。幻想的なものも実は「真のリアリズム」なのではないかと僕には思われて仕方がない。

というように考えてみると実は芸術とりわけ絵画であったり映画での幻想的なるものは、僕らが経験したことがない世界だから便宜的に「幻想的」と名付けているだけであって、実はそれはリアリズムそのものなのではないのかと変なことを口走ってしまう。今日の僕は頭がおかしいらしい。


岡上淑子『落下』(1956年)

いずれにせよ、岡上淑子のコラージュは見ていると凄く面白い。これが貼り付けされている何層にも重なった作品であるとは思えないほどの精緻さというか。無論、僕はこの世界観に惹かれている訳なのだが…。

改めて岡上淑子の作品を見直して今1度ブルトンの『シュルレアリスム宣言』を読み直してみようという気になった。僕は先程岡上淑子はシュルレアリスムの作家として云々と書いてしまったが、僕は安易にその言葉を使ってしまっているのかもしれない。そう言われているからそうだというのはそろそろ卒業せねばならない。

誰かがこう言っているからこうだという認識でも勿論良いかもしれないが、この歳にもなって自分で検証するということを怠ってしまっているのはよろしくない。これから3連休が始まろうとしているので、これを機会に自身で彼女の作品を眺めながら深く考えてみるのもまた良いかもしれない。

岡上淑子のコラージュ、最高なのでぜひ。

よしなに。

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