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雑感記録(258)

【都市という憂鬱】


今日は朝から予定があった。MicrosoftのTeamsでwebでの会議だった訳だが、僕は個人的にTeamsを使う人というか会社は正直微妙である。毎回毎回カメラの調子が悪く、背景を設定する途端に上手く映らない。だから今日の会議も円滑に進まず、途中途中でフリーズしてしまって30分で終わる予定が1時間も掛かってしまった。

僕というか、僕の会社は大概zoomかskypeを利用している。時たまGoogle Meetを使用する。1番はzoomなんだけれども、やっぱり使いやすい。何ならそれでないと少し不安な節もある。だから今日の会議でTeamsを使用するとなった時には「え、マジで…」と不安だった。それで案の定な訳だ。明日は雨予報だから、天気が良い今日のうちに出掛けようと思っていたのに…。と今更書いても後の祭りである。


それで会議を終えた後、相も変わらず散歩に行ってきた。

今日は明治神宮に行って来た。実は今まで1度も行ったことが無かったので行ってみるかとふと思い立った。いつも散歩する時、目的地に電車で行ってぐるぐる歩きまわって、帰りはいつも歩いて帰るというスタイルを取っている。だが、今日は敢えて逆パターンで行ってみようかなと思った。歩いて明治神宮まで行き、帰りは電車に乗った。

明治神宮は代々木公園に隣接している訳で、原宿・渋谷が近い。まず以てここも嫌な所だが、何よりそこに行くまでに新宿駅を通過しなければならないことが憂鬱だ。僕の記録では何度か書いているが、僕は新宿駅周辺の地域が大嫌いである。本当に人がゴミのようにひしめき合っている。あの空間に居ると、僕という存在もゴミの一部になっている感覚になる。それにあんな狭い所に多くの人がひしめき合っているのが単純に気持ち悪い。

「見ろ!人がゴミのようだ!」

それで神楽坂→早稲田→高田馬場→新大久保→新宿→明治神宮という形で歩いてきた。高田馬場の独特な混雑さは学生時代に嫌という程に経験してきたから慣れっこである。だからあまり気にならないのだけれども、新宿駅方面に向かうにつれて徐々にその混雑さの質が変わってくる。まず、これは周辺の施設の影響もあるだろうが、女性が増えて来る。年齢層も若い人たちが増加してくる。それと外国人、とりわけアジア系の人たちが途端に爆増する。

1人で歩いている奴なんてあまり見ないし、大概2人あるいはそれ以上の人数で道を歩く。つまり、歩道が塞がれてしまうのである。純粋に歩いている人からすると邪魔で仕方がない。サラリーマンの人が眼の前を歩く。だが2人組の女性らが道を塞ぎ先に進めずイライラしているのが後ろから見ていてよく分かる。結局その人は我慢しきれず、車道に出て越していく。しかし、それを越した先にも再び別の2人組が現れる。恐らく痺れを切らしたのだろう。その2人組の間をわざとか知らないが、突き抜けて行った。

あのサラリーマンは仕事の移動途中だったのだろう。凄く気持ちが分かる。だが僕の場合は別に決まった予定がある訳ではなかったから、滅茶苦茶うざくて後ろから蹴りを入れたい気持ちは山々である訳だが、そのサラリーマンに比べたらまだ心的余裕はある訳だ。僕は心の中で同情しながら人混みの中を歩いて行く。

西武新宿駅あたりまで来るともっと最悪だ。今度は大きいキャリーケースを持った外国人たちが歩道を占拠している。歩こうと思っても邪魔である。都会を散歩していて1番ムカつくのが、歩いている途中にいきなり止まることだ。あれには本当に困る。何の前触れもなくいきなり止まられるのは非常にいい迷惑である。大概いきなり止まる人はスマホをずっと見ながら歩いている人と観光客、そしてカップルだ。

僕は散歩する時は基本的にスマホを見ないので、咄嗟のそういった状況には対応できるが、それにしてもムカつくのである。僕はいつも思うのだけれども、「歩きスマホ」しながらよく歩けるなと。それに目の前に広がる外の世界よりもスマホの世界が大切ならばそもそも外に出るなとも思う。歩いてスマホを見るより折角外に出ているのだからその雰囲気を感じればいいのにと思うのだけれども、僕は勝手にそういう人たちを哀れみの眼で見ているというだけの話である。

新宿東口、アルタ前に来ると、もはや地獄絵図だ。最悪だ。本当にゴミだ。


そんなこんなで何とか明治神宮に着いた訳だが、ここも人が多い。もう人の多さは諦めるとしても、それにしてもあまりにも多すぎる。しかも、今度は外国人観光客が明治神宮を占拠している。まあ、それはそれで別に構わないのだけれども、僕は何だか外国に来ているみたいな感じになる。何だか不思議な感じだ。

鳥居をくぐって入ったのだが、まあ「自然」が広がっている訳だ。都市特有の「自然」である。これについては過去の記録でも書いている。

それで僕は最近考えている世界と「世界」、自然と「自然」ということについて考えてしまった訳だ。

僕はどうも都市部の公園と言われる所の「自然」というのは変な感じがして仕方がない。周囲を見渡せばビル群があり、樹々の間からはそれが垣間見える。結局、ここに存在しているのは僕等の身勝手によって作られた「自然」であるのだなと思う。そもそも、これも前の記録で書いたけれども、僕等は土に埋まる以外では本来的な自然を感じ得ないのではないかと思っている。今日、それが本当に身に染みてよく分かった。

僕等が「自然」という場合、あるいは「世界」という場合、あくまで僕等つまりは人間という存在が前提にあって考えられる訳だ。人間というものが中心にあってこの世の中は動いている。そこにあるあらゆるものを人間が使いやすいように改変に改変を重ねる。常に堕落を求めて周囲の環境を変化させていく。世界も自然も。そこに存在している世界と自然も改変に改変を繰り返し、今までは上手に向き合えて来たものが段々と人間化しているのである。

これを産業革命以降にそうなったとか、そういう社会学的なことを別にここで論じるつもりは更々ない。だが、あまりにも人間という存在がこうも傲慢な存在だといつも感じさせられる訳だ。というように書いている訳だが、事実僕もそういった技術の進歩による利益を得ている訳だからあまり大仰なことは言えない。偉そうにここまで書いている訳だが、そもそもそういう進歩の中でnoteが生まれこうして書けているのだから、文句を言う筋合いがある訳では決してない。

それでも、やはり上手く向き合えていないという様な気がしてならない。何と言うか「はいはい、自然をそこに置いておけばいいんでしょ」みたいな感じが都市部の所謂「自然」にはそれを感じてしまう。だから毎回毎回公園に行ったりするとその人間の嫌らしさをまざまざと見せつけられる気がしてしまう。それでも僕はその「自然」を求めてしまうことにほとほと愛想が尽きてしまう。僕は一体何の為に公園に行くのか。

いや、東京は自然との共存というか、そういうのがマジで下手くそなんだと思う。それこそ「お前ら、自然を感じたいんだろう?だから、ほら、置いといてやったぞ」みたいな感じがある。何だか馬鹿にされているような感じがするし、逆に「ほれほれ、これがお前らの醜さだ」と言われているような気がしなくもない。


それで明治神宮には皆が皆スマホを片手に歩いている。誰もそこにある「自然」、それが仮にそういう人工的なものであってもだが、感じるよりも撮ることに主眼が置かれているような気がしてならない訳だ。僕はそれがどうも気持ちが悪い。自分たちで自然を求めて「自然」というものをわざわざ作ったのに、それを「私は自然を感じている」みたいな感じでスマホで写真を馬鹿みたいに撮る。やっぱり人間は馬鹿だなと思う。

何度も言うようだが、僕も現代のそういう技術の進歩による恩恵は受けている訳だ。だからスマホに頼って生活している部分も沢山ある。スマホなしでは生きていけないような生活になっていることは言うまでもない。だが、せめてそこで人工的な「自然」をわざわざ作ったのならそれを感じろよとは思う訳だ。本来の自然を写真に収めるとはまたこれは話が別だ。例えばオーロラを写真に撮るとか、ウユニ塩湖で写真を撮るとか。それとこれとは話が別である。

僕は特にだが、こういう「自然」の場でスマホを振りかざしている人を見ると本当に馬鹿だなと思う。スマホに広がっている「世界」は「自然」とどうように「世界」なのである。既にそこに存在している物ではなく、僕等が堕落するために作られた「世界」である。そしてそこに本来の世界が在ると思って生きている感じがして僕はどうも嫌だ。せめて外に出る時ぐらいは、人工物にまみれている「世界」だけれども、そこから抜け出して世界を感じることは重要であるように思われて仕方がない。

僕は黙々と歩いた。上を見ながらずっと歩いた。木々の間から差し込む太陽の光。しかし「自然」とは言え、こういう景色は好きだ。あの余白のある景色には落ち着くものがある。隙間から見える空。限られた世界。あの奥にもし手が届くとしたら、きっと何が見えるのだろうか。あそこを突き抜けた先には何が見えるのだろう。もしも僕に翼があったなら…。

しかし、そこに広がるのは灰色でしかない。

この場所にはきっと何もない。空虚な空間が広がって行くに過ぎない。東京は何処まで行っても空虚が広がっている。どこを歩いてもどこを見渡しても、どう自分を変えようとも、結局そこに広がっているのは都市空間という空虚が広がっている。歩いても歩いても歩いても、そこには何もないきっとそういう場所なのだ。どこまで行っても空虚だ。


そそくさと明治神宮を後にし、何だか歩いていること自体が馬鹿馬鹿しくなって電車で帰ろうと思った。しかし、神楽坂に戻る為には東西線に乗らねばなるまい。そうなると、原宿か代々木から山手線で高田馬場へ向かうか、あるいは渋谷まで頑張って歩いて半蔵門線で九段下まで行って戻るかの2択である。定期のことも考えて仕方がなく渋谷に向かうことにした。

渋谷に近づくにつれて絶望する。

新宿も最悪だったが、渋谷はもっと最悪だ。匂いは強烈だし、皆スマホばかり見ながら歩いている。何度僕はぶつかりそうになったことか。スクランブル交差点なんかもっと最悪だ。あれは本当に気持ちが悪い。だが、電車に乗るためには仕方がない。我慢しながら歩く。それでも我慢ならないことはある。こんな場所からさっさと抜け出したい。僕は気づかないうちに走っていた。ラグビー選手になりたいと今日ほど感じたことは無い。

僕は必要最低限の用事がある以外は2度と渋谷には行かないと心に誓った。

そんなこんなで何とか無事に戻ってこれた訳だが、何だか久々に運動疲れしたみたいな感じだった。人混みに疲弊したということも当然にあったのだろうが、しかしそれ以上に今日は足早に歩いたし、走ったりもした訳だ。自宅に戻り僕は泥のように眠りについてしまった。玄関でそのままぶっ倒れ寝てしまった。

僕はこの空虚な場所で何十年も過ごさねばなるまい。だから今のうちに自分が自分らしく入れる場所を探し求めるとしよう。神保町と自室以外には僕は東京で好きな場所がない。僕が僕であれる場所はない。しかし、昨日の記録で書いた訳だが、会社もいずれそういう場所になっていくはずだ。結局、自分で切り開いていくしかないのだ。

僕の居場所は何処にあるのだろうか。この空虚な世界で、僕は何を求めて彷徨うのだろうか。やはり僕には本だけが生きる場所なのかもしれない。僕自身も空虚な存在なのだ。僕はこの東京という街に染まりたくない。この空虚な場所に身を埋めるつもりは更々ない。僕は僕らしく僕について模索し続けるだろう。しかし、皮肉なことに自分を模索していく為にはその空虚な空間を歩き続けるしかないのだ。

東京は憂鬱だ。生きづらい場所だ。

よしなに。


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