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『with -holic』(2)

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 白い天井を見上げていた。知っているが馴染みの薄い天井だ。
 肩で息をしながら上体を起こす。じんわりと汗をかいている顔に手を当てながら頭を回す。部屋を見渡し、出張先のホテルだと思い出した。
「ゆ、夢か。ゲームだったらバッドエンドだな。…あんな最後はヤだな」
 ベッドから出てカーテンを開ける。眼下には大阪の街が広がる。朝の柔らかな陽光が部屋を明るくしてくれるおかげか、次第に落ち着いてきた。仕事の事を考える。
 今回のプロジェクトは納期がかなり短く設定されていたので、正直やる気がわかなかったが、手を付けてみれば案外すいすい進んだ。同じチームの同僚も進捗は滞りなかったようで、出張の確認と仕様書の受け取りで出社した時に顔を合わせた際には、いつもよりも遥かに血色の良い顔を見せあった。久方のベストなスケジュールで穏やかになった心を、双方とも目に宿していた。
 クライアントの依頼通りに仕上げたプログラムの提供や仕様書の受け渡しなどやることはあるものの、いつも通りやれば問題はない。出張とは言え、大阪まで来て息抜きをしないのも勿体ない。少しくらいなら飲んでもいいだろう。
 窓の外を眺めながら伸びをしていると、隣の部屋から女性の喘ぐ声が聞こえてきた。暴力沙汰でも起こっていたら大事だが、どうやら朝からお盛んなだけらしい。そういえば昨日女性が隣室を出るところとすれ違った。スマートフォンで面接がどうのと話していたのを考えるに、おそらく就活中の大学生だろう。人生の転轍点に何をしているんだか。
 いよいよ盛り上がってきたのか、テンポが速まってきた。もしかして昨晩も同じことをしていたんじゃないだろうな、と疑った。昨日眠りに落ちる前に男女の話声が隣から聞こえたのを思い出したからだ。てっきりスピーカーで通話していたのかと思っていたが、どうやらあの時から男はいたらしい。
昨日の新幹線で隣の席の客のマナーがなっておらず、ストレスと疲れを溜め込んだ移動となり、熟睡していたから気付かなかったのだろう。しかし一度知ってしまえば気になるもので、隣から聞こえてくる声で長らく仕事で忘れ去られていた性欲を思い出した。仕事終わりに発散させて明日帰ることにする。
 フロントと同じ階にある朝食会場でバイキング形式の食事を楽しみつつ、夜の予定を考える。未だに夢に見た元カノの空虚な目がちらつく。だが考えすぎもよくない。出張先だし、ホテヘルを利用することに決めた。
 クライアントのオフィスで打ち合わせと一連の業務を終えると、夕方から自由の身となった。不測の事態も考慮し、リフレッシュも兼ねて上司には二泊許可されたため、飲みに行きたい。そこでホテヘルでもなんでも調べればいい。
 ノリで入った居酒屋が大変居心地がよく、食事も酒も旨かったため、本来の目的を忘れかけたが、酒が入るとますます性欲は高まるばかりで、結局は付近のサービスを調べ始めた。
 居酒屋からそう遠くない所に口コミの評価の高いホテヘルが利用可能だったため、惜しみながらビールの最後の一滴を堪能した。会計に立とうとしたところ、いつ注文したかもわからない厚揚げを店員が持って来た。注文していないのに伝票には書かれているという。問答するのも面倒だったので、仕方なく座り直しサワーを追加で注文し、厚揚げを平らげた。
 ホテルに到着し、受付で好みのタイプを伝える際、何となく夢と同じ轍を踏むのは憚られたため、細身スレンダーは避け、年下で小柄な女性を選ぶことにした。顔も雰囲気も好みだった。今まで年下に手を出したことはないが、偶には悪くないだろう。
「三番で」
「かしこまりました」
 すぐに来れるとのことだったので、案内された九番の部屋でとりあえずシャワーを浴びた。少なからず入っていたアルコールが体中を満たすように感じたが、着替え終わる頃にはそれも落ち着いていた。
 少しして、ドアをノックする音が聞こえた。なぜか既視感をおぼえた自分の思考も等閑に、ドアを開けた。そこには、縮んだ三久が居た。
「久しぶりだネ」
夢の中の三久と同じ目とトーンだった。
 
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「あなたの好みはわかってるんだっテ」
恐ろしい台詞だ。わかったところで自身とそれが合致するとは限らないだろう。だが地雷を避けて通ったつもりだった道に立ちふさがるように、目の前には三久が立っている。台詞は「だから、そうなってきた」とでも続くのだろうか。
 背丈や顔は当然変わっていて、受付で見せられた写真そのままだった。そもそも変わっていなければ、受付で写真を見た時点で気付く。しかし目の前の女が纏い、発する雰囲気そのものは三久のそれであり、相対すれば一発でわかるものだ。
「お、おまえ…」
「今日ね、あ、昨日か、夢を見たんダ。あなたと会う夢なんだけど、どっかマンションに呼ばれてネ? 結構階が上だったからめんどくさいなあとか思ったんだけど、夢だからサ、 気づいたら部屋の前。インターホンで聞いた声が、私にはすぐにあなたの声だってわかったから、ちょっとビックリさせようと思って顔伏せてネ」
 知っている話を二回以上聞いて面白かったことなんて数えるくらいだな。自分が見た夢の別視点のような話を語り始めた彼女に対して思うことなんて、それくらいだった。
「そしたらあなためちゃくちゃビックリしててエ。なんか泡吹きそうになりながら『チェンジだ!』とか言ってたんだヨ。私『チェンジ』って言われたの、あれが初めてだったんだかラ。ちょっと傷ついたなァ」
何を言っているのか、わかるような、わからないような。しかし目の前の女が間違いなく三久であるという認識だけが、確たる根拠もないままに強くなっている。
「なぁんか今日会えるかも、なんて思ってたらさア? こうして呼んでもらってェ。正夢なんて初めてだったなァ」
 気付くと彼女は部屋に踏み入っており、自分は尻餅をついていた。手に滲む冷や汗が、カーペットに吸い込まれていく。立ち上がれないまま、じりじりと部屋の中へ後退させられる。
「年下で小柄なコとイチャイチャしたかったノ? それともイジめて鬱憤晴らしたかっタ? お酒も飲んでるんでしょ、お仕事でお疲レ?」
「な、なんで、そんな…」
矢継ぎ早な問いに答えようとしても、口腔は唾液で粘つき、舌も回らず、言葉も出ない。
「なんでって、あなたが選んだんじゃン。好みなんでしょ、コレ」
「そ、そうじゃなくて、なんでお前が…。俺はお前を選んでない!」
「こういうこともあるよネ。卵が先か、鶏が先か、みたいナ。私を呼んだのか、呼んだら来たのが私だったのカ。箱に入った猫みたいだネ」
「ハア?」
 先ほど胃につめたあれやこれやがぐるぐると音を立て始めたのと同時に気分が悪くなる。浮遊感を覚え、視界がゆがみはじめたとき、いよいよマズいと思った。
「久々に二人きりだし、じっっくり、楽しもうネ。注文通り制服、ちゃんとあるヨ」
 三久が鞄を床に下した。金属の擦れる音を遠くに聞いた。気付けば、店を出て外を走っていた。口の中で酸味と鉄臭い苦味が混ざり合っている。どこか、どこかあいつのいない所まで行かなければ。暗いんだか明るいんだかわからない景色の中、アスファルトを踏む靴の音と自分の喘ぐような呼吸音だけが、確かなものだった。
 視界と意識がハッキリした時には、柔らかな絨毯の上に両足を揃え、弾力のあるベッドに腰を下ろしていた。シャツと身体に滲む水分は汗なのか、シャワーの拭き残しなのか、どちらかわからない。とにかく暑くて仕方がなく、リモコンを探す。
 少しして、ドアをノックする音が聞こえた。なぜか既視感をおぼえた自分の思考も等閑に、ドアを開けた。そこには、目線の高さが同じくらいの三久が居た。
「オプションの人妻…」
声を後ろに聞きながら、エレベーターを目指して走っていた。下で待機していたエレベーターは、焦らすようにゆっくり上がってくる。
「お客様!?」
受付の声を無視して自動ドアに肩を擦りながら外に出る。
 大丈夫、いくらでも店はある。
「コスプレなんてどうです?」
「何でもいい、アイツじゃなければ。…三十九番」
「はあ」
 部屋の照明をとにかく点けてまわり、ベッドに腰を下ろし宙を仰ぐ。誰でもいい。誰か。
 ドアをノックする音が聞こえた。既視感どころの話じゃない。何回目かも忘れ、ドアを開けた。そこには、ナース姿の三久が居た。
「いい加減にしろっ!」
 歩道に涎やら胃液やらを吐き散らしながら、次を目指して走る。走っている、はずだ。
「くっそ…っ!!」
 受付にいる男は胡散臭い笑みを顔に貼り付けている。
「…三十九…」
「かしこまりました。オプションとして…OL風なんてどうです? 無難ですが」
頷くだけで精一杯で、声は出なかった。
「お部屋でお待ちください」
 部屋の隅で毛布にくるまっていると、自分がどこにいるのかわからなくなってきた。なぜこんなところに居るのか。仕事? 遊び? 酒は飲んだっけ。今は何月何日の何時だ。
 ドアをノックする音が聞こえた。暑くて、汗まみれの毛布を床に落とした。見えるものも考えてることもボンヤリとしたまま、ドアを開けた。そこには、スーツ姿の三久が居た。
「…もういい」
 小さく敬礼する彼女の前で、文字通り膝から崩れ落ち、もう二度と立てる気がしなくなった。
 三久の声が聞こえる。
「楽しもうネ。オプションも延長もしてサ」
 しない。その一言さえ、遂に出なかった。

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