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『with -holic』(1)

 目の前のデスクトップパソコンの電源を落としたのを確認した。書斎を出てリビングへ向かう。空腹なので、フードデリバリーサービスで何を注文するか考える。特に理由もなくカレーを選んでいた。チキンやビーフ、キーマなど、三択ほど思い浮かんだが、どうせ全部同じだし、どれでもいいな、と思った。
 リビングに入り、壁に掛けてある時計を見ると、もう既に一九時を回っていた。夕飯を済ませたら何をするか考えながら、ゴミ収集所に出しに行く。テレビで映画を観るのもいいが、酒がないと退屈になってしまうのでなかなか気が乗らない。
 ゴミを出した後、ポストにチラシが挟まっていたので取り出した。よく見るとそれはデリバリーヘルスのチラシだった。このご時世にこんなことあるのか、と思ったが、たまには棚に牡丹餅があってもいいよなと開き直り、どの女にするか選びはじめた。
 部屋に戻ると、二択まで絞っていた候補をよく見比べ、最終的にはバストサイズの大きい方を選んだ。顔はもう一人の方が好みだったが、己の性癖には素直に従うことにする。
 チラシの下部に載っている番号に電話を掛けると、受付らしき男が応答で出て来たので、早速誰にするのかを伝えた。
「この三十九番のミライって娘でお願いします」
「ミライですね、かしこまりました。ショートカットで、攻めが得意な娘ですよ。今からそちらへお送りします」
一言多い受付にネタバレを食らった気もするが、好みの女をチョイスできたので気にしないことにする。そこでインターホンが鳴った。早すぎないかと疑ったが、先ほどフードデリバリーを頼んでいたのを思い出した。そうだった、頼んでたんだ。忘れてた。
 配達員から受け取った袋から缶ビールを取り出すと、迷う暇もなくプルタブに指を掛けていた。己の手の早さに感心しつつ、暗い飲み口を見つめる。
「ま、開けちゃったし、いいか」
声に出すことで罪が軽減されるわけではないが、自己正当化には十分だ。
袋からカレーとサラダを取り出す。先ほどもう一方のサービスを呼んだばかりだから、これらは冷蔵庫にしまう。ビールを少しずつ飲んで待とうと思ったが、もう缶は軽い。
 
           〇               
 インターホンが鳴ったので出てみると、ミライが到着したことを画面越しに告げた。
「はい」
「あ、サービスをご注文頂いたミライです」
「あ、はい」
やけに丁寧だった。どこかで聞いた声だった気がしたが、思い出せない。
 廊下を進みドアを開けると、住宅街の街灯と夜の空を背景に、一人の女性が立って下を向いていた。
「あの、ミライさん、ですか」
「はイ」
そう応えながら顔を上げた彼女は虚ろな目をしていたが、まじまじと顔を見てようやく、先ほどの引っ掛かりの正体がわかった。雰囲気こそ変わったが、紛れもなく、元カノだ。
「…っ、えっ…? 噓ぉッ…!? はぁ?!?」
「噓じゃないヨ…。久しぶりだネ」
 一体何の冗談だ。これは一体何の冗談だ。別れて一年以上経った元カノが今、目の前にいる。しかもデリヘルだ。チラシを見た時には全く気が付かなかった。
「写真はほんのちょぉっ…と、加工したやつだヨ。まあ、メイクも服も前はこんなじゃなかったし、雰囲気は変わってるよネ。気付かなくても無理ないけど、でも予想通リ」
驚きでまともに言葉を出せないでいるこちらの心の内を見透かしたかのように、彼女は空っぽの目で笑っている。
「こんなのがタイプなんでショ? 浮気した時のあの女もこんな感じだったもんネ」
「ち、ちが、あれは浮気じゃない。仕事の相談に乗ってただけ」
「言い訳もちゃんとあの頃と同じだァ。覚えててエライ」
「言い訳とかじゃなくて…っ」
今更弁解など必要でもないのに、必死に記憶を掘り起こして言葉をギリギリ繋いでいた。それでも頭の中は疑問符と感嘆符で埋め尽くされている。
「ミ、『ミライ』って名前は源氏名か、三久」
「そうだヨ。漢字で『未来』って書いてミクって読む子が同僚に居て、あやかったんダ。いい娘だヨ」
 気付けば三久がドアの主導権を握っている。せめて部屋には入れないように、一歩も退いてはいけないのはわかった。
「入れてくれないノ?」
 今握られているのは、ドアの主導権だけ、のはずだ。
「あなたのタイプになって帰って来たんダ。帰って来たと言っても、この部屋は上がるの初めてだけド。ねえ、早く入れテ。あれ、お酒のにおいがすル。また飲んでたノ?」
 三久のその言葉に、三歩ほど後退させられたように感じた。言葉の代わりに口から漏れ出す息から微かに酒のにおいがするが、気分は全く酔っていない。
 開け放したドアの向こうから夜風が入り込んでいるのか、背筋を汗が伝っているのか、ハイライトの消えた三久の目を前にして、薄ら寒いものを感じていた。
「お酒飲む時はいつも疲れたときだったよネ。お疲れだったから呼んだノ? 嬉しいなァ。今日こうしてまた逢えたからいいけど、別れた時は辛くてさァ? ほら見て、マネージャーには包帯しとけって言われてるんだけど、こコ」
そう言って三久は左手を揚げ、手首をこちらに向けた。
「好きな人に浮気されることって、どう切り取っても悲劇だよネ。ロミジュリは絵本にできるけど、私のは傷痕にしかならなかったんだァ。おんなじ悲劇なのにネ」
 慣れた手つきで包帯を解いた三久の左手首には、痛々しいなんて形容では及ばない、生の諦めがまざまざと刻みつけられていた。
「でもさ、おんなじ悲劇なんだから、私もヒロインだよネ。愛されなくてもヒロインになれるんダ。私がヒロインってことはやっぱりあなたはヒーローだヨ。ヒロインはヒーローと結ばれなきゃネ」
 滔々と語る三久を前に、もう何も言葉にできなくなっていた。付き合っていた頃の三久とはこんなにも語る性格だっただろうか。そして自分は今、責められているのか、それとも求められているのか、判然としない。別れる寸前、浮気がバレたとき、激高こそしなかったものの、三久から何かが抜けていったように見えたのを思い出した。
 下がろうと思ったのに三和土と廊下の間の段差に踵をぶつけて体勢を崩し、玄関マットに尻餅をついた。もう何も考えたくない。だが、何か、何か言わなければ。
「チェ…」
自分の声なのに遠くに聞こえる。なにか騒がしいと思ったが、自分の内側から重低音が響いていることに気付いた。口からもうるさい嗚咽が漏れている。
 風俗の広告を大音量で垂れ流すアドトラックが視界の端に見えた気がしたが、街頭からは音ひとつ聞こえてこない。聞こえるのは速くなる鼓動と過呼吸寸前の吐息だけだ。喘ぎながらも、口の中に溜まった唾液ごと吐き出すようにようやく大声で叫んだ。
「チェンジ! チェンジだよ、こんなの!! なんでいきなり三久が来て、居るんだっ! もういい、要らないっ! ノーサンキューだ、こんなの、チェンジだぁっ!! 」
一息で言い切り、身体から酸素が抜けきったのか、目の前が白くなってきた。三久の輪郭がぼやける。彼女の上がった口角と半月形の紅い唇だけが、ハッキリと見えた。

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