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お向かいさん(掌編小説)

あたしの朝は早い。
日の出と共に起床とまでは言わないけど、新聞が投函される前にはもう起きて外で一服するのが日課。
赤い朝日とぴちぴちした風になぶられながら、ぼーっと煙草を吸うのはまさに至高のひとときさ。

ところが、その一日の神聖な儀式をいつも台無しにしてくれる奴がいる。
斜め向かいに住む昭和初期生まれの老人だ。
あたしがまったりと紫煙をくゆらせている最中、決まって騒々しく玄関のドアを開けて外へ出てくる。
ポーチの階段を降りながら、毎度することは喉を振り絞っての痰切り。
初めてその声を聞いたときは、発作を起こしたのかと思わず駆け寄りかけたほどだった。

次に爺さんは、自宅前の大きな桜の木に立てかけてある簡易梯子をよじ登る。
もちろん、それは彼がこよなく愛する小鳥たちへの朝ご飯を届けにだ。
恐らく齢八十には手が届くであろう老体の身で、毎朝365日欠かさず行うこの行動は真に敬服する。
小鳥を愛するお年寄りとして微笑ましい。と、誰もが思うだろう。
が、続きがある。
爺は餌台を据え付けた太い枝の間から顔を出して、四方八方を睨み回すのだ。
向こう三件先の造園屋の松の木に鋭い一瞥、二件隣りの無線用鉄塔にまた一瞥、そしてあたしんちの目の前に聳え立つ電信柱にとどめの一瞥。
その眼光の鋭さときたら、蠅だって気絶しちまうほどだ。

何を見てるかって?
それはあれさ。生き物の中で一番頭がいいんじゃないかってあたしは思ってるんだけど、日本じゃお馴染みの烏の勘左衛門さ。
こいつは爺の天敵でね、この黒い強盗集団を蛇蝎のごとく嫌っている。
爺のすごいところは睨みだけじゃ収まらない。
この烏たちに向かって威嚇するんだよ。烏言葉で。カアカアと。
その様子はまるで雛を守る親鳥のような鬼気迫る迫力さ。
この時刻、ご近所の皆さんは大抵まだ夢の中だろうから、このカア助がよもやご隠居のお声だとは夢にも思ってないだろうね。知っているのは、あたしと新聞配達のおばさんくらいだろうさ。

烏たちにしてみれば、理不尽な仕打ちだろうね。
毎朝目の前で餌を撒かれて、おまえらは食っちゃなんねえと恫喝される。
同じ鳥類なのに、小鳥たちはよくてどうして自分たちはだめなのか。
こんな酷い話があるかい。エコ贔屓もはなはだしい。
これは立派な鳥種差別だね。あたしにはあんたたちの憤りがよくわかるよ。

話は戻って、爺は気が済むと梯子から降りて家の周りを徘徊する。
そして、そこで初めてあたしに気が付いたフリをするんだ。
まあ、その憎たらしいこと。挨拶をしても耳が遠くて聞こえないふりをする。つまり知らん顔さ。
ステテコに腹巻という寅さんみたない出で立ちで、あたしに尻を向けてしゃがみ込むんだ。
あたしはそんな姿を一日の始めにいつも目に焼き付けながら、出勤の支度をしにわが家へ舞い戻るのさ。
なんだか、爺の生態を毎日克明に観察し続ける学者さんにでもなったような気分だね。

そんなある日、爺がぱったりと現れなくなった。
鬼の霍乱かと二、三日はあたしも気がせいせいしてたんだけど、さすがに五日目ともなると気になって仕方がない。
目障りな存在だったはずなのに、最近心の隅に微かな隙間風が吹く感じがするのはなぜだろうね。
あたしらしくもない。柄にもなく、「諸行無常」なんて言葉を思い浮かべちまったよ。
天敵がいないもんだから、烏どもときたらすっかり我が世を謳歌しちまって、造園屋・鉄塔・我が家の電信柱はすっかり魔の三角地帯になっちまった。
今更ながらに爺さんの魔除けならぬ烏除けの力は絶大だったのだとつくづく思い知ったね。

なあんて思いながら、その朝も煙草を美味しくのんでいた時だった。
まあた勘左衛門たちが騒いでるなと苦笑いして、向かいの桜の木を見上げてみると……。
雀が烏に追われ、苛められている。いや、よく見るとあれはヤマガラだ!
そう気が付いた途端、あたしはとんでもないことをやらかした。
「カア! カア! カアッ!」
時、すでに遅し。
烏どもが逃げ、我に返ると頭上に何やら人の気配が。
はっと振り仰いだその先には、二階の窓からカーテンをめくってあたしを見下ろしている爺さんのなま白い顔がった。
…生きていたのか。いや、そうじゃなく、敵に弱みを見せてしまった心境であたしは金縛りにあってしまった。
それからどうやって家に戻ったか、記憶が定かではない。当然爺さんの表情も覚えていない。

それから二日過ぎて、爺さんの朝の奇行は再開された。九日間の休暇後とはいえ、勢いは少しも衰えてはいない。
ただ、一つだけ変わったことがある。
それは毎朝あたしの顔を一度だけしっかり見据え、ニヤリと笑いかけてくるようになったことだ。
爺さんの中であたしは一段階認められたのだろう。
恐らく、彼なりの神聖な儀式の末座を汚してもいい程度には。
正直言って複雑な心境だよ。




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