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もう説得しない。メスとして輝く。自分の言葉に隠されたトラウマ

前記事の何気ない言葉から、みつけてしまった。

いや、もう嫌という程向き合ってきた。

分かり切ったことだ。

 最近、米国ドラマ”This is us “シーズン1 をみていた。三つ子の育児、きょうだい間の摩擦と愛、二人の偉大な父の喪失、表現者としての顔をおさえてきた母、夫婦、パートナーシップ、そしてユーモア。すべてのキャラクターが自分の中にいて、本当に神がかっていた。

 子どもたちが今月に入って順に春のデトックスのような風邪をひき、ことごとく美容院の予定をキャンセルすることになり、生まれて初めて染めよう!と  (この思いつきについてはまた別の機会に書くとして)ワクワクしていたのに、完全にくじかれた気分でいた。

 体力的にも、メンタルでもいっぱいいっぱいで、添い寝で寝落ちの日々も続いていた。でも看病で缶詰めのこの時期に、この作品に出会えてほっといたら出しきれなかった涙をたくさん流すことができた。

これが私の春のデトックスだった。


私は10歳でいとこの一人を、20歳で父を

なんの心の準備もなく亡くしている。

 その喪失感も、別離の経過である 怒りや反発や許しや悲しみにも向き合ってきた。一つ一つ押し込めていた感情を、書き、話し、泣き叫び、自覚することで手放していった。

(10年間綴ってきたブログはそういう場所だったのだろう。)

でも、きりはない。

一生付き合っていく、私の原体験なのだ。


“What’ the Color we lost ?”

「あるはずのものがなくなるとパニック」

ごく軽いつもりで書き残したエピソードに、それが濃縮されていたことに気づいた。

 ものをなくすことがすごく嫌だ。というエピソードは、五行詩でも書いたことがある。幼い頃大事にしていたぬいぐるみを出先でなくした悲しみを体はまだ覚えていて、その時のイメージを私に見せた。

 しかし、その後の大きな喪失体験は、さらにそれに輪をかけて、すべての出会い、人やものやコミュニティへの不要な執着を生み出していたのかもしれない。

私を振り回すすべての不要な他者への執着も。

いつも探していた。

私を真に満たすなにかを。

子どもを産んだこともその範疇に含まれるかもしれない。でも三人目を産む前に、はっきりと喪失感は完全には消えないと教えてくれた人にも出会った。それで納得したと思ってた。


それでもなお、私の体は叫ぶ。

まだ流せる涙が私の中には無限にある。

私はなにをなくしたの?


頭ではわかってる。

なにもなくしていない。

すべて満たされていて、活かされ、守られている。

すべてがある。

でも体は納得してない。

どの瞬間もその悲しみを忘れていない。

愛してる。

そんな自分をまるごと抱きしめて、いざ春分を迎えよう。

もう説得はやめる。

私は私そのままに、わがままに

いつだって ヤリタイだけの動物らしく

おしゃれして、おどって、笑って、

余すことなく

いのちのまま 美しくある!

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