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「守る」と「かばう」 ―教員の不祥事について考えるー その2

私は、現在の学校の多くの問題は学校の制度疲労が原因だと思っています。まじめな教員ほど、制度疲労を起こした学校制度と現実に起こる問題との狭間で苦しんでいます。
特に、学級制度はもう限界に達しています。
学級は、明治24年(1886年)の「学級編成ニ関スル規則」で初めて現在とほぼ同じものとなりました1)。

今もこれを根拠としているかどうかはわかりませんが2)、このときにそれまで採用されてきた「等級制」を廃止してほぼ今の学級の形が成立しました。100年以上同じシステムが続いているのですから「制度疲労」が起こっても不思議ではありません。

とにかく、強制的に所属する学級が決められ、それを変更する要求はよほどでない限り認められない超閉鎖的な空間の中で、いじめられた子が行き場を失い、不登校の子が復帰するきっかけを失っています。
教員はその子を何とかしようと懸命に頑張りますが、いじめにしても不登校にしても学級制度があまりに頑強であるために解決の道は閉ざされているのです。
学級がせめてもう少し柔軟な組織であれば、普段から子どもたちにさまざまな居場所をつくることができます。

大学では深刻ないじめは小中高に比べて非常に少ないといわれています。
それは、集団が固定されていないからです。
自分と合わない者がいても、嫌がらせをしたとしても、それが限定された場と空間で済むからこそ問題は深刻化しないのです。強固な学級制度のままでは、いじめられた子の戻るところは元の学級しかありません。
悲劇的なのは、そういう子どもたちが学級に入れないことを、次第に自分の責任だと自分を責めるようになることです。こんな理不尽が許されていいはずはありません。

だからこそ、本来ならば文科省はもちろん、教師や生徒、教育委員会、そして保護者や地域が一丸となって、本当の意味で子どもにとっていい学校(学級)とはどうあるべきかを考えなければならないのです。
それなのに、犯罪まがいの行為をする一部の教員がいることで、本質的な問題を論じることが困難になってしまいます。
つまり、「システムがどうのこうのという前に、教員の問題行動を何とかする方が先だろう」とか「教員の責任をシステムせいにするのは詭弁だ」という見方が広がってしまうのです。

そういう意味でも、有形力の行使をした教員は、即刻公の場に出し、場合によっては警察に介入してもらって徹底的に捜査すべきです。
学校の中だけで対応しようとするから、問題を長く引きずることになり、学校不信は深刻なものになるのです。

いまや学校は、一部の問題教員にかまっているような余裕はありません。冷たい言い方かもしれませんが、教員を特別視することなく、一般の人と同じ手順で「処分」すべきはすべきです。

学校を守る、職員を守るというのはぞういうことです。
「守る」と「かばう」を混同してはいけないのです。

1)寺﨑昌男・平原春好編(2002)『新版教育小事典』(学陽書房、p37)

2)この点についていろいろ調べたのですが、いわゆる標準法も学習指導要領も当然生徒指導提要も学級の定義は明治24年の「学級編成ニ関スル規則」以外には見つけられませんでした。そこで、文科省に直接電話して聞いてみたのですが、後ほど私の携帯に電話しますと言われて、もう2年以上が過ぎました。

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