「光と闇と、魔法使い。」第33話

猛獣

 ご自由にお通り下さい。まるでそう言っているかのように、マリベル村へ続く町の出口は奇流の目の前にある。奇流は思わずその場に立ち止まった。そして約束の時間に現れた女性に手を振る。
「おはようございます、キリハラさん」
 キリハラは「おはよう」と返すと、奇流の隣にいるスイに目を奪われる。
「君は」
 足元が地面に接していない。そして目をスイの顔に向けると、それに気が付いた奇流が慌てて説明に入る。
「あ、こいつはスイ。平たく言えば魔法です、はい」
 雑な説明ではあるが、それ以上何と言っていいかわからない。しかし慌てて「あ! 光の方ね!」と付け加えると、キリハラの表情を窺う。スイが魔法であるのは間違いないが、それですんなり納得する人間は今の時代には少ないだろう。
 頭をかく奇流にキリハラは特段詮索せず、こちらに視線を戻してこう伝えた。
「俊成様の計らいで開けて下さった。この機会をきちんと利用しなさい」
 奇流は大きく頷いた。
「俊成様が馬を用意してくれたから、これで行きましょう」
 奇流は再び頷き、馬に向かって一歩を恐る恐る踏み出した。誰も咎める者はいない。それなのにあの光景が脳裏をよぎる。あの恐ろしい程鼻につく、血の臭い……。
 しかしすぐに目を見開き背筋を伸ばして進み出した。スイも奇流に続く。キリハラは腰に差した剣の感触を確かめるように触ると、奇流の後に続いた。キリハラの手を借り馬に跨ると、奇流は彼女の腰に手を回した。
「それにしてもよく許可が出たな」
 感慨深げに奇流は呟いた。生まれて初めて町を出る。眼前に広がるのは草原。商人の往来に使われる舗装された道を進む。草木のざわめきが耳に届き、冬の訪れを告げる冷風が肌を撫でる。見る物、聞く音、全て新鮮だった。それを噛みしめる。
「腐っても彼は王族よ。ましてや国王の長男。他の王族もそう無下にはできないでしょう」
 腐っても王族。俊成自身も言っていた言葉に、奇流は思わず苦笑する。

「あそこがメーベの森よ」
 キリハラが見据えた先――うっそうとした雰囲気が漂っていた。奇流ははやる気持ちを抑えそれを見つめる。次第にそこは大きく奇流達の前に現れた。メーベの森。その存在を名前でしか知らない奇流であったが、今まさに目の前にそれが広がっているかと思うと、何とも言えない気持ちになる。自分は紛れもなく外に出たのだと、改めて深く実感する。
 馬から降り、奇流は足を踏み入れた。じめじめした空気が肌にまとわりつく。地面も湿り気を帯び、所々ぬかるんで足を取られた。樹木の香りがむわっと鼻についた。枝が行く手を阻むように伸び、小鳥のさえずりはやまない。
 成程、これは荷物を背負って抜けるのは至難だ。奇流は自身の足元を見て思った。一方のキリハラは顔色一つ変えず淡々と先陣を切る。随分なれた物だと思った時、口を開いたのはスイだった。
「あなたの職務を教えて欲しいのですが」
 キリハラは振り返らずに声を上げる。
「私は城内の統制官よ。簡単に言えば城内外に目を光らせ、皆が円滑に仕事を進めるようにする役目なの。他にも国民への伝達事項の整理、学校と連携して、優秀な人材の発掘と育成。要は何でも屋よ」
 その他にも幾つか仕事内容を上げたが、一度に把握するには多すぎる量だ。しかしそれを感じさせない程淡々と語る彼女に、奇流は心の中で感嘆した。風丸が慕っている様子を思い出し、それもそうかと納得する。奇流が考える頭の固い城の人間、ではなさそうだ。
 その時――。スイとキリハラが同時に反応する。それに遅れた奇流であったが、素早くスイが奇流の前に立ちはだかった。同時に轟音が響く。奇流の全身がぴりぴりと波打ち、思わず身をすくめた。
「ギルアントだ! 下がりなさい!」
 キリハラは剣を引き抜いた。それは余りにも細く一見頼りなく見える。ギルアントと呼ばれる全身毛むくじゃらの獣は仁王立ちし、優に三メートルはある自身の巨体をこれでもかと大きく見せた。
 奇流は一瞬にして背筋が凍った。人を襲う獣――。友明の言葉が脳裏をかすめた。
 毛から僅かに覗く上向きの鼻が荒く鳴る。足を何度か地面に擦り付けると、それが始まりの合図になった。ギルアントはそのまま大きく踏み出すと、空を切り裂いて突進する。
 雄叫びを上げながら迫って来た。地響き。地面を揺らすそれは、奇流の体を恐怖で縛り付けるのに充分過ぎた。
 キリハラは逃げ出さず、それどころか素早い動きで間合いを一気に詰めた。ギルアントは右手を大きく振り上げる。鋭い爪でキリハラを引き裂こうとしているのだ。しかしそれは虚しく空を切る。キリハラは寸前に跳躍し、かわすと同時にギルアントの眉間を貫いた。
 轟音が大波となって辺り一帯に響き渡った。ギルアントが両手で顔を覆いながら、咆哮していた。しかしすぐに戦闘態勢に戻ると、キリハラだけを標的にし、全身を投げうつ格好で両手を上げて仰け反る。反動で威力を増幅させ、両手をキリハラめがけて叩きつけた。奇流は両目を見開き叫んだ。
「キリハラさん!」
 土煙が立ち込める。恐怖で身動きがとれない奇流は、何もできなかった。震える唇から僅かに息が漏れる。
「キリハラさん……」
 泣きそうな声色で名を呼んだ。ギルアントが鋭い目つきで、奇流を捕捉する。その瞬間心臓を握り潰されたような衝撃が全身を一気に巡る。
「あ……」
 ギルアントが一歩、また一歩と奇流に歩み寄る。自身の命の危機が間近に迫っていると言うのに、奇流の体は一向に動かなかった。圧倒的な恐怖心が全身を駆け巡り、逃げる選択肢を思い浮かぶのさえ阻止していた。
「奇流さん!」
 スイが叫んだ。いくらスイと言えども、この巨大な猛獣に打撃で向かうのは不可能だ。
「あなたの獲物はこっちよ」
 ギルアントの後方。唖然とする程の跳躍力で。細身の彼女が姿を見せた時、奇流の目は完全にそちらに奪われた。
 美しいと思った。自然に湧き起こったその感情のまま、見惚れて目を離せなかった。
「ギイイイイイイイイアアアアアアアアアアッ!」
 ギルアントの脳天めがけて突き刺さった剣は、煌めきを失わないまま獲物の命を絶った。キリハラはギルアントの頭上に立ったまま、静かに目線を下に向けている。
 少ししてキリハラは剣を引き抜くと、溢れた血が飛沫となって噴き出した。驚く様子も見せず、彼女は華麗に地上に降り立った。
「大丈夫?」
 息を一つ吐き、奇流に向き直る。奇流は言葉に詰まり、何度か頷いて自身の無事を知らせた。

 再び歩き出したキリハラの後ろで、スイは小さな声で奇流に言う。
「おかしいと思いませんか」
 スイの質問に、奇流は縮み上がった心臓を服の上からぎゅっと握り「ん?」と返す。
「兵士じゃない彼女が、何故あんな動きできるんですかね。迷いのない一連の流れは、まるで王牙レベルだ」
 スイは訝し気に前方に視線を送る。「……話が上手くできすぎている気がする」スイの懸念に奇流も押し黙ったが、ややあって返した。
「それでも今は行くしかないだろ」
 奇流は前を見据えた。スイは溜息をつくと「そうですね」と同調する。千載一遇のチャンス。これを逃せば、マリベル村へ行ける術はなかった。

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