ボードゲーマーに贈る「ワイナリーの四季:ザ・ワールド」の歴史的背景〈アジア編〉


ボードゲーム「ワイナリーの四季」とは

 アークライト/米Stonemaier Gamesより発売されているボードゲーム「ワイナリーの四季(原題:Viticulture)」は、両親から譲られた廃業寸前のワイナリー(ワイン醸造所)を立て直すワーカープレイスメントです。

 ワインに詳しくない日本人なので、ワインと言えばフランスのイメージが強かったのですが、ワインは古代ローマ帝国時代からヨーロッパ各地で広く飲まれており、フランス以外にもイタリアのトスカーナ、ドイツのラインガウ、ポルトガルやスペインなどもワインの名産地として知られているそうです。「ワイナリーの四季」の舞台もイタリアのトスカーナです。
 そしてワインはキリスト教で「神の血」として宗教儀式に必須のものとなったため、キリスト教と共にワインも世界中へ伝播し、ワインは世界各地で作られるようになりました。
 そうしたワイン生産の世界史をなぞりながら、全プレイヤーが協力し合ってワインの販路を広げる拡張セット、それが「ワイナリーの四季 拡張 ザ・ワールド」です。ただし時間は止まってくれません。

 この「ザ・ワールド」ですが、基本セットにはない「大陸デッキ」と呼ばれるイベントデッキを用い、基本セットにはない変則的な効果が採用されるため、用いるデッキによって難易度も変わってきます。この大陸デッキには7種類あり、架空の舞台を扱うチュートリアルデッキ「碧き峪」とアジア、ヨーロッパ、北米、オセアニア、南米、アフリカの6大陸が用意されています。
 6大陸のイベントデッキは、各大陸における実際のワイン生産史に沿ったものとなっており、ワイン生産に関わる歴史上の人物や出来事に触れながらゲームを進めることになります。
 今回はその中でも最も難易度が簡単なアジアデッキを題材に、アジアのワイン史を見ていきたいと思います。

インドとワイン

 そもそもブドウは1億6千万年ほど前のジュラ紀中期、まだ地球の全大陸が陸続きだった時代に、西アジアに相当する地域で誕生した植物と考えられています。当時は地球全体が温暖だったため、変異しながら大陸の広い範囲に繁殖した後、氷河期と大陸移動によってブドウの種類は激減し、分布は三つの地域に分断されました。西アジア、東アジア、北米大陸南部です。
 西アジアのブドウはチグリス川とユーフラテス川流域に栄えた古代メソポタミア文明からヨーロッパやエジプトへ伝播し、ヨーロッパブドウとしてワイン文化を育みました。実際、この辺りは地中海と黒海とカスピ海に囲まれた、アジアとヨーロッパとアフリカの境界に位置する地域であり、ここに位置するコーカサス地方から紀元前4100年頃のワイナリーの痕跡が見つかったり、ジョージア(グルジア)で紀元前6000年頃から独自の醸造法でワインが作られたりしているそうです。
 インド亜大陸においては紀元前4世紀頃、西アジアのブドウがペルシア経由でインダス川流域の古代インダス文明に持ち込まれたと考えられています。紀元前4世紀後半に、王や側近の間でワインらしき酒が飲まれていた記録が残っているそうです。しかしインド亜大陸はブドウ栽培に適した場所が高原地帯に限られ、ワインは特権階級の飲み物でした。

 7世紀半ばに古代インド王朝が分裂し、群雄割拠の時代を経て、10世紀末頃から北インドにイスラム系の王朝が、南インドにヒンドゥー系の王朝が立つようになると、いずれの王朝もその教義から飲酒を禁止しました。とは言え、教義に反して飲酒を嗜む人々はそれなりにいたようです。日本人にお馴染みの仏教だって、インド発祥で禁酒の教義を持ってますけど、飲酒を嗜む「生臭坊主」なんて珍しくもありませんよね。

 時代は下り、大航海時代初期の1498年、ヨーロッパからアフリカ大陸沿いに南へ迂回してインドに到達するインド航路が、ポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマによって開拓されました。しかしインド西のアラビア海はオスマン帝国の支配下にあり、往来が容易ではありませんでした。そのポルトガルが1509年、ディーウ沖の海戦でオスマン帝国に勝利。翌1510年にインドのゴアを占領し、以降ポルトガルのアジアにおける重要拠点としました。
 この頃、長期保存可能なポルトガル産のポートワイン(酒精強化ワイン)がインドへ持ち込まれ、それを機に酒精強化ワインの生産がインド全土へ広がったそうです。酒精強化ワインとは、発酵中にアルコール(蒸留酒など)を添加して発酵を止めつつ度数を上げたワインのことです。
 16世紀初頭に北インドで成立しインドの大半を領土としたムガル帝国は、イスラム系の王朝でしたが他の宗教や飲酒に比較的寛容で、酒税が重要な収入源のひとつになっていた他、イスラム教徒ながらワインを蒸留したブランデーを愛飲していた皇帝が17世紀初頭にいた記録もあるそうです。
 大航海時代を牽引したポルトガルやスペインが16世紀末に衰退すると、インドへ進出したイギリスやオランダが17世紀初頭に東インド会社を次々と設立。18世紀前半にムガル帝国が内部分裂から衰退したことで、インドは事実上ヨーロッパ諸国の植民地と化し、ブドウやワインの生産が推奨されたそうです。しかし19世紀末に品種改良のためアメリカから持ち込まれた苗から、フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)と言う害虫が大繁殖し、ブドウ畑が壊滅的な被害を受けたことでワイン産業は衰退します。その後、第二次大戦後のインド独立に伴う禁酒運動などもあって、インドのワイン産業はほぼ途絶したようです。

 インドのワイン産業が復活したのは、1980年代に入ってからだそうです。

中国とワイン

 中国では「土器からワインの痕跡が見つかった」なんて話もあるようですが、確実性の高い話としては紀元前2世紀、前漢の武帝の時代に、西域に外交官として派遣され後に「シルクロードの開通者」と呼ばれた張騫がブドウとワインの醸造法を持ち帰り、ワイン醸造が始まったとされます。前漢時代の歴史家として知られる司馬遷の『史記』にも「葡萄酒」に関する記述があるそうです。また3世紀末、魏および西晋の政治家・張華も『博物志』に「蒲桃酒」のことを記述しています。蒲桃はブドウあるいはフトモモのことで、「蒲桃酒」は多くの場合ワインと解釈されます。

 その後、ブドウやワインの製法は一度失われますが、7世紀半ば、唐代に太宗が新疆にあった高昌国を攻め滅ぼした際、再度ブドウとワインの製法が持ち込まれたことが宋代初期の類書『太平御覧』に記述されています。
 太宗は自ら8種類ものワインを作っては褒美に与えたり、宮中の宴会で振る舞ったりしていたそうです。またシルクロードを通じてワインが輸入され、国営の店でのみ販売されたらしいです。西安にはワインを出す酒楼があったり、山西省の太原や平陽ではこの頃からブドウ栽培が根付きワインが作られていたとも。
 唐代でワインと言えば、8世紀初頭の詩人・王翰が詠んだ『涼州詞』に「葡萄美酒」の記述があるのが有名です。他にも「酒仙」としても知られる「詩仙」李白は「美酒」を頻繁に詠み、同時代の「詩聖」杜甫は「痛飲」を頻繁に詠んだとか。ほぼ同時代、彼らの子世代になる白居易(白楽天)は自ら「酔吟先生」を号し、少量の酒で酔うのを好んでいたようです。ただ、彼らの飲んだ酒は原料が明記されておらず、ワインだったかどうかは定かでありません。

 10世紀半ば、後晋の高祖の時代には、西方に派遣された高居講なる人物が『使干単記』で葡萄酒について「製法は分からないが美味しい」と記述しているそうです。一方、11世紀末に北宋末期の政治家・詩人の蘇軾は『謝張太原送蒲桃』で山西省の太原から毎年ブドウが贈られることを、12世紀半ばに南宋の政治家・詩人の陸游は『夜寒与客焼干柴取暖戯作』でワインが高級品であることを詠んでおり、ワインは作られているものの庶民の口には入らなかったことがうかがえます。
 宋代になると書物に「葡萄酒」の製法が記されるようになり、11世紀末から12世紀初頭に出版された『經史證類大觀本草』にはブドウ果汁を発酵させると酒になると記述されています。一方、12世紀初頭に朱肱が著した『北山酒經』には「ブドウ粉末に熟れた漿を加えて漉し、蒸した米に注いだ後、冷まして麹を混ぜる」と書かれており、こちらはワインと言うよりはブドウの風味を添加した米酒と言う感じです。
 中国には伝統的に、醸造段階で漢方薬を混ぜる「葯酒」があり、このワイン風米酒も同じ製法だそうです。前述のとおり12世紀半ばのワインが高級品だったことを考えると、いろいろ工夫してでもワインっぽい酒を飲みたかったのでしょうね。
 12世紀末から13世紀初頭、金代末期の詩人・元好問は、『蒲桃酒賦』でワイン風米酒とワインについて触れており、ブドウを放置していたら偶然ワインになっていたと言うエピソードも紹介しています。

 中国のワイン産業は、13世紀末に立った元代に最盛期を迎えたと言います。鎌倉時代の日本にも侵攻を目論んだ、モンゴル系王朝ですね。
 モンゴルの酒と言うと馬乳酒のイメージがありますが、馬乳が採れる時季は馬の出産期を終えた初夏から9月頃までに限られ、またアルコール発酵に必要な気温が得られるのもその頃だけで、通年で飲めるものではないようです。
 13世紀末から14世紀初頭のヴェネツィア商人マルコ・ポーロが著した『東方見聞録』には、ワインは元の宮廷酒であり、首都(現在の北京)の宮中にもブドウ園があったと書かれているそうです。当時はワインを馬乳や駱駝乳などで割って飲んだり、祖先の祭祀に馬乳酒と共に必ずワインを飲んでいたとか。
 また、モンゴルのハンガイ地方にいた「ウジムチン」と呼ばれた遊牧民には、野生のブドウを採取し醸造したワインをモンゴル皇族にを献上していた歴史があります。ウジムチンとはモンゴル語で「葡萄を採取する人」と言う意味だそうです。
 この頃には新疆を中心に山西省太原や江蘇省南京など中国北部でブドウの植樹が行われたらしいです。特に新疆は、紀元前4世紀頃にギリシアからブドウが持ち込まれており、ブドウ栽培に適した土地であったため、古くから良質のブドウとワインで知られていました。マルコ・ポーロも新疆のワインを素晴らしいと評価していた他、元に仕えていた14世紀初頭の宮廷栄養士・忽思慧も著書『飲膳正要』にて、山西省の平陽や太原のワインも有名だが、新疆のワインには叶わないと記しています。

 14世紀後半、明代になると、国策により白酒や紹興酒と言った穀物酒が推奨され、ワイン産業は衰退します。
 とは言え、ワイン産業が完全に途絶した訳ではなかったようで。16世紀末、明代の医師・李時珍は『本草綱目』の中で、「醸成者」と「焼酒」と言う二種類の葡萄酒を紹介しています。「醸成者」は前述したワイン風米酒、「焼酒」は蒸留酒のことですが、焼酒はブドウに「大曲」と呼ばれる麹を混ぜ発酵させた後に蒸留するそうで、麹を入れる点を除けば、ほぼブランデーです。またその紹介文の最後に、「葡萄を長く貯めれば自然と酒になり、これが真の葡萄酒」とも書いています。

 中国のワイン低迷期は清代まで続きますが、大航海時代を経て欧米諸国が極東地域まで進出した清代末期、欧米との交易を機にワイン産業が復活します。
 1892年、華僑の実業家・張弼士が山東省の煙台に張裕(チャンユー)葡萄酒醸造公司を設立しました。このとき欧米から120種類以上、50万本の苗木を輸入し、オーストリア人醸造家のサポートを得て、中国初の近代ワイナリーがここに始まります。張裕は1948年に一度倒産しますが、中華人民共和国成立後にワイン醸造を再開しており、現在ではフランスのカステル社と提携したシャトー・チャンユー・カステルや、カナダのオーロラ社と提携したシャトー・チャンユー・ゴールデン・アイスワイン・ヴァレーなどで知られています。

日本とワイン

 日本では弥生時代の遺跡から小型のブドウの種が出土しているそうで、当時の人々は野生のヤマブドウやエビヅルなどを食べていたと考えられています。しかしワインに関しては近代まで作る動きはほぼありませんでした。
 日本には1世紀頃から既に酒らしき飲料が存在していたことが、当時の中国の思想書『論衡』に記述されており、また3世紀の『魏志倭人伝』にも日本人が酒好きなことが記述されています。しかし当時の「酒」の原料は不明で、縄文時代の遺跡から酒の醸造所やクワやキイチゴなどの痕跡が見つかっているそうですが、ブドウが使われていたかどうかは分かりません。

 日本でワインに関する最古の記録は、室町後期から戦国初期にかけて書かれた近衛政家の日記『後法興院記』で、文明15年(1483年)に近衛家の者がワインを飲んだ記述があるそうです。
 1549年9月には、島津貴久と謁見した宣教師フランシスコ・ザビエルが洗礼のためのワインを献上したことが、ジョアン・ツズ・ロドリゲス著『日本教会史』に記されています。
 以降も、来日した宣教師たちは布教に際し戦国武将たちへワインを献上していたようで、それらのポルトガルワインは「珍陀(ちんた)酒」と呼ばれ、戦国武将たちに嗜まれたそうです。ちなみに「ちんた」は、ポルトガル語で赤ワインを意味する「ヴィーニョ・ティント」の「ティント」が訛ったとも、ブドウ園を意味する「キンタ」が訛ったとも言われます。
 余談ですが、「日本で初めてワインを飲んだ有名人」として織田信長の名が挙げられることがありますが、信長と謁見したことのある宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』によれば、信長は「酒を飲まない」人物であり、彼が献上品のワインを飲んだかどうかは分かりません。
 なお、この頃の日本にブドウの苗が持ち込まれた記録は2023年現在見つかっていません。そもそもヨーロッパブドウは品質が良い反面、湿度やカビや病気に弱く、開花期に梅雨が、成熟期に高温多湿の盛夏が、収穫期に台風がやってくる日本は、ブドウの栽培には全く不向きだったからでしょう。

 しかし何故か、日本にはワインに適したブドウの品種が比較的古い時代から存在していました。日本ワインの代表品種「甲州」です。
 その発祥ははっきりしておらず、奈良時代の718年、法相宗の僧侶・行基が夢で薬師如来から授かったと言う伝承や、平安末期から鎌倉初期の1186年、甲斐国上岩崎村の雨宮勘解由が珍しい野生のブドウを見つけて自宅に持ち帰り、5年の歳月をかけて大事に育て増やしたと言う伝承があります。
 江戸中期の1836年、甲府で起きたブドウ販売のトラブルについて『山宮村葡萄故障有無御糺書付控』に記述されており、この頃には甲府でブドウ栽培が根付いていたことがうかがえます。
 DNA解析によると「甲州」はヨーロッパブドウと東アジアの野生ブドウとの交雑種で、DNAの割合はヨーロッパブドウが約4分の3、東アジアの野生ブドウが約4分の1のクォーターだそうです。
 ヨーロッパブドウのDNAが何処から日本に来たのか謎ですが、前述のとおり中国では前漢期(日本は卑弥呼以前の時代)や唐の太宗の時代(626年~649年)にヨーロッパブドウが持ち込まれています。記録が見つかっていないだけで、遣唐使が廃止される894年までに日本に苗や種が持ち込まれていたのかも知れませんね。ただ、純粋なヨーロッパブドウは前述のとおり日本では育ちにくく、恐らくは中国に持ち込まれたヨーロッパブドウのうち、日本や中国で東アジアの野生ブドウと交雑したものだけが生き残ったのでしょう。

 ワイン製造に関する日本最古の記録は江戸初期の1628年、当時の豊前小倉藩主・細川忠利が、上田太郎右衛門にワイン醸造を命じた奉書だそうです。細川忠利は細川忠興とガラシャの子で、レオン・ パジェス著『日本切支丹宗門史』によると、天正遣欧少年使節団の一員として知られる神父・中浦ジュリアンを匿い、母ガラシャの追悼ミサを毎年させていたそうです。ミサのために、ワインは欠かせないものでした。
 しかし1632年、肥後熊本藩主・加藤家の改易に伴い、細川家が肥後熊本藩へ転封されると、ワイン醸造は途絶えてしまいます。ワインを醸造した上田家は熊本転封後も代々細川家に仕えたようですが、熊本でワインが醸造された記録は発見されていません。当時、ワインは「キリスト教徒の飲料」と認識されていたことが、ワイン醸造の途絶に繋がったと考えられています。
 当時は江戸幕府のキリスト教徒弾圧が特に厳しかった頃で、1622年にはキリスト教徒が大量処刑される「元和の大殉教」が起きており、中浦ジュリアンも細川家が肥後へ移った1632年の末に小倉で捕縛され、翌1633年に拷問死しました。1638年には島原の乱が起き、1639年にはポルトガル船入港禁止から鎖国政策が始まった時代でした。

 日本でワイン醸造が復活するのは明治維新後、既に生食用のブドウ栽培が始まっていた甲府で、2人の青年が1870年頃に「ぶどう酒共同醸造所」を設立し、書物や来日外国人から伝授された知識に基づいてワイン醸造を試みたのが最初とされます。
 その後1877年に、甲斐国祝村下岩崎の土屋龍憲、祝村上岩崎の高野正誠の2人がフランスにワイン留学し、帰国後、同郷の宮崎光太郎を加えて国産初のワインメーカー「大日本山梨葡萄酒会社」を設立したそうです。
 明治政府は殖産興業政策を推進しており、また当時の日本は米不足で、日本酒に変わるアルコール飲料としてワイン醸造を奨励していたようです。しかし政策の主導者であった内務卿・大久保利通が1878年に暗殺されると、政府主導のワイン醸造振興は下火となり、以降は民間主体でワイン産業が発展していったそうです。

アジアデッキを振り返る

 アジア各地のワインの歴史を振り返ったところで、ワイナリーの四季のアジアデッキの中身を確認してみましょう。

  1. 低緯度産地の勃興

  2. 新たな投資

  3. 高い理想

  4. 冷涼な気候

  5. 最大の市場

  6. 初期のアジア産ワイン

  7. ワイン原料に対する規制

  8. ターニングポイント

 フレイバーのタイトルを見る限り、アジアのワイン史と言うよりは、アジアのワイン生産の特徴と言った感じの内容ですね。
 「低緯度産地の勃興」は、暑すぎても寒すぎても育たないブドウが、赤道近くの高原で栽培されるようになったことを指しています。インド亜大陸の高原地帯のことですね。
 「新たな投資」「高い理想」「最大の市場」は、ワイン後進国のアジア地域で急速にワイン産業が発達していることに触れています。
 「冷涼な気候」「ワイン原料に対する規制」「ターニングポイント」は、アジアのワイン生産事情や生産の工夫と言った話です。輸入果汁や濃縮還元リンゴ果汁の添加と言った、あまり良くない面についても触れられています。
 「初期のアジア産ワイン」は、1980年代にアジアのワイン産業が復活した概略が書かれています。

 1980年代の出来事を「初期」と表現していることからも分かるように、アジアデッキで扱うのは20世紀末以降のアジアのワイン生産事情のようです。となれば当然でしょうが、フレーバーはインドと中国を念頭に置いている印象を受けます。
 紀元前からワイン文化があったモンゴルに全く触れられていないのは、文字文化がなく記録に乏しいことや、欧米視点だと目立った出来事や目新しさがなく、ゲームに取り入れにくかったのかも知れません。日本のワイン産業も世界的に見れば規模は小さいですし、その辺りは致し方ないでしょう。
 「ワイナリーの四季」が現代を舞台にしていることを考えれば、同じく現代をテーマとしたアジアデッキが難易度イージーなのも納得です。


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