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今井正『武士道残酷物語』【勝手に西村晃映画祭④】


前回の今平フィーチャー回は張り切りすぎたので肩の力を抜いて行きたいところだけど、今回取り扱う『武士道残酷物語』は封建制度や封建的な思考の暴力性をあばく大作で、こちらはこちらで結構思い入れがある。

『飢餓海峡』の鈴木尚之と、『西鶴一代女』などで溝口健二とよく組んでいた依田義賢が共同で脚色したホンを今井正が監督した作品で、中村錦之助(後の萬屋錦之介)が一人七役に挑んでいる。ロバート・ハーメル監督作品『カインド・ハート』(1949)におけるアレック・ギネスの一人八役に負けず劣らず、錦之助が大奮闘。
今井正監督作品の今まで観たなかでわたしのお気に入りを挙げるなら、この作品と、水木洋子が脚本を書いた『喜劇 日本のおばあちゃん』がダントツかな。

https://natalie.mu/eiga/gallery/news/497408/1920098
(c)東映

『武士道残酷物語』は現代から始まり、自殺を図った恋人・杏子(三田佳子)を見舞いに来た飯倉進(中村錦之助)が、飯倉家の当主が仕える相手から受けた残酷な仕打ちを七代の歴史とともに振り返る構成。とはいえ、飯倉家の当主がただむごい仕打ちを受けていたばかりの話ではない。搾取される側がさらに弱い立場の者を搾取するエピソードも繰り返し出てくる。権力のありようを考察する作品とも言い表わせる。話の順を簡単に整理すると…。

【飯倉進の章】戦後
進の恋人・杏子が病院へ担ぎ込まれる。杏子の遺書を見た進、飯倉家の歴史を振り返る。
※この時点では進が何をしたか明らかにされない

【第1章 飯倉次郎左衛門の章】慶長15(1610)年〜寛永15(1638)年
※信州矢崎藩・堀家に仕えるところから。◎堀式部少輔(東野英次郎)

【第2章 飯倉佐治衛門の章】寛永18(1641)年
◎堀式部少輔(東野英次郎)

【第3章 飯倉久太郎の章】元禄年間。〜元禄17(1703)年
◎堀丹波守 宗昌(森雅之)

【第4章 飯倉修蔵の章】天和3(1783)年
◎堀式部少輔 安尚(江原真二郎)

〜大政奉還〜

【第5章 飯倉進吾の章】明治4(1871)年
◎堀高啓(加藤嘉)

【第6章 飯倉修の章】第二次世界大戦中
◎大日本帝国

【第7章 飯倉進の章】戦後
◎日東建設営業部部長・山岡(西村晃)

もちろん錦之助や有馬稲子ら(特に岸田今日子)だって素晴らしいのだが、悪役を演じる役者さんたちが芸達者。悪役はやはり上手な役者さんで観たい…という気持ちに120%のフルパワーで応えてくれていて、横暴な権力者やパワハラマンってマジでいやだな…という気持ちになる。
演出の面でいえば、第3話の祝賀の会で、カメラがドリーで近づいてくるのにあわせて顔をうまく動かす森雅之と撮影技術にすごいなあ…と初見時に思ったものだ。江原真二郎の冷酷そうな目の輝かせ方、加藤嘉の何を考えているか見えない目などにも、演者と照明それぞれの腕が感じられる。

本作は「武士道」がメインテーマではあるけど、弱い立場の女性たちにとっても降りかかる災難だという視点がとても大事になると思う。
京人形の趣向を凝らして田沼意知(成瀬昌彦)へ贈られた第4話のさと(渡辺美佐子)のエピソードに象徴されるように、封建的な社会の中で女性はモノとして差し出され、家のヒエラルキーの中でも搾取される。男性と対等な立場ではないのに都合よく家の者として扱われ、ときには家長とともに不利益を被らなければならない─これは明らかに理不尽なことだ。第5章で飯倉修蔵がおふじ(丘さとみ)を高啓(加藤嘉)に差し出そうとするシーンなんてほんとうに醜悪で、ゾッとしてしまう。

©︎東映

あと、第5章のこと。大政奉還にともなって移動の自由や、(一部除く)職業の自由が認められるようになった点などにおいては多少自由になったものの、自由な民衆政治の実現には至らなかった。大日本帝国憲法は天皇主権の憲法である。第5章で、井口ふじ(丘さとみ)の兄・広大郎(木村功)と進吾はこんなやりとりを交わす。

広大郎「本当に妹の倖せを思ってくれるなら、少し、君に、考えなおしてもらいたいことがあるのだ」
進吾「改って何だ」
広大郎「君は、確かに頭もいいし、人柄も立派だ。だが、社会よのなかへの順応性があまりになさ過ぎると思うのだ」
進吾「君はお殿様の事が言いたいんだね」
広大郎「……」
進吾「君の言いたい事は、およそ、ぼくにも見当がつく。今更旧藩主に忠節を尽くして何になる、聖上に忠節を尽くすことこそ、新しい我々の生き方だ……」
広大郎「……(思わずこっくり頷く)」
進吾「(笑って)まだある。一生を下級武士に甘んじていなくても、聖上の臣下として、いくらでも、出世出来る時代になったのだ。こうも言いたいんだろう」
広大郎「そうだ、そうだよ進吾君!」

『年鑑代表シナリオ集 1963年版』(1963年、ダヴィッド社)より

天皇制への言及はないが、また上には上の権力が存在していることを示唆するシーン。

権力に従い温存する側もまた、権力に依存することを求めていた。──本作の脚本を読んでいると、脚本家たちのそんな分析が見えてくる。
第5章の終わりで事切れた高啓に対する修蔵を、ト書きではこのように描いている。

高啓に取り縋って泣く進吾。それは、恰も、己の拠り所を失ってしまった小羊の姿である。

『年鑑代表シナリオ集 1963年版』(1963年、ダヴィッド社)
より

さて、西村晃は終盤10分くらいの戦後パートに登場する役だが、それまでの“主君”と違ってなんとなく小物っぽく普遍的な悪として登場する。山岡も山岡で会社に雇われの身の部長で一個人に過ぎないから、前の章の“主君”たちほど強大な権力を持っているわけではないのだ。しかし山岡は会社を背負って飯倉進の前に立ちはだかるし、山岡の背後に会社をみている飯倉進にとって会社と山岡は等しく力を持った存在である。国民主権になったって、押さえつけられやすい立場の者への圧力自体は変わらない。

そんな悪の連鎖に、杏子は飯倉進にはっきりと異議を申し立てる。このNoの突きつけ方は、それまで本編に登場した女性のキャラクターたちのNoよりもはっきりとしている。この杏子のアクションと、戦後になって女性を人間として認める範囲が多少広がった時代背景との結びつきを無視することはできないだろう。ホモソーシャルな社会の外側に広がるものが有害な男性性の解体に貢献する示唆、でもあるのかなあ。

人間らしく生きる自由を問う杏子が命をかけて抗議するなら、彼女は再び生きなければいけない。今の時代、自由は必ず勝たなければならないものだから。──このラストに作り手たちの信念の力強さを感じる。
そればかりではない。自由を信じ過去の因習とは決別して生きていく覚悟や、まっさらな未来を切り開く勇気が少なくとも物語のなかに存在しているこの事実を、わたしは心強く思う。


ちなみに『武士道残酷物語』が公開されたのは1963年4月28日だが、そのだいたい2ヶ月後の6月14日に『陸軍残虐物語』(東映東京作品)が公開されている。『新幹線大爆破』の佐藤純彌が初めて監督した作品で、主演は三國連太郎。三國連太郎と連れ立って逃亡する一等兵を錦之介の弟・中村嘉葎雄、亀岡という暴力的な鬼軍曹を西村晃が演じている。
『陸軍残虐物語』の方は時系列の組み方があまり好きではなかったので今回大きくピックアップしないけれど、西村晃の演技のグラデーションを見るという点ではいいかもしれないので紹介だけしておく。


最後に。『武士道残酷物語』完成台本の冒頭には、こんな言葉が書かれている。

現代の日本人はだれでも、善悪の判断を自分で考える。だがこれまでに他人の頭でのみ考えた長い時代があった。

これに関しては、残念ながら「他人の頭でのみ考えた長い時代」はまだ終わっていなかった…と断言してよいだろう。旧ジャニーズ問題なんてその最たるものではないか。わたしたちは無意識のうちに権力に依存し、その権威勾配を前提に行動することを社会的良識として考えてこなかったか?過去の精算を難しくしているのは、権力構造とその社会に依存し、新しい語り口を見つけられないわたしたちの弱さではないか?本当に「自分の頭で考える」世の中に少しでも近づくための第一歩って何なのか?
ひとりの人間としての良心と心の自由を追い求める、過激なほどの青臭さを取り戻すところから始めていこうよ…なんて思う10月末でした。
秋なのに晴れると日差しが眩しいので、気をつけて。
今日はこのあたりでおしまい。ごきげんよう!

『武士道残酷物語』(1963)
監督:今井正
原作:南条範夫
脚本:鈴木尚之、依田義賢
撮影:坪井誠
音楽:黛敏郎
助監督:山下耕筰
出演:中村錦之助、有馬稲子、丘さとみ、岸田今日子、渡辺美佐子、三田佳子、河原崎長一郎、沢村精四郎、松岡紀公子、山本圭、佐藤慶、織田政雄、西村晃、加藤嘉、柳永二郎、東野英治郎、江原真二郎、木村功、森雅之
アスペクト比:2.35:1(スコープ)
上映尺:122分
白黒
東映京都作品


*今までの「勝手に西村晃映画祭」ラインナップ*

◎第1回『幕末太陽傳


◎第2回『白と黒』

◎第3回『盗まれた欲情』『西銀座駅前』『果しなき欲望』

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