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終戦後の二つの幸運

*注意* 
今回の記事は説教臭いので😅 気をつけてください★イロイロと



去年の夏、この記事を書いた。


YouTubeで見つけた動画の
ONE OK ROCKワンオクロックの歌詞の翻訳と
その動画に関する内容。


私の記事は、比較的長文で
人によっては
文章がすこし難しいと感じるそうだから


全部は読まなくても、
記事内に置いた🌟キーワードや
いちばん最後に紹介した動画だけでも
見ていただけたらと思う。


特にもし、
あなたが日本人で
『仕組まれた』戦後の歴史観を
今だにまだ、信じているなら。


インターネットは私たちに、
さまざまな情報へのアクセスを
可能にしてくれている。


せっかくのそのチャンスを


ただの日常の、
個人的で些末さまつな、
息抜き程度の楽しみにしか使わないのは
勿体ない。


もはや大洋たいようと言えるほどの
サイバー空間の情報の海では

取捨選択しゅしゃせんたくに対するかん
〈内容の真贋しんがんに関する判断力〉

を持っていないと
次々と押し寄せる情報の波に
ただ翻弄されて混乱し、
自分の現在地さえ掴むことが出来ない。


〈情報〉に対する個人の能力は
この時代の 人生の航海者として


どんな旅を続けられるか 
どんな岸へ辿り着けるかを
ある程度 決定するものになるだろう。


毎日多くの、さまざまな情報や文章に接し
自分自身の頭でも 考えることで
そういう能力が
次第に 少しずつ 鍛えられてくる。


そういった能力を
自分で鍛錬たんれんしない人間は
知性も育たない。


ネットは勉強にも使えるという事、
その学習はテキストも講師も必要なく
たった独りで出来るという事を、
常に覚えておくべきだと思う。


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さて
今回の表題タイトルについて。


終戦直後の日本にとって
幸運だったことが、二つあると私は思っている。


一つは、
連合軍最高司令官に
ダグラス・マッカーサーが選ばれ、
派遣されてきたこと。


もう一つは
その〈敵国〉の占領軍を日本で出迎え、
共に戦後処理に当たることになった
日本人たちのこと。


アメリカ国内において
キング牧師に代表される 
人種・人権の平等を求める公民権運動が
50年代に入ってからやっと
始まったことを考えれば


1945年当時 一般的なアメリカ人の
東洋人(あるいは彼らが『有色人種colored』と呼ぶ人々)
に対する蔑視べっし、偏見、差別意識等が
どれほどのものだったか、容易に想像がつく。


だが幸運なことに マッカーサーは
一般的なアメリカ人とは、少し違った。


彼は若い日に
敵国としてではない日本に来て
当時の日本人たちと出会い、
話をしていた。


彼の父親も軍人だった。


アーサー・マッカーサー・ジュニアという名の
南北戦争にも従軍した彼の父は
1905年 
日露戦争の観戦武官として赴いていた満州から
駐日米大使館付き駐在武官として
日本・東京に着任。


このとき 息子ダグラスも
父親の副官として来日し、
日露戦争後の日本で
東郷平八郎とうごうへいはちろう乃木希典のぎまれすけ大山巌おおやまいわお黒木為禎くろきためもとらと
直接会い
彼らを通じて『日本人』との
最初の邂逅かいこうを果たしていたという。


〈天皇ヒロヒト〉
と西洋人が呼んだ昭和天皇は
日本の皇室に生まれ、
帝王学を修め、
一人の人間として
心身を自ら律してもいた人格者で


記録によれば
天皇ヒロヒトは


「すべて私の責任において行われたことだ、
私の身はあなた方に預ける。
だが国民は助けて欲しい。
彼らが飢えないよう、あなた方の援助を求める」
といった内容を
占領軍最高司令官に求めたという。


臣民に、神ともあがめられていたその人物は
長い間 
国の内外の、正確で客観的な情報は伝えられないまま
それが〈たみの望み〉
〈唯一の救国の手段〉と聞かされていたがゆえ
他国への進軍をがえんじてきた。


『戦争を始めて良いのは
戦争を終わらせることの出来る者だけだ』


その言葉を証明した者は
歴史上、どれだけ居たのだろう。


昭和天皇は最後まで、開戦に反対だった。
だが彼の名の元に、戦争は始められた。


戦地に於いて 日本の兵士達は
天皇がべる祖国を守るために
命がけで戦っていた。


西洋人が安直にEmperorと訳し、
その語感をもって実態を理解した(つもりでいた)
日本の天皇は


古代ローマや、歴代支那の皇帝それとは違い、
絶対権力と執行力を振りかざす『独裁者』ではなかったのに
その完全なる誤解を 既成事実として
(日本以外の世界中から) そう見做されていた。


兵士達は 天皇個人ではなく
天皇陛下という語に象徴される
日本国という
緑豊かな神の国である祖国を守ろうとし
(日本の神 = 森羅万象に宿る霊・魂)


天皇は 代々
臣民を〈大御宝おおみたから〉と呼び
神道の最高神官として
日本国民 ひいては世界の人民の
幸せと
平和を
ひとり孤独に祈り続け


敗戦後は
国民のした事は全て私が引き受ける
あなた方は我が身を どうとでもせよ
その代わり 
この国の民は救って欲しい
と願い出た。


天皇と国民は お互いに 
お互いを守ろうと
命を差し出していた。


共に互いを想い 守ろうとする
両者の真摯な態度を目にしたからこそ、
マッカーサーは心を打たれたのだと思う。


若き日に出会った明治の軍人達の印象、
彼らから受けた畏敬いけいの念も
40年後の
昭和の日本人たちが見せた そんな誠意を
信用させたに違いない。


占領軍GHQが日本でおこなった事は膨大ぼうだいな数にのぼ
その一つ一つの所業に 毀誉褒貶きよほうへんはある。
彼らの為したことの全てを 決して手放しには 
好意的、肯定的にとらえられるものではない。


けれど
昭和天皇の純粋な気高さを
まっすぐに 心で感じ取ることが出来たとすれば
それはマッカーサー自身も
同じような純粋さと それに呼応出来る
豊かな感受性と知性を持っていたからで


もし 粗野そやで教養もなく、
そのとき手にしている自分の権力を
特に暴力的な手段で 周りに見せつけ
自尊心を満足させたがるような
心の汚れた人間だったら


どれほど誠実な言葉を聞いたとしても
魂に響かず 冷笑で聞き流し、


もしかしたら
昭和天皇は 
あの茶番と呼ぶべき裁判にかけられ
最初から結論ありきの実刑判決を下され、
殺されていた可能性もあったと思う。


偶然にも選ばれ、来日した最高司令官が
その時代の平凡な白人共とは違い
日本と日本人に対し
良質な知見と経験を持っていたこと、
品があり、知性と教養を備えた人物だったことは、
不幸中の幸いだったと感じている。


一方、
おそらくGHQのメンバー達は 
日本に到着した時には


戦場で相対あいたいした日本兵や
本土メインランドで見知っていた日系アメリカ人と同様、
細く華奢な身体つきで
背は低く、控え目で内気な
『大人しい日本人』を相手に仕事をするものと
思っていたのだろうけど


彼らを待っていたのは


彼らの多くが
そでを通したこともないであろう
ロンドンのSavile Rowサヴィル ロゥの中でも
超一流の店であつらえた、
布地も仕立ても高級な服に身を包み


一人は
西洋人にしておとらぬ長身で、
控え目どころか
まっすぐに正面から人の目を見て
時にめつけるような鋭さも見せる
壮年の男性。


もう一人は
身長はそれほど高くはないが
物腰、態度、雰囲気に 
どっしりと構えた余裕のある
落ち着いた初老の紳士。


どちらも 一般的な日本人のように
気弱そうな愛想笑いなど 一切しない。


そこに居たのは
白洲次郎しらすじろう吉田茂よしだしげるだった。


アメリカ英語を
田舎の方言のように思わせる
見事なブリティッシュアクセントの
英国英語Queen’s English
挨拶の言葉を述べたであろう二人を思うとき


アメリカ人達は、相当驚いただろうな

敗戦国側の人間としては
このささやかな〈意趣返いしゅがえし〉に
可笑おかしさが込み上げてくる。


その時の逸話いつわも伝えられている。


マッカーサーの部下 ホイットニーに
「なかなか上手い英語を話すじゃないか」
と言われた白洲次郎は


Maybe your English will improve, too,
if you study a little harder.
(貴方の英語も、もう少し熱心に勉強なされば
良くなりますよ)
と返したらしい。


会話を軽妙けいみょうに活気づかせる
笑いを狙った〈冗談〉とも取れ、
合衆国の『旧宗主国』(名目上)であるイギリスの
ケンブリッジ卒であることを鼻にかけ
アメリカ人に対する〈侮辱〉を言ったとも取れる、
小気味良い返答。


言語や習慣だけでなく
イギリス流の、
皮肉の効いた慇懃無礼いんぎんぶれいさまで
きちんと身につけていた彼は
その学習成果に於いて
『留学生のかがみ』と言えるんじゃないか
と思う。


吉田茂の方はさすがに
年齢的にも、立場的にも
アメリカ人にけに
そのような事は言わなかったらしいけど


日本人同士の時には〈GHQ〉のことを
あいつら
General Headquarters ではなく
Go Home Quickly だ
と言っていたそうなので、
皮肉めいた思いは
たっぷりと持っていたのだろう。


吉田茂も
白洲次郎も


本人達には
愛国心と知性、正義感と良識が
共に精神の軸として備わっていて
更に日本にとって幸運だったことには
和洋両方の文化に精通していた。


私が個人的に一番感謝を感じるのは
1951年のサンフランシスコ講和会議のための
日本側の演説原稿が
外務省によって英語で用意されていたのを

白洲氏が
「いかに敗戦国の代表であるとはいえ、
講和会議というものは、戦勝国の代表と
同等の資格で出席できるはず。
その晴れの日の演説原稿を、相手国と相談した上に
相手側の言葉で書くバカがどこにいるか」


と怒って直ぐに日本語で書きかえさせた
という英断の話。


必要以上に相手国に媚びて国益を損なうことは
官僚だろうが政治家だろうが、決してすべきではないのに
なぜ日本には揃いも揃って
そんな人が未だに多いのだろう…


閑話休題。


とにかく幸運なことに
終戦のそのタイミングで 国内のその場所に
彼らのような人物たちが存在してくれて、


占領軍の外国人達に
言葉の面でも、気概きがいの面でも応対し得る
適材適所とも言うべき地位と役職を
往時おうじの武士並みの滅私奉公めっしほうこうをもって
務め上げてくれた。


連合国軍総司令部と
終戦連絡中央事務局は
日本とアメリカ 両方の側に
お互いが「話し合いの出来る相手」
を見出せて


戦後日本の国内を
最悪の状態におとしいれずに
handleしてくれて
有難かったと思う。


彼らの仕事の成果を受けて
現代に生きる私たちは これを単に
僥倖ぎょうこう、幸運に恵まれた歴史の1ページ
で片付けるのではなく


もし今後 人生のどこかで
異文化のバックグラウンドを持つ人々と協力して
何かを成し遂げる必要があった時には


誰か「出来る人」が現れてくれるという、
来るかどうかもわからない幸運を待つよりも


自らが 
あの人物がいてくれて助かった と言われるような
『幸運のみなもと』の存在になれるよう
少しでも 努力しておければと思う。


〈幸運を待たず 自らを幸運の源とせよ〉


それには〈実学じつがく〉が大事。
暗記でテストの点数が良いだけの人間には
正直言って、出来ない芸当。


その為にも


日本人よ、外に出ろ。
外に出て、自分の目で現実を見て
自分の手で、世界をさわれ。


もしかしたら今は
次の『戦前』かもしれないんだよ?
準備期間が足りるのかどうか…


次の戦後、
日本は今度は、マッカーサーの立場になる。


嘘や欺瞞ぎまんで 自分の国や歴史を
恥に思ったり 嫌ったりさせられ、
どれだけ努力しても
その努力の果実を削り取られ続けるなんて
二度と御免だから。


その気概を
国民全員が持っておかないとね♪



過去記事に置いた動画とは別ですが内容としては同じものです↓




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