【ショートショート】 チーズピザとお味噌汁
ガラリと木の引き戸を開け、見慣れた玄関を通って部屋にあがる。
入ってすぐの畳の部屋にあるお仏壇、懐かしい気持ちになるお線香の香り。
じゃらりと音の鳴る、木製のビーズでできたカーテンをくぐるとリビングがあって、その向こうにあるソファには、いつだってまあるい背中が見える。
「…こんにちはー」
「あら、初めまして」
「わあどうもー。初めまして」
「お隣さんでしたっけ?」
「あ、そうそう。先日引っ越してきたのー」
「あらあら。お若いのにこんな田舎へようこそ。私はタエコと申します」
「いいところで気に入ったよー。タエコさんね、よろしくお願いします」
「ふふふ。そうでしょう。私も、お父さんとついこの前引っ越してきたんだけど…。あらやだ、お父さんはどこかしら」
「どこだろう、私は見かけてないから、今はお出かけしてるのかも」
「それはごめんなさいね、またきちんとご挨拶させてね。愛想はあまり良くないけれど、優しい人なのよ。ぜひ仲良くしてやってね」
「もちろん!」
これまで私は、見るたびに小さくなる気がするその背中に幾度となく声をかけてきた。そして私たちは、幾度となく「初めまして」を繰り返してきた。
私はここにくると、いろんな人になる。
お隣さん、同級生のミチさん、かかりつけ医の田中先生。たまに、私の母の「トモエちゃん」にも、なる。
ここにくると、私はまず引き戸を開ける前に「私」を脱ぎ捨てる。
最初の方こそ、律儀に毎度訂正して「マキだよ」「孫のマキだってば」と名乗っていたけれど、その名前はどうしてもおばあちゃんの「中の人」には届かない。
届かないことが、ひどくショックだった時期も間違いなくあったけれど、今やそんなことはどうでもいい。おばあちゃんがこちらを見て呼ぶ名前が、そのとき私が名乗るべき名前だと、私はよく理解していた。
正直言うと、おばあちゃんが言う「勘違い」を訂正しないのは、彼女を騙すことになるのではないだろうかと思ったこともある。
適当に話しを合わせることは、もしかしたら私のエゴかもしれない。
それでも、タエコさんがニコニコしながら、私の目を見て話しかけてくれるこの時間が、私の胸を温かい気持ちで埋めていった。
記憶は錆びてしまったようだけれど、体はおおむね健康で、タエコさんは私が顔を見せるとといつだって何かしら食べさせようとする。
田舎あるあるの光景で、せっせと私の世話を焼こうとするタエコさんに勧められるがまま、クッキーやビスケットを口にしながら、とりとめのない話しをするのがここでの過ごし方だ。
「ところでお隣さん、お名前は何と言うの」
「あー…」
少しだけ迷って、私は名前を名乗る。
「私、マキっていうの」
「マキさん、マ、キ、さ、ん。ごめんなさいね、最近どうも忘れっぽくて」
タエコさんは、手元にあったチラシの裏のようなものに「お隣 マキさん」とメモを取っていく。
私はその一挙手一投足を、そっと見守りながらビスケットを口に運ぶ。
口元でぱきんと割った、その甘さを静かに口の中に押し込む。
タエコさんが「マキ」と呼んでくれたのはずいぶん久しぶりだな、という気持ちと共に、ぐっと湯呑みのお茶を流し込む。
「それでね、タエコさん。今夜なんだけど、私泊まってもいい?」
余計なことを言い出す前に、とって付けたようにそんなことを言ってみる。
これまでにも、ときどき泊まりがけでくることはあったのだけれど、しばらく高校の卒業式や大学の手続き、卒業旅行に何だと、私も私の人生を忙しく生きていた。
そのために、来週には大学進学のために地元を出るというこのタイミングが、ギリギリの機会となったのだ。
「あら、じゃあゆっくりお話しできるわね!」
ぱあっと嬉しそうな顔をして、あらやだお客さん用のお布団が干せてないわ…とそわそわし出すその横顔を、いいよおそんなこと気にしなくて、と笑いながらそっと見る。
これまでにも、何度も何度も見てきた横顔。
そりゃあ昔と比べたら、皺くちゃになっているのだろう。けれども、タエコさんは私が気づいた頃には「おばあちゃん」だったから、この皺一つひとつが私と共に過ごした時間の一つの形だと思うと、言葉にし尽くせない気持ちになる。
その夜は、タエコさんたっての希望で、デリバリーのピザを取った。
「こんなときでもないと、ピザなんてハイカラなもの食べられないから」
彼女は小さな口で、一切れにしっかり時間をかけて、チーズのピザを美味しそうに食べていた。残りは、明日の朝ご飯にしようとそこそこで切り上げて、これまでに何度も入ってきた風呂に入り、二つ並べた布団に入る。
口元まで、布団を被る。おばあちゃんの家の、匂いがする。
「タエコさん」
「はあい」
「タエコさん、私また遊びにきてもいいかな」
「嬉しいわ、またいつでもおいでなさいな」
お隣さんだからすぐに会えるし、お友達ができて嬉しい。
そんなことをゆっくりと話して、私が言葉に詰まって返事に迷っているうちに、タエコさんは寝息を立て始めた。
そっと「お隣」の布団を見る。
部屋の中のオレンジ色の豆電球が、おばあちゃんの寝顔をオレンジ色に染めている。
私は、その白い髪の毛の先から鼻のてっぺん、頬の皺から柔らかな顎、静かに上下する掛け布団の花模様まで、目にするもの全てを切り抜いて記憶に焼き付ける。
そっと目を瞑って深呼吸をした後、ふと気がつくと、部屋はすっかり明るくなっていた。思いがけず、しっかり眠ってしまったとお隣を覗くと、そこは抜け殻でもうタエコさんは起きているらしかった。
のそのそと起き上がり、音のするキッチンを覗く。
そこには、タエコさんの小さな背中があって、IH調理器の上には、よく使い込まれた小鍋がコトコトと湯気を立てている。
「おはようタエコさん」
一瞬はっとしたように肩を揺らし、彼女はゆっくり振り返る。
「おはよう、マキちゃん。顔洗っておいで、朝ご飯にしよう」
ほら、マキちゃんの好きなお茄子のお味噌汁にしたよと、おばあちゃんが、言う。
「…うん、わかった」
急いで顔を洗ってくるね、と踵を返し、嬉しくて寂しくて楽しいような悲しいような、世界で一番複雑な涙を洗い流すために、私は急いで洗面所に向かった。
その朝、私は人生で初めて、チーズピザにお味噌汁という朝ご飯を食べた。
(2567文字)
=自分用メモ=
本当に2000字いないに収めたかったのだけれど、思いがけず長くなった。いろんな記憶や感情の引き出しを開けては閉めて、閉めては開けて「いつか見たような景色」を、より具体的に書くことに着目した。
「おばあちゃん」と「タエコさん」の境目の表現に少し悩んだ。
上手く思い描いた景色が、読み手の頭の中にも想像させられていたらいいなあ。
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