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[022]正しい知識はなぜ実践できないのか


こんばんは、まっちゃんです。


大学院の生活にも慣れ、少し落ち着きを見せてきたように思います。

いずれにしても仕事は忙しいままなので、てんやわんやで心休まるときがありません。
(どうにかしていきたいものですね……)


正しい知識はなぜ実践できないのか

このタイトルは、いま読んでいる本(『他者と働く 「わかりあえなさ」から始める組織論』/後述リンク掲載)の「はじめに」の部分に書かれていた言葉です。

学校などで正式に学んだ知識なのにいざ現場に出て行ってみると使えない、使われていない、といった事態はみなさんも経験があると思います。

そういったケースを指して筆者から示された言葉が、「正しい知識はなぜ実践できないのか」です。


学校教育には限界があると警鐘を鳴らせるわけでもなく、ましてや今に即した教育論を語れるキャリアをもっているわけでもありませんが、私自身、高等教育機関の隅に身をおく者として、やはり学校教育には“柔軟さが足りない”と日々感じています。

大学の専攻で「生涯教育」に足を踏み入れた時から9年が経ちましたが、結果的に興味が色んな方向に惹かれ、いま行き着いている先は「組織経営」や「人材育成」の分野です。

他にもやりたいことや興味があることがあるため、この場所にずっと留まるわけではありませんが、この場所はキャリアを築く上で通るべくして通る道なのかもしれないと、最近になってよく思うようになりました。


だからこそ、「正しい知識はなぜ実践できないのか」というこの言葉は、むしろ教育現場だけにとどまる問題ではないと強く感じています。

それは、教育現場での「先生の考え方が堅い!」とか、「紙の量が多い!」とか――細かいことを言えばキリがありませんが――どちらかと言うとそういう部分的な“足りなさ”のことではなく、“大局的な足りなさ”が圧倒的であるような気がしてならないからです。



よくあることなのに…

学んだこと(知識)が実践で使えない、というのはよくあることです。

みなさんも職場で毎日体験しているかもしれません。いったいこの会社はいくつの例外を作れば気が済むんだ……なんて嘆いている人もいることでしょう。


学校教育であれ、企業内教育であれ、「正しい知識が実践できない」のはいくつか理由があると思います。

それはもしかしたら、「実践にむいた知識ではなかった」のかもしれませんし、「その知識を使える環境ではなかった」のかもしれません。はたまた、あなた自身が「知識をどこで使ったらいいかわかっていなかった」ということも勿論、ケースとしてはあり得るでしょう。

一方、学派・流派に若干の差異はあれど、歴史の流れとともに積み上げられてきた先人からの「知識」や「理論」にバラつきはほとんどありません。極端に言えば、教科書に載る公式や専門用語は、ひとつの現象に対してたったひとつだけあてられていることが普通です。

新しい学問や現象追って捉えて構築していくような学問なら話は別ですが、「1+1」の答えは「2」で疑いようはなく、「3」や「-2」になることはありません。

一般的には、「すでに決まりきっている真理」が「知識」として授けられてきています。


ここで「1+1は、3だよ!」と叫ぶ人はまずいないと思うのが普通ですが、しかし、こと職場や学校などの組織の中にあってはこれが意外と起こります。

また、この現象(組織の中でトラブルが起きたという事実)についての把握はするけれども、理解ないし解決のステージにまではわざわざ自分の足を運ぶようなことはせず、たいていの場合、自分の感情を優先的に扱って関係者にレッテルを貼って終わり、としていることも意外と多いのが事実です。

なんらかの理由、経緯、背景によって答えを「3」としている人が自分の組織の中にいる事実に注目していない、ということです。


本(下掲)の筆者は、そのようなトラブルや対立が起きるときのズレ、原因にどう向き合っていったらいいのかを追究しています。



やっぱり必要なのは

日頃、私が職場で感じている「正しい知識が実践できない」理由といえば、「『正しい知識』が複数存在している環境だから」があります。

「複数存在」と言われると小難しいですが、さしずめ「人によって言っていることが違う」といったところです。

誰しも一度は体験しているトラブルですが、みなさんもお気づきの通り、これがなかなか厄介です。

コメントやアイデアといった場当たり的に組み交わすモノなら、組織にとってより効果的でより利益をもたらす方を採用すれば済むのですが、「知識」が異なっていた場合はそう簡単にいきません。

学校教育段階から身に染みている手持ちの「知識」は、ぶつかり合ったときに「正義の衝突」と言える程、めちゃくちゃ頑固です。

学びの過程の質もありますが、お互いの「知識」に大きな間違いはさほどないとすれば、相手のその頑固な「知識」を前にして自分が諦めないために、果たして何が必要でしょうか。


筆者は、必要なモノとして「対話」を挙げています。

話せばわかるとかそういうのでしょ……と言いたくなる気持ちもわかりますが、結局はその通りです。それ以上でも、以下でもありません。

わかりあえるかどうかは様々な条件如何で一概には言えませんが、少なくとも筆者は「対話」の必要性を説いています。そして、そのアプローチが誰にでも実行できるよう、筆者は易しく書いてくれています。

せっかく筆者は「対話」と言ってくれていますが、読み進めていくうちに、私は「交渉」に近いイメージも持ちました。結局は相手と折り合いをつけるためにどう話していくべきか、ということなのだと思います。



出発点は「わかりあえなさ」

本中の「対話」についての詳述(「適応課題」と「技術的課題」など)に関しては書評記事に譲りますが、話し合うことに重きを置いて(置かされて)大学を出た私は、そういった意味でこの本に馴染みやすかったのかもしれません。

とはいえ、現場に即する形で「対話」について書かれ、かつ「正しい知識はなぜ実践できないのか」という問題提起に始まっている点はとても新鮮でした。
「学んだことの1割も生かされないじゃん!」と嘆き腹を立てる社会人1年生と一緒に読みたいくらいです。


そしてなにより共感できたのは、副題にもあるとおり、筆者が「わかりあえなさ」から出発していた点です。

しばしば、「他者を変えることはできない(自分は変えることができる)」という格言めいた言葉を耳にしますが、この本を読み始めてすぐに、いかにも諦めのいい格言だったなと思いました。(皮肉)

他者に変わってもらえるように自分が努力しましょう、という意味だとは思いますが、あまりに抽象的なこの物言いの意味が、なんとなくわかったような、そんな気持ちにさせられました。


書評を待てずに乱雑に書き留めましたが、本書を読み進めた後にまたまとめておきたいと思います。


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