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子供時代の「教え」が今…



アメリカのHomeschoolシステムとは?

アメリカの義務教育システムのひとつに「Homeschool」というものがあります。すごく簡単に説明すると、毎日小学校に通う代わりに、自宅で必要とされる時間数と教科を勉強するというもの。教えるのは親でもいいし、家庭教師のような人を雇うのもあり。学校に行かなくてもいいことで、救われる子供も親もいるでしょう。このHoomeschoolを利用する人は、決して珍しくなく職場の同僚から「私、Homeschoolだったんだけどね」と聞くことも普通にあります。一度Homeschoolにしたからといって学校に戻れないということもなく、やっぱり学校に行きたいと思えば通学に切り替えることもできるそうです。子供の事情、または親の事情に応じて、必要とされる「学び」の方法を選択することができるのがアメリカです。Homeschoolになじみがない日本人にとっては、いわゆる不登校児がHomeschoolを利用すると思いがちかもしれませんが、もっと気軽に、他の子供と学ぶより自分のペースで学ぶ方がむいている子が利用したり、親が子供の勉強をみることを希望する場合だったりと理由は様々なようですよ。
このHomeschoolシステムについては、州によっても決まりが違ったりするようなので、気になる人は調べてみてくださいね。

親以外の大人、社会から学ぶこと

日本で生まれ育った私は、当然のことながら、4歳で近隣の幼稚園に、その後は公立の小学校へ通いました。Homeschoolを利用した場合に欠ける可能性があるものが、他の子供、または大人との関わりではないかと考えます。生まれて始めて家庭を飛び出した、社会との経験ですね。当然のことながら親から学ぶことは多く、親の姿を見て自然に身になじんでいくこともありますが、親に対する思いや態度はやはり独特なもの。場合によっては親を反面教師にっていうこともあるでしょうが、それも含めてやはり「親」という存在は「子」にとっては唯一無二のものだと思うのです。
だからこそ、親ではない大人から学ぶことがあるのも事実。例えば、学校の先生、習い事の先生、友達の両親、近所のおじちゃんやおばちゃんたち。

私の人生初の「教え」

ことぶき幼稚園というなんとも縁起の良い、こじんまりとした幼稚園の年長のときのことでした。担任は井上先生。若くてきれいな先生でした。元気はつらつというよりは、真面目な印象。ある日の井上先生の幼稚園児へのお話がまとめるとこういうことでした。

井上先生は、毎朝欠かさず自分のお弁当を手作りしている。朝、どんなに忙しくても、どんなに簡単なお弁当しかできなくても、毎日作ることにしている。なぜなら、一度作らないと「昨日も作らなかったから今日はいっか」となり、お弁当を毎朝作るという習慣がいとも簡単にやぶられてしまうから。

要するに『人間は堕落する生き物である』ということだと理解しています。
井上先生といって思い出すのが今でもあのお弁当の話で、当時5歳の私には実感こそ沸かないものの、今風に言えば、強烈に「刺さった」のは確か。
今振り返っても、私の人生初の教訓で、その後の人生においても、常に私の中にありました。自分の体験を通して、井上先生が教えてくれたことがいかに真実であるかも実感しましたしね。
だからこそ、自分が本当に大切にしたいと思ったことは、たとえ少しでもとにかく毎日続けるようにしてきました。
私は小学校から高校までバスケ部でしたが、練習は休まない。仕事も然り。
私は大人になってからも好奇心が旺盛な方で、ひょんなきっかけから楽器に手を出したり、スポーツを始めることも多く、中には「これは違うな」と速攻で見限ったもの多々。だから何事にも初期投資は控えめ。ただ、ハマったものに対しての向き合い方の基本は「続けることが大事」だったように思います。真冬の海で雪がちらつく中、ボディボードで海に浮かんでいる自分はさすがにおいかしいかと思いましたけどね。今から思うと体に悪かったなぁとしか思えませんが、若気のど根性でした。

今になって生きているミニバス時代の「教え」

もうひとつの子供時代の大切な教えは、小学校の6年生のときのことでした。私は小学校の2年生の頃からミニバスに夢中でした。弱小時代を乗り越え、私が6年生になった年は地域でもトップクラスの強豪チームになっていました。キャプテンだった私の、いわばバスケ人生の黄金時代(笑)。

そんな6年生の年の、夏休みのお寺合宿のときのこと。コーチ同士が仲のいい地域の3チームの共同合宿でした。昼間は練習に明け暮れ、夜はお寺の和尚さんの元で座禅。食事を残すことが許されなかったのも小食の私にはつらい思い出。ある晩、3チーム全員を集めて、小学校の先生をしている的場先生が話を始めました。
「おまえたち、バスケは誰のために頑張ってるんだ?」と子供たちを見まわした的場先生。そして「榊、おまえは誰のために頑張ってる?」えー、私ですか?と思う余裕があったかどうかは覚えていませんが、キャプテンとして「自分のためにです」と迷いなく答えたことは覚えています。「自分のために頑張っている人は手を挙げて」という的場先生の言葉に、誰もが挙手。
そこで、続いた的場先生の言葉が、次のようなものでした。

 「頑張るのは、合宿中も食事の準備に来てくれて、試合への送り迎えもし  
  てくれる、みんなのお父さんやお母さんのため。それと、大清水のやつ
  らは古谷コーチのため。長後のやつらは金子コーチのため。明治はオレ
  のために頑張るんだよ。みんながバスケをすることを応援して、サポー
  トしてくれている人たちのために頑張るんだ」

当時の私には、この的場先生の言葉は新鮮で衝撃的でした。私は頭では「なるほど」「そうなんだ」と納得も理解もしたものの、本当の意味は分かっていなかったようで。それ以降「古谷コーチのために頑張ろう」と思おうとしても、自然に思える実感はありませんでしたからね。
その後、中学、高校とバスケを続けましたが、教えてくれる先生のために、応援してくれる両親のためにという「考え」が頭の片隅にはあったものの、試合に勝ちたいのは自分だったし、毎日毎日怒られ続けた高校時代に関しては特に、先生のためになんて到底思えたものではありませんでした。応援に来てくれる両親の姿は嬉しかったけど、試合に勝って嬉しいのは自分だったし、「勝ちたいから頑張る」が何よりもの私の頑張る動機でした。

それが、あれから35年の時を経て、的場先生の「教え」が身に染みる今なのです。
前にも少し触れたことがありますが、現在、私は乳癌の闘病真っただ中。
昨年9月の告知から治療開始までの検査期間(精神的にはこの時期が一番大変でした)、11月から始まった抗癌剤治療(アメリカでの治療スケジュールは結
構スパルタ)、当然ながらそれに伴う数々の副作用。昨年末には白血球減少症で緊急入院、年明けには原因不明の発熱が続き再度の緊急入院、抗癌剤治療を続けながらの仕事(自分の意思ですが)などなど、物理的にも精神的にも、つらいことや、つらい時期はそれなりにあるものです。ガンはやっぱり曲者じゃ。
こんな状況の中、いつも変わらずエールを送り、時に心配し、時に励まし、そして祈り続けてくれているのが、家族や友人たちです。遠い日本からであろうと、人の想いや祈りがこんなにも届くこと、そのパワーがこんなにも強いことを、私は初めて知りました。こちらの友人に関しては、それに加えて治療への送り迎えの車を出してくれたり、食事の差入れをしてくれたり。ハグにも格別なあたたかさがあるものです。
何が言いたいかというと、私が「つらい」と感じているときに頑張るのは、そんな家族や友人のためだということです。調子が悪い時期、「ずっとこのままだったらお母さんが心配するだろうな」。「こんな優しい言葉を送ってくれる友人の気持ちに応えたい」。そんな思いが、つらい時期を乗る超える私の原動力で「自分のために頑張る」ことの何十倍もの力を生みだしているのです。

そして今、思うのです。これが的場先生が伝えたかったことなのではないのだろうかと。ただバスケが好きで、うまくなりたくて、試合に勝ちたいと思って頑張っていた私にはピンとこなかった「教え」が、生きることかけた闘いの場に立たされた今、私の大きな支えになっているのです。

感謝

幼稚園の井上先生の「毎日続けることの大切さについての教え」
ミニバス時代の的場先生の「支えてくれる大切な人のために頑張る教え」

この二つの教えは、私という人間を形成するにあたって多大なる影響を与えました。たとえ身に染みるのが大人になってからだったとしても、子供時代のあの時、あの環境で、あの先生から私にインプットされたことに、今改めて感謝します。
井上先生、的場先生、今でもお元気でしょうか。
あの頃の先生よりも年齢を重ねた今、あの時の先生は、5歳児を前に、小学生を前に、どういう思いであの話しをされたのだろうと考えずにはいられません。一緒に聞いていた友達たちの心にはどう響いていたのでしょう?
私の心には突き刺さり続けています。この先もずっと大切にしていきたい宝物です。
人の強い想いはきっと届くことを信じて、井上先生と的場先生に感謝の気持ちを送ります。ありがとうございました。


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