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塩を撒く

まったく自慢にならない話だが、7年間で5回の引越しをした。断じて引越し自体が好きなわけではないし、むしろ金銭的にも精神的にも落ち着ければいい思っている。己が望むままに生きようとしたとき、高確率で引越しが伴ってしまっただけだ。

どういう仕事をするか、誰と生きるかが決まると、そのために最適な場所に住処を探す。部屋は毎日帰る場所なのだから、行動圏内の中心に据えておかなくてはならない。行動圏が偏ることは、心身のバランスを乱してしまうと、私は信じているからだ。歩き方の癖が骨盤を曲げてしまうように。

このような考えだから、引っ越しにも部屋選びもこなれてしまい、引っ越しのワクワクした気分を感じなくなった頃合いだ。だからこそというべきか、部屋へのこだわりも人一倍強くなってしまったように思う。

もっとも重視していることは、採光面の多さだ。はじめて自分で家を借りた時からこれだけは譲れなかった。夏は自然光だけで19時まで過ごせることと、空が見えること。それを叶えられるのは角部屋しかない。低予算で角部屋の明るい物件を探すには古い木造住宅がもってこいだ。隣のおじいさんの歌声が聞こえる部屋というのは案外悪くない。寒さに弱い点以外は不便に感じることはなかった。なお、水回りのきれいさや治安は要件に含まれていない。

2面、2面、3面、4面。これは採光面に強いこだわりを持っていることの証としての過去実績だ。引っ越しを重ねるたびに採光面を増やし続けてきた。現在住んでいるのは、ちょっと無理をして選んだ北新宿のビンテージマンション。北向きの2面採光だ。一見グレードダウンしたようだがそれは違う。なぜならワンルームを囲う壁の3分の1が窓やバルコニーになっており、採光面積だけでいうと過去実績に引けを取らない。そしてはじめての高層階だ。バルコニーの先には文字通り遮るものがない。これまでのどの部屋よりも広い空だった。

北向きの部屋には暗い印象があったため避けてきたけれど、高層階においては直射が入る南向きよりも柔らかな光を取り込む北向きがちょうどいいのではないかという予測もしていた。とにかく内覧の日、薄暗いマンションの廊下から部屋に入った瞬間視界に広がった明るい空間に心を奪われてしまった。

ひとつ訂正しておかなくてはならないのだが、自分が住んでいる物件をビンテージマンションと前置きしてしまったことについて。それは買いかぶりすぎだった。築年数こそ積み上げているものの劣化や街時代の治安悪化によって家賃は下がりきっている。バルコニーはあるが、ユニットバスは洗濯の排水が流れ込むタイプだ。住人はアジア系の外国人が多く日本人を見かけたのは数えるほどしかない。見かけた日本人は100%ご老人だ。場末感が漂うボロマンション。それでも、この街に住みたかったし、立地と広さの割りに破格の家賃、そのほか要件を満たしているこの物件は私にとって魅惑の箱だった。

唯一の気がかりは、マンションに住むのがはじめてで、その中でも高層階だということ。都心の景色を空から眺める暮らしには少しの憧れがあるけれど、2階からの目線に慣れすぎた私の目には落ち着かない。バルコニーから覗いた地面があまりに遠くて、言葉通り地に足がつかないことの不安定さに飲み込まれそうになった。

地面が遠いということは、外と部屋の距離が長いということだ。2階に住んでいたならば、重い足を、疲れた頭を引きずって、地面を這うように玄関のドアに手をかけ、雪崩れ込むように部屋へ潜り込むことができる。外とベッドがつながっている感覚は私を安心させてくれた。ここではどんなに部屋が恋しかろうとも、同じ地面の上にはない。人が自力でよじ登ることのできない高さまで、エレベーターに運んでもらわなくてはならないという事実。そんな日々が続いても、私は大丈夫でいられるだろうか。

不安はそれだけではない。地震や火事でマンションの住人が一斉に部屋を飛び出したとき、私がエレベーターに乗るのは何番目だろう。あるいは、部屋の前にチェーンソーを持った暴漢が現れたとき、ベランダから大ジャンプして逃げることが不可能だ。もし心が深く傷ついて、希望が持てなくなった日が来たらどうだろう。このベランダから飛び降りたい気分になった朝、私は大丈夫でいられるのだろうか。

当然のことだ、はじめてのことには不安がつきもの。生活を変えたいと望んだのだから、これくらいの代償は払って当然。ポジティブなイメージが頭の要領の半分を超えた時、私は契約書にサインした。

問題は多々あれど、部屋は落ち着ける場所でなくてはならない。生き急ぐ癖が治らない私はこの先の人生でもきっと変わらない。外で気張ってしまうなら、すべてを委ねられる頑丈な城が必要なのだ。その空間づくりは引っ越し作業が始まる前からスタートする。本題にうつるが、とっておきのルーティンを紹介しよう。

契約書にサインをして鍵をもらったら、そこは自分だけの空間。しかしそれは帳面上のプライバシーに過ぎない。真に私だけのものにする儀式がある。そのルーティーンさえこなせば、部屋はどんな危険やストレスからも私を守ってくれる城になる。

さてその儀式というのは、お馴染み、塩を撒くという行為だ。部屋に留まった「気」のようなものを追い払う儀式だ。ここまで引っ張っておいてありきたりな提案を残念に思ったかもしれない。だがもう少しお付き合いいただきたい。

手順は決まっている。すべての窓を開放してから、部屋中の角に塩を数粒だけ落とす。パラパラと拡げる必要は全くない。置いた塩粒は工事現場のコーンのようなもので、そこが私の陣地のコーナーになる。これより内側にはなんびとたりとも侵入ができなくなるのだ。陣地をかたどったら、塩を両手にまぶして腕を広げる。部屋の隅々から窓に向かって、中の空気を追い出す格好で動き回る。そう、これこそが、必要のない「気」を追い出す儀式だ。部屋の新しい主人には必要のない、一生涯目視できないであろう何かを外へと逃していく。私の気で満たせるように。

「気」を掻き出したら、玄関、小窓、ベランダなど外部からの入り口に、塩粒おいて回る。これで全方位に陣地を示せた状態だ。作業を終えて振り返ると、クリアな空間だけが広がっている。息が吸いやすい、足がよく動く。軽いのだ。
この儀式をせずに引っ越し作業を開始することは、この先の人生でありえないだろう。

両腕で空気を掻き出している最中は体に重みを感じるが、外に向かって振りかぶった瞬間、スッと荷が降りたように軽くなる。宗教には属していないしオカルトショップにも行ったことはない。スピリチュアルな話題のほとんどには関心がないし、信じたこともない。そんな私がなぜこの儀式に夢中になっているのか。思えば一人暮らしを初めた朝、母が持たせてくれた塩をなんとなく部屋に撒いてみたことがすべての発端だったかもしれない。実家を出ることに多少なりとも不安があったのだろう。塩なんて意味がないとぼやきつつも、一応母親の言うことを聞いてみた結果だ。物音に怯えた日は引っ越し初日に撒いた塩のことを考えた。不運に見舞われた日も、塩のことを考えた。きっと大丈夫よ、塩を撒いたんだもの。

今朝、お気に入りの菊割皿が割れた。オムライスやカレーライスをよそうのに最適なサイズ感と軽過ぎない手応えを気に入って2枚購入したのだ。ピーピーという電子音にかき消された断末魔。昨晩作ったオムライスの、胃のなかに治りきらなかったぶんを温めようとしただけなのに。ホクホクに温まったチキンライスとともに、均等に2分割にされたお皿を電子レンジから取り出した。

縁起が悪いと思ってしまった。こんなきれいな割れかたをされてたまるものか。いかにも、何かが真っ二つに壊れてしまうことを予言しているかのようではないか。こんなことを考えてしまった瞬間から、負けスパイラルの軌道ははじまっている。そういえばあの人からは連絡が帰ってこないし、昨晩すれ違った人の目線が気がかりだ。こんなことがあったし、あんなこともあった。心の引っ掛かりがあれよあれよと浮かび、ささむけのように捲れ上がる。

気がかりで頭が埋め尽くされてしまうと、本当にやらなくてはいけないことを忘れてしまう。仕事は捗らないし掃除や洗濯は滞るし、人ともうまく話せなくなってしまう。この悪循環が竜巻大に肥大してしまわないうちに、対策を取らなければならない。

少し考えて思いついた。そうだ、塩をまこう。二つに割れた皿を流し台に並べ、適量の塩をパラパラと振りかけた。きっとそうすれば、皿の割れ目から悪いものが出てくることもない。この皿から出てくるものは、私の部屋に必要のないものだから。その日は注意深く過ごした。戸締りを2度確認して、言葉をゆっくり発して、湯船にも浸かった。こうして過ごしていたら、夜には気がかりなことがすべて解決していた。これは塩を巻いたおかげに他ならない。


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