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~OHANA #2~

私には一歳上の兄がいます。

家族にとって初孫だった兄はみんなから溺愛され育ちました。
男の子って母性本能くすぐるんでしょうね。
一人では何もできない兄に家族は彼にすぐ手をさしのべてました。
兄の成長を止めるかのように。

一方わたしは、なんでも一人でできる子だったので、特に心配も関与もされることなく育ちました。

飲食店を経営している家だったため、
家族の休みは週に1日だけ。たしか毎週木曜日だった気が。

私は保育園に生後6ヶ月から通い始めました。
物心ついた時から私には大嫌いな時間がありました。
それはみんなが帰る一斉下校の時間。
廊下に並んで親が子供の迎えにくる時間。
私の家族はお店の片付けの時間と下校の時間がバッティングしてしまうため、この時間には間に合わない。廊下に並ぶ友達を横目に、寂しさを押し殺していた覚えがあります。
それでも、どうしても、その時間に迎えにきてもらいたくて、親にわがままを言い、「おやつの時間に間に合うように迎えに来て」と何度もお願いをして困らせていました。

そんな保育園生活も終わり、小学校に入学をしました。
成績優秀、運動も抜群にできていた私と成績微妙で運動神経の悪い凸凹兄弟。家族は兄が学校でいじめられていることが心配で仕方がなかった。
勉強もできていなかったので、いろいろな塾に通わせていました。

でも、それは、兄のためではありません。それは、周りからの目を気にしていたからです。
家が飲食店を営んでいるから、優秀な子として育てたかったからです。

小学校の夏休みはずっとお店にいました。
お店で夏休みの宿題をしながら、コンピュータをずっと使って遊んでいました。お店で仕事をしているパートさんの子供さんとも一緒にお留守番をしました。

お仕事が終わる時間になると、パートさんが子供たちを迎えにきて、バイバイをする。
私のお母さんはなかなか迎えにこない。
保育園の頃からこの迎えにくる時間が本当に嫌いでした。
待つ時間が嫌いだった。
寂しさがこみ上げてくるから。

でも、上手に家族に愛情表現をすることができなかった私は、ただの意地っ張りの娘として育っていきました。

そんな意地っ張りの私をいつも叱っていたのは「父」です。

私の家族にはとってもとっても怖い「父」の存在がありました。
父はとても厳格であり、車の乗り方、食事のマナーにとっても厳しかったのです。

父が小さい頃からやっていた「バスケ」

「面白いところがあるから一緒に行くぞ」
とよくわからないまま行った先は「ミニバスケットチーム」でした。
私はそこに小学1年生から通うことになりました。

しかしこのスクールは、毎週木曜日にあるため、父と母は毎回喧嘩していました。せっかくの週に1度しかない休みをバスケに費やすのに母は許せなかったから。
でも、父は私にバスケを習わし続けました。
母は1度も迎えにくることなく、私のバスケの迎えは父の役割でした。

木曜日。休みだと思っていましたが、宴会など大きい団体のお客さんの予約が入ると、定休日なんて関係なく営業していたので、私のバスケのお迎えにしばしば遅れる時もありました。

私の大嫌いな迎えの時間。
暗闇の体育館で体操座りしながら父を待つ。
なかなか来ない父の存在を、、、寂しさを押し殺しながら、保育園の時みたいに。
父が来た時は笑顔で、全然寂しくなかったよと平然な顔をしながら迎えていた私であったが心の中では寂しくて涙でいっぱいでした。

父がお詫びにいつもコンビニでアイスクリームを買ってくれて、
抱っこもしてくれました。
嬉しくて、これが嬉しくて、いつも許してしまうんです。笑

小学四年生になり、バスケも大会に出るようになる学年になりました。
大きい大会が近づいて来て、遅くまでバスケの練習をクラブで行い、
父にアドバイスをもらい、家に帰ると、そこには美味しいカレーライスが。

カレーライスをその時放送されていた、アタックナンバーワンを観ながら、食べて、みんなに「おやすみ」と言い、眠りにつきました。

それが、父との最後の言葉になるとは思わず。
父はその日私が小学4年生の4月22日にこの世を去りました。
原因は心筋梗塞。家族は「働きすぎだった」と一言。



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