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《人生は映画だ》祖母のはなし(祖父と出会うまで編)

祖母は御歳81歳。

どんな日でも化粧をし、パールのビーズとスパンコールをこよなく愛する。派手かというと全然そうではなく、人見知りで控えめ。小柄で髪をクルクルとカールさせ、微笑みながらお辞儀をし、小股で祖父の半歩後ろを歩く人。
足るを知っていて、毎日幸せだ、こうして生きてられて有難いと言って過ごしている人。
掃除機をかける時は必ず昭和歌謡を口ずさんでいる人。私に何としてもお菓子や果物を食べさせようとしてくる人。
インナーとエプロン、カーディガンの色合いを毎日変えて、オシャレを忘れない人。
おもてなしが好きで、相手のコップが半分まで空くと、半分追加する人。いわゆる「ザル」を超え「枠」とまで言われるの私の父を唯一潰した人。それも何の悪意なく。

私の祖母というのは、本人なりに大まじめなのにどこか面白い顛末を迎えてしまう。

以前私の喪服を見繕ってもらったときには、真剣にあれでもないこれでもないと目を光らせた帰りの車内で「あぁ今日買った喪服、すごく似合ってたね。着るのが楽しみだね!」と。

私は祖母のそういう所を愛してる。

祖母は北海道の当時のそこそこ都会で生まれた真ん中っ子であった。たしか6人兄弟くらいだったはずだが、私が知っているのは祖母の弟と妹の1人ずつだけ。他の兄弟は早くに無くしたらしい。

祖母はあまり多くの昔話はしないが(なんせ祖父がおしゃべりなので)先日聞いてみると面白かった。

祖母の父はバイオリン奏者であったそうだ。あら、リッチ。当時の映画は無声映画。そのために映像に合わせた効果音やBGMをリアルタイムで補完する必要があり、それを担う仕事をしていたらしい。
バイオリンが鳴り響く家だったそうな。

祖母の父(つまり私の曾祖父)は兄弟の中でも祖母をよく可愛がってくれたそうだ。それはそのはず、祖母は今も昔も美人。控えめではにかみ屋の彼女を連れていけば大人から大層可愛いがられたことは想像にかたくない。
5歳頃から小さな演奏会があれば祖母は曽祖父の後について行き、バイオリンを弾く父の横でダンスを踊っていたとか。踊り疲れて眠った祖母を、父親はおぶって家まで連れて帰ってくれたらしい。

つい数ヶ月前、初めて祖母の口から戦争の話を聞いた。当時の祖母の住んでいた地域は港町で艦砲射撃が酷かったという。空襲警報が鳴り響き兄弟と共に防空壕に避難したこともあった、と。祖母の母(つまり私の曾祖母)は何かあってはいけないと、念には念を入れて、畳を剥がして引きずってきて防空壕の入り口に蓋をしたらしい。
そうして曾祖母は防空壕から去り、家へ戻った。なんでも祖母の妹は腎臓の病気で見た目が悪く、「もし死ぬのなら嫁にいけないであろうこの娘と一緒に死ぬ」と決めていたそう。末の娘を抱いたまま家にじっと座り込んでその時を待っていた。当時の女の生きる道を思うと、考えさせられるものがある。

祖母が防空壕から出るとそこは空襲後の焼け景色。曾祖母が塞いでくれていた防空壕の畳には爆弾の破片が刺さっていたそうだ。祖母は「あの畳がなければ、私か誰かが死んでいた」と話した。

余談だが、あの日防空壕に入らず娘と2人、サイレンの鳴り響く中、死を覚悟した曾祖母は私が1歳になるまで生きた。私を可愛い可愛いと抱いてくれたらしい。私は覚えていないけど、愛してくれてありがとう。私もあなたを愛しています。

その後祖母の父は職を変え、大きな工場の沢山の寮を管理する立場に立った。まぁ港町と言えば鉄鋼業である。その手の会社の寮だ。
祖母はというと成人し、父に言われるままにいくつかの寮を転々とし、寮に住む人たちの世話人や事務をさせられていた。

そこでも祖母は持ち前の美貌を発揮。職場から出てきた祖母を見た寮の住居者たちが何階建てにもなる寮から「ヒュー!ヒュー!」と囃し立てていたそう。祖母が帰る時には数人の男性が祖母と共に帰ろうと出口で待っていたそうな。

そういえば、祖母は社内の将棋部に入っていたらしい。にもかかわらず、祖父母宅にある分厚くて立派な将棋盤に祖母が対峙している姿は見たことがない。何故と聞けば、将棋のルールは分からない、と言い出す。
「それ、将棋がどうとかじゃなくって、多分おばあちゃんっていう華が欲しかったんじゃない?」と言えば、「えー。あぁ、そうかな」と満更でもない顔で言い切った。お茶くみしてた記憶しかないなあ、とも。いやはや、時代である。そしてさすがは美人歴八十数年。自分が美人と言われ慣れているとかろも立派なものである。

さぁ、そんな昭和の、経済大国へとぐんぐん成長していく日本の大工場の片隅で、私の祖父と祖母は出会った。

ここからが、昭和の北海道、この後60年続くロマンスの始まり始まり〜!

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