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イスラエルとパレスチナの若者がヒバクシャから学ぶことは?

 8月9日、npo 法人「聖地のこどもをささえる会」が主宰する「平和の架け橋プロジェクト」でイスラエル、パレスチナの若者が10名来日し、広島を訪問した。
8月11日は、ANT-Hiroshimaのコーディネートで、被爆証言をつづけている93歳の森下弘さんからお話しを伺った。

森下弘(もりしたひろむ)
1930年生まれ。15歳の時、学校には行かず、工場へ動員され、武器の製造作業などを強いられる。8月6日、爆心地から1.5㎞建物疎開作業中に原爆投下、大やけどを負う。母親を失う。
父は出張、妹2名も工場に動員、あるいは疎開していたために無事だった。 

あの日の証言
  友達が一人、「自分の顔がどうなっているかわかるか」と聞いてきた。
帽子をかぶっていたが、ぼろ雑巾のように皮がずるっと剝けていた。手からも皮が剥けて垂れていた。
今度は、橋を渡り、火が迫ってくるので、必死でがけをよじ登った。ずれ落ちた子供が下の方で、助けてーと叫んでいる。地獄から聞こえてくるようだった。途中で振り返ると、今まであった町がない。
街全体がなくなっている。何もない。今まであった町がない。爆撃されると普通自分のまわりが破壊されて人が死んでいるはずなのに何もない。何で町がなくなったのか、考えてもわからない。目に映っているだけ。自分の目がカメラのレンズになって、写っているけど何も感じない。
 しばらく歩く。兵隊の群れが来た。軍服を着ている。みんな申し合わせたように、ずるっと皮がむけた手を幽霊のように差しだし、私に向かって歩いてくる。
そこで、初めて、異様なことが起こったと思ったけど、何だったかわからない。
それから、我に返って、、さてどうしよう。家に帰ろうと思って山を下った。
家が壊れ倒れ、電線が絡まった。歩きにくい。やけどした顔が膨れ上がってヒリヒリ痛み出した。泥水の防火用水でタオルで傷を冷やしながら、歩いた。
 自分の町の近くまで来た。橋を渡ろうと思っても、町は火が燃えている。炎だけでなく空気が膨張し、はじき返されるようで橋を渡れない。それで河原に降りた。そこは地獄だ。担架に乗せられてきた女の人の頭から血をかぶっている。
軍刀を地面に突き刺して何か叫んでいる軍人や、やけどして火ぶくれになった人がたくさん転がっているし、川のそばまで水を求めて力尽きてた人達。川のそばまでたどり着き力尽き浮かんでいる死体が、2倍くらいに膨らんでぷかぷか浮かんでいる。真黒焦げの人が転がっている。
 まだ戦争は終わっていなかった。戦闘機が上空を旋回。川は危ないから兵隊が逃げろという。広島駅の近くの小高い丘に逃げた。貨物列車が倒れて燃え上がる。人々が悲鳴を上げて山に登ってくる。夕方まで山にいた。そこで自分の町は燃え尽きてしまった。たという情報が入ってきた。
 死体を河原に運んで、死体を焼く煙が毎日見えた。
自分もいつそういう状態になるか恐れながら毎日を過ごしていた。
その間、母の妹が見舞いに来てくれた。彼女はやけどもしていなかったのに見舞いに来てくれて2週間もたたないうちに口から黒い泡を履いて亡くなった。放射能のことを知らなかった。原爆の毒だと思って恐れていた。
 私自身は傷口はふさがったので、静養した。翌年にはケロイドのやけどの手術を受ける。普通のやけどなら治療して納まるのに、おさまった後がまた盛り上がってくる。
耳は、もともと生まれた時から少しおかしかったが、完全になくなってしまった。

伝える事

 大学に入って、結核になった。当時は若い人が一杯結核になりたくさん亡くなった。学校は2年間休学した。そのころ世界の状況を見ると、日本は戦争に負けて、第二次世界大戦は終わった。平和が来ると思ったのに、朝鮮戦争がはじまった。朝鮮半島は広島から東京までより近い。トルーマン大統領は水爆の開発を指示する。まさに平和とは逆の方向に向かっていた。
苦労して、大学を卒業して、先生になった。ある文学サークルの人が、「多くの高校生を教えてきて、彼らが原爆のことをどう思っているか」聞いてきた。ところが、私は、やけどの顔のことを生徒に話せないでいたから答えられなかった。その時、私は自分のことを話さなければいけないと背中を押された。
 もう一つは、子どもが生まれたこと。
原爆の影響が出てないか恐れたが、普通の赤ん坊が生まれた。まだ目も見えないのに乳房に吸い付いている生命力の不思議さ、強さ、そして、寝顔を見ていると、原爆の日、真っ黒こげの幼児が転がっていたのを思い出し、寝顔にオーバーラップした。だからこういうことはあっちゃいけないと思ったことが背中を押してくれた。

平和巡礼
 1964年、バーバラ・レイノルズさんが企画した世界平和巡礼に参加。アメリカやソ連、などを回り、核兵器の廃絶を訴えた。
平和巡礼がおわり、帰ってきて、一時の物で終わらせないでWFC「世界平和研究の家」を作って永続的なものにする。世界の心ある人達がそこに集まって、台風の目のような静かなところにして、こころ一緒に、自分達の本心で、人間の在り方、平和について話し合う場所が作らえ、最初のころからかかわっている。

 これからの世界
  G7で出された、核抑止、核によって戦争が抑止されるということを前提とした広島ビジョンは少なからず残念に思った。イランの核は問題になっているが、もし、核で攻撃するとなると大変なことになる。心配事が一杯だ。私は93歳、被爆者はほとんどいなくなる。
私たちが第二次世界大戦が終わって、直後に思ったことは、「あれほど多くの兵士や人がなくなった。そういう戦争は、もうないだろう、核兵器もなくなるだろう。」本当にそう思った。その思いはずーっと変わってない。人類を信頼したい。そうあって欲しいと信じている。

質疑応答

森下さんの話を聞くイスラエル パレスチナの若者

質問:トルーマン大統領にお会いになった時謝罪がなかったことが残念だったとおっしゃいました。歴代のアメリカの大統領は誰も謝罪しないのに、どうやってトラウマをのりこえることができたのでしょうか。

 会見は3分しかなかったし、トルーマンは大統領をやめていたのだが、残念だと思いました。
ただ、現役の大統領が、謝罪するということは、核を手放すことを意味するので、彼らは核を手放さない限り謝罪はできないのだと理解しています。
 トラウマは、トルーマン大統領が謝罪すれば乗り越えられるというものではないです。他にもいろいろある。
トルーマンは被爆者に会いたくはなかった。それは、自分が原爆を落としたことを恥じてるから。出てきてしゃべったことだけでも大きな前進だとバーバラさんも言っていた。そして今では、トルーマンのお孫さんが、被爆者がアメリカで被爆体験を語るお手伝いをしています。

質問:喜びを感じたことは?
体験を数多くの生徒たちに、修学旅行でやってきてみんな旅館に泊まるので、そこで被爆体験を語る。ずいぶんの人たちに話した。熱心に聞いてくれて、こころに止めてくれたことが喜びです。

質問:日本人は戦争体験を話したがらないですが、森下さんは心の葛藤はなかったですか?
家内の兄が原爆でやけどしています。先月亡くなったので、生きているうちに聞いておけばよかったと思いました。私は教師だったのですが、彼は、金融関係の仕事だったので、話す機会は普通にはなかったのだと思います。私自身は、大学時代、授業が終わった後に、学生運動家の先輩に、ここに残れ、って言われて、みんなで平和運動の話をする、平和運動をしてほしいと言われたが、ケロイドを売り物にして運動するのは嫌だと思った。でも私の場合は隠せない。じろじろ見られる。隠せないなら堂々と原爆でこうなったってことを伝えようと思った。

質問:どうしてアメリカは謝罪しなければいけないのか、戦争だから仕方がないのではないでしょうか?
 私たちは中国にも行った。南京大虐殺されかけたけど、死んだふりをして生き残った人とも話をした。私たちは、謝罪できるなら個人的にはしたい、朝鮮やシンガポールでできるなら謝罪したいと思い、私はそうしてきました。

質問:私は、アメリカにもいましたが、原爆の話をしたことがありません。アメリカでは軍人や一般人の反応はどうですか?

 平和巡礼で1か月、各家庭でホームステイや学校、教会にも行きましたが、その時は怖いという思いはなかったです。受け入れてくれた人々が憎しみではなく、広島・長崎で被爆した人をちゃんともてなしたいという善意の人たちだった。
アメリカの退役軍人の集まり会合に出くわしたとき、「お前たちは、我々の戦争をよし(アメリカが正しかった)として、やってきてくれたんだね」といった宣伝に使われたこともありました。

ヒバクシャ証言の企画をしてくださった渡辺朋子さん(ANT代表)

ANTの思い
「みなさま、今日は、森下さんの話を注意深く聞いてくださり、そして声を聴いてくださってありがとうございます。
 これは、神からの贈り物です。皆さんのそれぞれの神、そして私たちの神。どうか、自分たちが自分たちの未来に責任があるんだということを思い起こしてください。
それぞれが、考えて、議論して、討論してください。私たちが知る前に、あなたは、核兵器を知っていたのですが? 誰が生存するかどうか知っていたのですか?知らなったでしょう。何が起きたかを知らなければなりません。それぞれの国で、地域で、世代で。そしてそのあと、どうか話し合ってください。どうやったら新しい世界が作れるか。
これは私の意見ですが、世界は割れている、どうして?誰がそうしたのか ?私たちがどうやって変えていくか?もっと明快で、もっと平和的で、包括的な ビジョンが必要です。この旅の間でどうか議論してください。そしてそれぞれが持ち帰り、考えて、対話して、友達、家族や皆と話し合ってください。 私たちは、私は明日も続けます。」渡部朋子さん

参加して思ったこと

 今回、私は、「聖地のこどもをささえる会」の井上代表に、「広島に連れていきましょう」と提言した。予算は相当厳しかった。「このプロジェクト、2005年に、イブラヒム神父が『イスラエル、パレスチナの若者に広島を見せたい』とつぶやいたところから始まっているそうですよね。やっぱり、G7も広島で開催されるし、若い人達がどういう世界を作っていくのか、こんな時代だから、広島は見てほしい。」と説得した。
 日本に来て旅行して楽しかったで終わってしまっては、私の中では何かくすぶってしまうものがあった。
というのも、私自身が、1997年-2002年までのパレスチナ滞在で平和教育に携わり、人間が人類の平和を求めるのか、個々の平和を求めるのか、そういう答えのないテーマを追い続けて、広島長崎が常に頭の中にあった。日本人として伝えなければならない事。でも私はヒバクシャじゃないから当事者にはなれない、そんな思いで活動を続けながら気が付くと広島、長崎の人たちと活動するようになっていたからだ。コロナもあり私自身もこもりがちになっていたが、広島を訪れたことで原点に立ち返れるような気持になれた。ヒバクシャの方が93歳になっても、体験を語る姿を見ていると人間というものをリスペクトせざるを得ない気持ちになる。人間としてリスペクトできなくなると戦争につながるのかとも感じる。イスラエル・パレスチナの若者たちがどう感じたのか。彼らに再会する8月20日聞いてみたいと思う。



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