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「死」の表現と子どもたち


我が家の子どもたちが通っていた幼稚園は、子ども目線の保育がすばらしい、自慢の園だった。
中でも「教育の真髄を見たなぁ」と息を飲んだのが、幼稚園の展覧会でのこと。


毎年、年長さんは集大成として、ホール全体を使ってみんなで1つのテーマを追求する。そのテーマも園児たちが相談して決め、ありったけのダンボールと大きなブロックをなどを駆使して、1ヶ月ほどかけて作品を完成させるのであった。

たとえば、ある年のテーマが「高尾山遠足」だったら、園児100人余りでホールいっぱいに、秋に行った遠足の全行程を表現するのだった。
バスを作るグループ、ダンボールやブロックで実際に登れるような山を再現するグループ、山にある神社を作るグループなどに分かれて作業する。そしてさらに、壁に「遠くに臨む富士山」を貼り付けたり、動くロープウェーを作ったり、あちこちに守り神の天狗を潜ませたり、立派なご神木を作ったり、雲を浮かばせたり、手水舎(神社の手を清める所)を増設したりと、子どもが見聞きしたもの触れたものを感動的に再現してくれていた。


ある年のテーマは「お化け屋敷」と「水族館」だった。
きっと意見が二分したのだろう。お化け屋敷なんて嫌だという子と、何が何でも作りたいという子と。なので、今回はホールに2つの世界観を共存させることになったらしい。

その「お化け屋敷」。それがすごかったのだ!
幼稚園生なんて、あまり本当のお化け屋敷なんて行ったことはないのではないか。
でも、迷路にいろいろと怖いものがあるだとか、幼稚園のお泊まり会で「お化け屋敷ごっこ」をしただとか。とにかくそういった情報を総動員で、園児が想像できうる「恐怖」がすべて詰め込まれていたのである。

基本的に先生は「手助け」はするけれど「誘導」はしない。
子どもたちによって、大人1人がなんとか通れるような幅のダンボール製の迷路が作られたかと思うと、その小さな手で、毎日もくもくとオソロしいものが出来上がっていった。
もちろんわかりやすく、白い幽霊や一反木綿などの、アニメで見たようなお化けも散りばめられてはいるのだが。中にはテレビ番組『逃走中』のハンター(ブラックスーツにサングラスの人)が何人も曲がり角に潜んでいたり(恐怖だよね)、誰かが閉じ込められている檻があったり、とても大きな蜘蛛の巣にヤバイ色使いの毒蜘蛛がいたり、ダンボールでお墓をたくさん作ったりしている(山田家の墓だとか、堀川家の墓だとか書いてあり、「あ、うちの墓! こんなところに……」と全員ではないが、各家庭の墓を見つけることができる)。血も壁についている。何か妖怪らしきものがいる。なぜか床に大きな石が作られ、置かれている。
社会経験がまだ数年なのに、こんなにもバラエティ豊かに恐怖を表現できるのかと、感心しきり。

そして一番恐ろしかったのは……。
新聞紙で作った等身大の人形に、幼稚園の制服を着せた、そう、「園児の死体」があちらこちらに転がったり、ぶら下がったりしているのだ!
ご丁寧に毛糸で髪の毛も作ってあるし、何と言っても、可愛い我が子ぐらいのサイズの身体に、毎日見慣れた制服(リアリティ〜♪)に上履き。そんな子どもたちがぐったりと転がっているのである! 投げ出されているのである! 天井からぶら下がっているのである!
母親にとって、これほどの恐怖があるだろうか……! いや、ない!


幼稚園の子どもが死体を作る。
ともすると「子どもらしくない」と非難されそうな、「それはやめなさい」と先生がたしなめそうな表現である。しかし止めるどころか、園は子どもに制服と上履きを提供しているのだから、全面的に支援しているのである。
「死」が、そこに無造作に転がっており、大人が付け加えそうな、なんのセンチメンタリズムもなかった。そこがよかった。子どもたちのリアルだった。

そもそも「芸術」とは「死」をも描くものであり、表現にタブーはない。
「生きる」ということは「死」をも含んでいる。いや、「死」があるからこそ「生」がある。
子どもだからといって、忌むべきものとして目をそらさせるものではないし、なかったものとして社会から隠すものではないのだ。


このクレーマー社会にかかわらず、園の相変わらずのブレない姿勢に、
「やるなぁ、幼稚園」と思わず呟いてしまった。




ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️