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18歳のカタルシス


今でも山手線に乗ると、18歳の自分に戻るときがある。

そのころ、毎日の通学に山手線を使っていたのだが、私はそこで『二十歳の原点』という本を読んでいた。

この本の著者の高野悦子さんも、そのときの私と同じ大学生。学生運動が巻き起こっている真っ只中、その本は彼女の嘘偽りのない心の叫びそのものであり、明晰で繊細な感受性がほとばしる真摯な日記だった。
当時、大学に入りたての18歳になりたてだった私は、少し背伸びをしてその本を読んだのかもしれない。しかし、そのドライアイスを押し付けられたようなヒリヒリとする焦燥感は、確実に私の心を焼いていった。
闘争の混乱の中、自身の未熟さと孤独さを抱え、淡い恋を終え、最後は大量の睡眠薬を飲みながら、妙に明るく静かな詩をつづりつつ、日記は終わる。
そして巻末の彼女の略歴に目を移すと、その翌々日未明に彼女は鉄道自殺をしたことが記されていた。


本を閉じ、少し目を閉じた後、私は視線を電車の外に向けた。
自動ドアの窓ガラス越し、白々とした灰色の空の下に、墨色のビル群がどこまでも連なっている。
なにもかも虚しくなった。いや、虚しいというよりは、虚無。すべてが虚ろに存在していた。
そのふわふわとした頼りない感覚をもてあましながら私は空を見つめる。電車は駅のホームに滑り込む。

あれ?……ということはだよ。
私は、電車のドアが開くので、体を扉の端に寄せながら思った。
私に「好きな人」がいるとするよ(特にいないのだが)。でもその好きな人って、結局は私の頭の中に存在する、今までの私が見聞きした情報だけをかき集めてできた「単なる偶像」なわけだよね。
さわっても、喋っても、永遠に私はその人の情報を集めて、虚構の像をどんどんと精密に作りあげるだけで、いつまでも「本物のその人」には触れられないんだよね。
え。じゃあ、私は自分の頭の中の「偶像」を、一方的に好きになるわけ?
相手もその人の頭の中の情報で出来上がった、都合のいい「私」を好きなわけ?
それって、すごく寂しいんじゃないの?
私、どこまでも孤独じゃない?
プシューッと電車のドアが閉まる。

車内は混み合っているというのに、私は闇の中にポツンと立たされたような気持ちになった。足がすくんだように動かなくなって、ぼんやりとする。
ふと気がつくと、降りるべき駅はとっくに通過していた。

好きな人も、親も、友だちさえも、頭で作り上げた偶像だとしたら。
私は世界でずっと独り。
紙に書いた絵と向き合っているようなもの。
それって、虚しくない……? 虚しすぎるでしょう……。寂しすぎるよ……。

「死にたいな」
という、自分の声が聞こえた。
いや、むしろ、頭の中の偶像をかき消すように、自分も消えたいな、こんな虚しい世界なら、バッと飛び出して消滅したい……!


人生初めての、本気の、それも急激にきた「死んだろか」だったので、少し自分で自分にびっくりした。高野悦子さんに酔ったと言われれば、そうなのかもしれない。いや、その通りだ。
だがやはり青春時代特有の、人を求めれば求めるほどに強まるその孤独を、この本によって突きつけられた。そしてそれにより、私の孤独感もいよいよ際立ったというのが、今となっては正解な気がする。

しかし哀しいかな。
結局、山手線がそろそろ一周するするだろう頃には、私自身がそのカタルシスにやや飽きたのかもしれない。
DNAに組み込まれているのであろう能天気遺伝子は、この絶望の重みに耐えきれず、早急にこう結論を出したのだ。
「ま、みんなもそうなんだから。誰もがこの孤独を抱えて生きているんだろう。これを背負うことが、つまりは生きるってことなんだな」
私としてはもう少し哀しみの余韻に浸りたかったのだが、妙にスッキリしてしまって、あっけらかんと帰路に着いたことを覚えている。

かくして私の青春のカタルシスは、山手線一周分ぐらいはあった、と言えよう。

でも、そのときの足がすくんだ感覚は、今でも山手線からビル群を眺めると、ぐっと迫るときがあり、たちまち私はポツンと独りぼっちになる。
とりわけ今日のような、雨を湛えた白々しい曇り空のときは。



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