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連続note小説『みやえこさん』終『生き恥じて』

(前回:4.『新宿にて』)




編集者より まえがきにかえて

 この書籍は、20XX年X月、当編集部宛に自費出版の依頼として手稿を寄せてくれたとある女性の独白をほぼ原文のままに、活字に起こしたものです。
 かつて知られざる生々しい体験を私たちは読み進めていくなかで、その文化的価値を認め、筆者本人とも幾度かの打合せを重ねた末、当社において経費負担のもと、刊行するに至りました。
 当社に送られた手稿には、とくべつにタイトルが見受けられませんでした。よってこちらに関しましては、当社の総意を結して『生き恥じて』という名づけを、筆者了承のもとに行っています。
 なお文中には、こんにちの出版物としては不適切な表現も散見されますが、前述の方針に基づき、忠実に原文を掲載しています。また固有名詞については、適宜ルビおよび注を付して、読者の理解の助けとしています。


~以下原文ママ~


どなたに対してお詫びをして良いのか、悔いるべきか、分別のつきませぬゆえに、こういったかたちでわたくしの恥ずべき半生を公開しさらけだしまた反省をしたく存じます。

駄文長文綴りますことをお許しくださいませ。推敲はわたくしなりに致した次第でございます。出版社編集の方へは、限りなくそのままご掲載くださるようお願いします。みみずの這うような御見苦しい字の原稿で恐縮ですが、これが出版物となって活字となって、世の皆様に多くご覧になっていただけることを願っています。

なおもって、わたくしの駄文の内容そのもの以上に、文筆の拙さが読者様様方を不快とさせる結果となりますれば、全てはこのわたくしめ苦虫晴子にがむしはるこの不徳となりますこと、承知くだされば。

関係各方面の様様方、お許しください。
我がおっと、苦虫一郎にがむしいちろうのしたことでございます。かつての妻として最大限にできる限りを尽くすつもりその覚悟でフデを取っています。

もはや一郎はこの世に居りません。亡き人となりました。それはニューカレドニアの船の洋上にて。ここではおおっぴらにできませんがある特別な手立てをもって。

亡夫一郎に於いては、配偶者であるわたくしめの管理カントクがじゅうぶんにゆきとどかぬ結果、各方面とりわけ窪(注1:「いしま」と読む。ЛЛ県北リアス市の集落。)の様様方に深い深い傷をつけてしまったという結果が何より、わたくしめの悔いる第一の点でございます。

悲しみなどを超越した何か。ご迷惑をおかけした様様方の苦しみ、つらさ、やるせなさはわたくしめの想像を遥かにぜっするものでございます。幾数十年に渡り複数名の被害をうんだことは事実でございまして何より苦境にわたくしめが立たなければお話は始まりません。

いやで、いやで、しょうがありません。

あの人は怖い人です。せっくすのことになると目の色かわります。まるで獣です。皆恐れていたのていたのです。逃げるようにひっこしたのも、表向きは仕事の建前となっています。ほんらいは逃げるように、もう、窪のほうには近寄らないように気をつけてのことでした。わたくしめができる精いっぱいのことでした。

目が怖いのです。まずもって。
ああ
取り乱しますが、フデは緩めません。

あたかも亡夫一郎は、窪では人格者を装い、架空の実兄をでっちあげそのものをエースと称し、自身の凶行をそのものの仕業かのように語ってきたのです。

みやえこという、窪では悪い意味でなの通った店(注2:窪で店主を替え代々営まれている飲食店)をご存知の方は全国には少ないでしょう。度々、新聞ざっしなどには取り上げられますものの。そこへ何も知らない若い女性があこがれて、寄って参るのです。

みやえこの店の二階は、そういう部屋になっております。せっくすの部屋です。一階のひらけた開放的なふんいきのお店のつくりに反して、二階はもう、むうっとした陰気がただよっています。そんななかで、そうされました、襲われました。ただしコチラはお金を出してもらっていますし店の、それと窪に身寄りがほかにありません。しようがないのです。しようがないけど、悔しくて。

わたくしめは初代のようでした。あとは、自由奔放に、なすがままに、亡夫はいきました。東京にきたのだけれど、たびたび、やはりわたくしめの目を逃れては窪にかえり、せっくすに溺れて何食わぬ顔で帰京するのでした。

あずきさん(注3:注5にて述べる髷平まげだいら家の女中)と、メルさん(注4:後述する岩下留いわしたりゅうの妻)と、それからたしか西山にしやまさんとかおっしゃる方も…あぁ今でもいらっしゃるようですね。代々。全く恥ずべき!

花憐かれん、ああもうお嫁にいったのでお他所の方、花憐さんですね。彼女は亡夫とわたくしめの間にできた子です。髷平さん(注5:「まげだいら」と読む。平家の落人、髷平家の末裔。集落北側の山奥に棲みつきしばらく定住していたものの、杉を切り、漁師の船を強奪したり新しい船を作って江戸へ売り始める。材木問屋として集落の長になる。かつては市長、県議も輩出した家柄。苦虫家はその筆頭家臣。)のところに嫁ぎました。花憐という名は亡夫が引き渡しのきわになって慌てて名付け役場へ出しました。二ヶ月くらいまでは、それとなく、やっちゃんやっちゃんとわたくしめも亡夫も呼んでいました。戸籍のそれとは違い。

続けます。

髷平さんの先代のご夫婦に男の子がお生まれにならなかったことで、それは御一家どころか窪としての一大事とあいなりました。跡継ぎがいないわけです。花憐の失ったご主人、モーゼルさんはほんらい髷平の血は引いておりません。おてつだいあずきさんのお子さんなのです。その父は、お察しのとおり一郎でございます。じつは髷平さんの先代さんにはひとり女の子がいらっしゃいました。その子は同じ窪の村田むらたさんというところに預けられ、蘭子らんこさんと名づけられました。さすが、名家の血をひき、非常に頭の切れる才女です。髷平さんとしては古いかんがえですから、男児が好ましかったのでしょう。ちょうどときを同じくして、あずきさんが一郎の子を孕まれました。モーゼルさんです。彼を髷平の跡継ぎとして、そして、先代ご夫婦の東吉とうきちさんみどりさんの間にできた子として、公にされたといった顛末でございます。

ひきかえに、蘭子さんは追い出されるかたちとなったわけです。窪のご近所の村田さんというお宅です。そこから蘭子さんは大きくなって、岩下さんのお宅に嫁がれました。次男の方のほうに。

岩下さん宅の家長は、亡夫一郎の弟さんです。お名前は「留」と書いてりゅうさんとおっしゃいます。苦虫の家から、養子縁組でお婿に入りました。そして亡夫は、自らの弟さんにも手をかけました。弟さんも、数少ない亡夫の実態を知る方だったわけで、どくを盛られたのです。地元の病院に睨みがききますから、わけのないことです。だいぶん苦しんだとききます。奥様と、蘭子さんで、一生懸命に看病をなさったそうです。蘭子さんにしてみれば、義父、あいする方のお父様を亡くされたわけですから、その思いはいっそうと想像します。

ああ複雑ですね。説明が遅れました。岩下さんの奥さんのメルさんも、みやえこさんでした。こちらもまた亡夫一郎の悪戯によって、メルさんを孕ませた結果、長男の慶壱けいいちさんがお生まれになりました。蘭子さんの旦那さんのほうは、留さんとの間にできた慶次けいじさんという方です。岩下慶次さん。ですから蘭子さんも今では岩下蘭子さんですね。

古くわたくしどもが窪に住んでいた頃のことの多くはもちろん、わたくしめが見聞きしたことです。しかしながらいまもって進行中のことに至って、東京三鷹に離れて暮らしながら、ここまで多く窪の情報を微細にわたり知りえているのは、蘭子さんのご協力を得てのことです。普段は東京にお住まいなのですが、蘭子さんは郷里への愛着が強いうえ、さいきんでは義父である留さんの看病によく戻られていたようです。おかげでこのように窪にかんする情報をいまでも得ることができます。

蘭子さんにはこの自費出版の企画もお話してございますし、大きな声ではいえないニューカレドニアの件も相談しての結果でございました。正確には旦那さんつまり慶次さんがそういった手配をお仕事にしていらして、お世話になった次第です。彼女ご夫婦には多大なる感謝を申し上げたいと思っています。慶次さんもある意味では亡夫の被害者のひとりと言えます。

綴ることは骨が折れますね。

さて最後に、ニューカレドニアの件、これだけが私がまだもって勇気を出して書き記すことができず、労苦している事柄です。しかし今更ためらってもそれではかえってこの手記が始末に終えないものとなりますね。勇気を出します。

春先に一郎へわたくしめはクルージング旅行を提案しました。夫とはこれまでそういった旅行などしたことがなかったものですから、純粋に旅への憧れと、それと実によくできた旅行プランのご提案を、蘭子さんの旦那さんつまり慶次さんにいただきまして、夫に相談をしてみました。はじめは拒否をされるものと思っておりましたが、案外すんなりと夫は受入れてくれました。

みやえことしてわたくしめが愛されていた日々を思い出しながらの旅路はほんとうに楽しいものでした。ほんとうに、ほんとうに。なんでしょう、記憶とはふしぎなものですね。

クルージングの最終日、デッキでさんさんと注ぐ太陽の光を浴びたのち、夫へはビュッフェ形式の豪華なメニューへの疲れを言い訳に、わたくしめは朝食にルームサービスを提案しました。蘭子さんの旦那さんに言われていたとおりの、客室係の方への合図です。数十年間、幾日も朝食として口にしていたチーズトーストです。最後の朝食にはこれが良いのかしらと考えてのことです。食べ終わりのころ、頭がぽーっとしてきて、どちらともなく横になろうということになりました。上等なパンのようなふかふかの大きなベッドで、まるでわたくしたち夫婦がとろけるチーズのように、幸せな気分でした。一郎さん。

どのくらい経ったのでしょうか、目を覚ました時には、わたくしめの隣に夫は居りませんでした。見事に一郎は客室係の方の手によって、おそらく苦しむことなくどこかへ始末していただいたのでしょう。慶壱さんがおっしゃるには、洋上へ投げられお魚の餌となり…みなまで書きません。

これが私にできるせめてもの償いでした。救われました。

旅程はシドニーへまもなく戻るところでした。もちろんそこから空路での帰国、そして本日に至るまで、わたくしめひとりで過ごしています。もともと多くモノはもたない性分でしたから、旅支度はもちろん事前の身辺整理もひじょうにラクでした。いまわたくしめは、亡夫と住んでいた三鷹ではなく、もう身よりも他にないものですから、同じ東京でもまったく違う地区のとあるまちに質素な部屋を借りております。

あれから数ヶ月がたち、すっかり日の入りも遅くなった季節この頃、ひとりでの生活にもそろそろ慣れました。いっぽうで精神の面では罪悪感と薄気味の悪さが日に日に増して、辛さに直面することも多々ございます。

わたくしめもプライドを懸けての文筆と、もはや後のない状態でのぞんでおります。これが立派な本のカタチにされて世の中の本屋さん書店デパートに並べば。光栄なことながらも赤面とロウバイと交錯します。

わたくしめは、この恥をこうして書き記すことで贖罪の念をとの思いでございます。この先わたくしめの身にはもしかしたら、想像をぜっする天罰がくだるかもしれません。覚悟の所存です。どうか。

東京生活幾十余年 苦虫晴子
懺悔、後悔、生き恥じて


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西山ツドイをさんざん震えあがらせ、酒代も奢らせたあと散会した一郎は、酔い覚ましに滅多に立ち寄らない書店へふらっと立ち寄った。

歌舞伎町と新宿駅の間に位置する紀伊国屋の店頭には、見覚えのあるかつての妻の名によるハードカバーが、平積みにされていた。


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おわり







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