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連続note小説『みやえこさん』①『とろける』


(前回:序『みやえこさん』)


 

 その夜はじめて、苦虫一郎にがむしいちろうは以前から気になっていたサイトにアクセスした。ひとまず無料見積りの依頼を済ませ床に就く。

 あくる日、さっそく先方からの返信、近日直接会いたいの旨。焦る気持ちもなかったから、ちょうど一週間後、きょうと同じ曜日の午後を指定してみた。

 待ち合わせの場所に着くと、すでに先方らしきダークスーツの男がひとり、こちらに背を向けて座っている。脇を通りつつ、テーブルにきちんと置かれたグレーのバインダーを覗けば、社名のロゴが読み取れたので、一郎は声をかけた。

 「お待たせしました。ちょっとコーヒーを買ってきますね」

 「あっ、あ、苦虫様でいらっしゃいますね」

 ややあって。

 「それでは本題に入りましょうか」

 その営業マンは岩下いわしたといった。改めて恭しく名刺を差し出す。

 「よろしくお願いします」

 岩下はさっと例のバインダーを開き、手際よくサービスをひととおり説明したのち、依頼人を一瞥。

 「ご事情に応じて、いま紹介差し上げたプラン以外もカスタマイズが可能でございます」

 ラテをすする一郎。

 「この『白菊』でいいですよ」

 どうしてこうも、この手の、人間の死と関連したサービスやらなんやらは陰気くさい名前をつけるものか、と無意味に呆れてみた。

 「なるほど。ご案内のとおりもっともよくお選びいただいているプランでございます。基本料金はここに記載のあるとおりでございますが、その他オプションは何かご所望でしょうか?」

 「うーん、いや、別に」

 「献花につきましては、私どもの気持ちとして、無料でお供えさせていただいております」

「花?いりませんよ。だいいちどこに...」

つい笑ってしまった。

 苦虫一郎は、およそ七十年前、北国のとある寒村で生まれた。漁業に従事するものが多い集落だった。特段学業も秀でているわけではなく、運動神経にも恵まれてはいなかった。またさほど魅力的な容姿も持ち合わせていなかった一郎が唯一恵まれていたのは、その家系。

 平家の落人として当地に流れてきた髷平まげだいら家に、代々苦虫家は家臣筆頭として仕えてきた。中世ではひっそりと集落北側の山奥に隠れるように棲んでいたものの、時代が下ると、杉を切り、漁師の船を強奪しては江戸へ売り始めたことがきっかけで、材木問屋として一躍当地の名士となった。明治以降は市長、県議も輩出した。苦虫一族は、虎の威を借り、いしまと呼ばれるその集落では幅を利かせていた。

 「今日契約したら、いつになります?」

 「はい、本日こちらの仮申込書にご記入とご捺印をいただいたあと、いったん弊社にて事前調査をさせていただきます。かんたんではありますけれども。そして、その後はご連絡差し上げてから数日のうちには実行に向けた準備に入ることができますので、おおよそ十日前後とお考えください」

 「ん、わかりました。だいじょぶです」

急ぐまでもない。

 「しかしその岩下さん、あなたあるいは北国のご出身?」

 「は、はい?まぁ東京よりは北のほうでございます。ドが三つくらいつくほどの田舎ですよ」

 妻の名前を晴子はるこという。東京で生まれ育った。歳は一郎よりもひとまわりほど若く、肌つやも潤っている。

 当時、晴子は都内の小さな会社で社長秘書として働いていた。持前の眼力でセールスに出入りする苦虫青年の将来性を見抜いたワンマン社長は、半ば強引に晴子とくっつけてしまった。とはいっても、晴子は晴子で悪い気はしていなかった。
 
 昼夜営業に駆けずり回る夫を、妻はかいがいしく支えた。カネに不自由することもない一郎だったが、好奇心は人一倍。当時としては画期的だった英会話教材のサンプルをひっさげて、「これからは国際交流の時代です」を謳い文句に、大小問わず企業のドアを叩いていたのだった。下手をすると外回りの挙げ句、三日ばかり帰宅しないなどということも珍しくはなかった。

 そんな想い出ももう、五十年近く前の話。
 
 コーンスープをひとすすりすると、ほどよく焦げたチーズトーストを齧った。テーブル越しに晴子を見やる一郎の背筋は、ほんの半年前と比べてもだいぶ覇気を失い、まるくなっている。サラダのトマトをつまむ晴子。味が足りていなかったのか、塩レモンのドレッシングをあらためて振りかけている。

 「最近よく寝れるようになった」

 「そうなの?あなたらしくない」

 「リラックスできてるから、心配はいらないよ」

 「それなら、いいことじゃないの」

 「仕方なく深夜映画観てたときが懐かしいよ、唯一の趣味かなあれが」

 一郎は苦笑し、妻も応じた。

 「あなた旅行は?興味ない?」

 返事がなかったことが答えのようだと晴子は悟った。

 一郎にも、晴子にも、日課はない。気ままに暮らす。多くの日本人が憧れる生活。目覚めた時刻に床から出て、腹時計に従って食事をとる。夫が定年を迎えてしまえば、妻も必然ある種の義務感から解放される。子をもたない苦虫夫妻の日常は他のそれとくらべて穏やかなものだったかも知れないが、これからは一層、凪のような時間の流れに乗って過ごしていくことになる。

 一郎の郷里は、「北リアス市」という名前に替わっていた。平成の市町村合併により、田舎と田舎がくっつけられた結果だ。市の名前はカタカナになったものの、市の中心部から一日に二往復のバスしか公共交通手段のない漁村は寂れるいっぽうだった。商売をやめてからも、ノスタルジーに誘われてしばしば帰郷をくりかえしていた。

 チーズトーストの朝食から二時間も経たないうちに、晴子が思い立ったように蕎麦を食べたいと言い出した。不意の提案にももはや戸惑うことなく応じる一郎。元来、夫婦そろって胃が丈夫であったし、食欲は旺盛だ。行きつけというほどでもないが、歩いて数分のところにある蕎麦屋の暖簾をくぐる。時刻は正午をほんの少し過ぎていた。平日の住宅街の路地裏には、ランチタイムという概念もあまりないようで、六組ある四人掛けのテーブルに夫妻以外の先客はなかった。
 
 注文した鴨せいろを待つ間に、今朝方届いていた岩下からのメールの内容を思い返していた。事前調査は順調、一郎からの正式な発注を以って段取りが前に進むという次第であった。一読した時点での即答がなぜかためらわれた。
 
 蕎麦をすすって帰宅し、軽く惰眠をむさぼった後、改めて岩下からのメールを開く。見積書の「(税)」のすぐ上、「諸経費」が気になるようなならないような。

 くうことも、ねることも、いきることもしぬことも、すべてカネがかかるんだよカネが。一郎は思った。もっとも、カネそのものに苦労したことはないのだが。
 
 承諾の旨を岩下に返信した。その瞬間から、自分を取り巻く世界が一変するような気がした。
 
 段取りは初めて岩下と会った日にすべて聞いて承知していた。不必要な打ち合わせは執り行わないのが同社のやり方らしいし、顧客である一郎も心地よく感じていた。大概のことは、お任せ。納期もあいまいだ。

 「お楽しみにお待ちください。悪いようにはしませんから。必ずご契約は履行します」

 「終わりよければすべてよし」

 午後の情報番組で南イタリアの旅を特集していた。オリーブ畑にワイナリー、山あいにそびえ立つ中世の古城から地中海へ。なんということはなかった。ありふれた旅番組のヒトコマ。妻がチャンネルを替える。こちらも旅番組、行き先は最後の楽園、南太平洋のフィジー、タヒチ、ニューカレドニア。

「あっ」

晴子が小さく声を漏らす。

「どうした」

「ニューカレドニアのほう、行ってみたいでしょ?」

 一郎はとくに返事をしなかった。しかし人生勇退の花道に、妻と二人赤道を越えて南太平洋に足を延ばすのも悪くはないと考えた。

 ひとつ気がかりなのは、例の実行タイミング。岩下に事情を説明すればなんとかなるものか、あるいはすでに先方は準備に取り掛かっているかもしれない。

 いつもとかわらない穏やかな数日が過ぎ、改めて晴子がA4版のカラフルな冊子の束をそっと食卓に載せた。一郎は夕方のニュースをぼうっと眺めているところだった。

「やっぱり、ニューカレドニアに行きたい」

「行こうか」

「いいの?」

 拍子抜けしたような晴子。呼応したようにパンフレットの束がすらっと扇状に崩れる。

「何語だ?」

「えぇっと…」

「フランス語だよ。というか仏領だ」

「そうなのね」

 数冊のうちから、晴子はひときわ控えめではあるがいっぽう気品のあるといえるデザインの一冊を手に取ると、一郎の向きに広げた。

「あぁ船か」

 隙間から名刺がこぼれてテーブルの下に裏向けに落ちた。旅行代理店の接客者のものだろうか。晴子はさっとそれを拾い他の冊子に挟む。

 「そう!豪華客船で。のんびり!いいと思わない?」

 首を横に振る理由はなかった。ただ日程だけが気になった。

 知らぬ間に晴子は南太平洋クルーズの予約を済ませていた。晴子宛の書留郵便を受け取ったのは夫だった。旅程表とミールクーポン、土産のカタログやら訪問先滞在の手引きなどが同封されていた。旅行保険のチラシは読み飛ばした。出発は一ヶ月半後、日付変更線を跨いで十二泊十四日の大航海。とはいえ、日本からニューカレドニアまでの船旅ではなく、空路でシドニーに赴き、客船はそこから出立ということのようだ。


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苦虫一郎様

お世話になっております。
ご夫婦揃ってのご旅行、大変素晴らしいことと存じます。

この時期の南太平洋となると、さぞかし気候も温暖で過ごしやすいことでしょう。お二人の素敵な思い出となりますこと、心よりお祈りしております。

日程につきましてはご心配なく。万事心得ております故、ご安心なさってください。

末筆ながら、奥様にも宜しくお伝えくださいませ。

令和メモリアルエイジェンシー株式会社 岩下

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 文章の下手な奴だな、割と口は上手いくせに。それに、この時期も何もあるか、常夏だ。少し苛ついた一郎だったが、そんなことはさておき気が楽になったことはいうまでもない。

「成田まではどうやって行くの?お天気が気になるわぁ。若い子は海で泳ぐのかしらね?」

 晴子のハシャギっぷりが手に取るようにわかる。成田まで今までも行ったことがあるだろう、天気は四月のこの時期なら台風の心配はいらない、若い女の水着の話なんかして刺激するな、と一郎は声に出さず答える。

 翌朝。夫婦それぞれの気持ちを体現するような柔らかさと歯ごたえで、トーストの上をスライスチーズがとろけていた。ただ夫は若干、興醒めだった。自分の描いた方向から逸れていく心持ちを覚えていた。

 納期は半年以内に、としか岩下からは聞かされていない。身体的な痛みや傷を伴わないこと、また実行のときを予兆させないよう極力配慮することが約束されていた。なおかつ契約不履行の場合にはそれなりの保証をすると約款にもあった。

 もし仮に閉塞感と絶望感に苛まれながら、痛みを伴い、実行された場合はどうなるんだ?と一郎は考えたが、そんな恐れはあるまいとすぐに思い直した。根拠はない。


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岩下様

格別のご配慮、厚くお礼申し上げます。

苦虫

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 デッキで風を受け、陽光を浴びる習慣もついた九日目の朝。フランス領ポリネシアを十日間かけてまわるという航路ももう終盤を迎え、船は出航の地ニューカレドニア島に戻る最中。ダイニングでのブレックファーストビュッフェにも飽きたから、今朝はルームサービスを頂きましょうかという晴子の提案だった。

「チーズトーストってこれじゃうちで食うのと変わらないな」

「そうね」

揃って苦笑した。

 「眠いな」

 「そう、ね…」

 一郎は長旅の疲れからか眠気を訴え、妻もそれに同調したために、少し横になることにした。寝間着には着替えず、クイーンサイズのベッドにゆっくり沈み込む夫婦。まるでトーストの上でとろけるチーズのように。

 南太平洋の隔絶された豪華客船、隔絶された二人の船室。晴子は夫の手を握る。およそ五十年ぶりに。


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苦虫晴子様

お世話になっております。

この度は弊社をご利用いただき、誠にありがとうございます。
無事ご成約に至りましたこと、大変喜ばしく感じております。

以下にお申込み内容を記載いたします。
いまいちど内容をご確認いただき、問題がないようでございましたら、
「承諾」の旨、ご返信をいただけますでしょうか。

<お申込み内容>

●コース名称
~地球最後の楽園~ 天国にいちばん近い島ニューカレドニア 南太平洋周遊の旅12日間

●日程
20XX年3月2日~20XX年3月14日

●旅程表
別紙(書留郵便にて)

●料金
おひとり様 X,XX9,800円(税込) × 2 名様 = X,XX0,600円(税込)

●ご支援実行方法
睡眠剤 + ガス

●実行タイミング
旅程内において(詳細は別途、取り決めによる)

●ご供養
弊社委託先スタッフにより船内施設にて焼却、粉骨ののち、海上散骨

●免責
依頼者の都合により本旅程中にご支援不履行を承ることは可能。ただしその場合の一切の責は依頼者に属する

上記の内容にご不明な点がございましたら、是非お問い合わせください。
ご返信お待ちしております。

令和メモリアルエイジェンシー株式会社 岩下

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 「ところで、実際夫のほうは問題ありませんか?」

 「ご心配いりませんよ。積極的に広告が目につくようプッシュしますし。最終的には図々しく直接押しかけさせていただきます」

 「頼りにしていますね」

 「お任せください」

一郎に先立って、晴子は岩下と商談を取り交わしていた。

 「ああ、肝心なことを忘れていたわ。いつやるのかしら?」

 「はい、実行のタイミングは旅のなかで、奥様にお決めいただきます。合図をいただければ結構です」

 「そうなんですね」

 「充分に旅を楽しまれてから、終盤でけっこうかと。その際合図だけ、あらかじめ取り決めしますのでいまお考えいただけますか?」

 「どんな?」

 「はい、たとえばルームサービスをご注文いただくとか…」



つづく






 

 
 
 




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