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あなたがそばにいれば #26

Ryuji

兄が息子と姿を消したことを義姉さんから知り、少なからず僕も動揺した。

朝の6時になりその日の前半の業務を終えた僕は兄の携帯に電話を掛けてみたが、義姉さんが言っていたように電源が入っていないようだった。

僕は舌打ちし、上司にメッセージを送った。

体調が悪いので今日の業務を終了させてください。半休という形を取らせてください

当然上司はまだ勤務を開始していないから許可は下りていないが、構わず仕事用のパソコンの電源は落とした。

左腕につけた腕時計を見つめる。
以前兄がくれたものだ。

外に出ることがあまりないから腕時計なんて必要ないのだけれど、これは兄が側にいない時の兄代わりになるものだ。

いかにもサラリーマンっぽいけど、シンプルで兄らしいデザインだと思った。

「兄ちゃん…だめだぞ…変な気、絶対起こすなよ…」

結局僕は、兄が何について悩んでいるのかを、兄の口から聞くことが出来なかった。

兄も兄で、そんなことを僕に話した所で解決するわけでもないと思っていただろうけれど。

子供の頃から兄は既に大人で、両親にははっきりものを言い、僕の話はいつも優しく聞いてくれた。
周囲とうまくいかない僕を、兄だけは全てを受け入れてくれた。

だから僕も多少大人になった今、兄のために話を聞いてあげたかった。
あの頃僕を助けてくれたみたいに、僕も兄を助けたかった。

待っていれば義姉さんのところには戻ってくるかもしれない。

でも僕のところには?

「兄ちゃん…何やってんだよ…どこに行ったんだよ…今日は木曜日だからな…!」


僕は家を飛び出した。

飛び出して、走った。

ただただ、走った。


「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」


叫びながら、兄がたどり着く場所を、たどり着ける場所を求めて、僕は走った。



Yugo

通勤途中で、スマホが鳴った。
番号を見ると、次長からだった。

次長は昨日会社を休んでいる。前田さんの様子も終日落ち着かなかった。

一瞬、不安がよぎる。

「はい、飯嶌です。次長ですか? どうされました?」
『優吾、悪いんだが今日も休みをもらいたい』
「あ、はい…了解しました。次長、だいぶ具合悪いんですか? 大丈夫ですか?」
『大丈夫だ…。ただちょっとお願いしたいことがある』

僕は息を呑んだ。声が上ずらないように、腹に力を入れた。

「は、はい、何でしょうか?」
『優吾の彼女…今日うちに来る日だったよな?』

僕は頭の中で曜日を考える。

「そうですね、木曜日ですから」
『1時間後に、今から言う場所に彼女を寄越してくれないか? 俺、彼女の連絡先を知らなくて、直接連絡が取れない』
「美羽を…ですか?」
『そうだ。蓮を預かってもらって、そのまま連れて家に行って欲しいんだ』

状況がよくわからず、僕は聞き返した。

『今、俺は蓮を連れて外にいるんだが、他に用があって連れて帰れないんだ。夏希も出てこられなくて。優吾の彼女なら安心して預けられるから』
「は、はい…わかり…ました…」

僕は次長の言う通りに従い、出社して自席に着くと指定された場所を美羽にメッセージで送り、直接電話でも要件を伝えた。
美羽も少し不審がっていたが、わかった、と言って電話を切った。

僕はこの時小さな、いや、大きなミスを犯した。

僕も会社を休んで、美羽と一緒に次長に会うべきだったのだ。

だって奥さんだって美羽の連絡先は知っているはずなのに、どうして奥さんではなく、僕に訊いてきたのか。

僕はいつか次長に言われた、恐ろしい言葉を思い出した。

久しぶりに一緒にランチ行った時。
帰り際に言ったのだ。

"俺に何かあったら、夏希をよろしく頼むよ"

酒飲んで酔っ払った状態で言ったわけじゃないんだよ? ランチの後だよ?
冗談じゃない、と思った。

何でも次長の力になります、と言ったけど、出来ることと出来ないことがある。

いや、やりたくないことがある。

次長が自分自身を投げ出すことの手助けだ。

そんなことを考えていたら美羽から電話が掛かってきた。
席を立ち通話に出る。

『いま蓮くんを預かって、夏希さんのところに向かうところなんだけど…』

美羽が酷く怯えた様子だったので、今のこの不安を増長させた。

「なに、どうした?」
『それが…』

僕は美羽の言葉を聞いて、弾かれるように自席に戻った。

「前田さんすみません、ちょっと早退させてください」

ただならない様子に前田さんも真剣な顔つきだった。

「どうしたんですか?」

言おうかどうか迷う。
前田さんだ。
次長のことが大好きな、前田さんだ。
だからこそ、言ってしまったら前田さんも心配して仕事が手につかなくなってしまう。

次長を含め僕たち3人は仲間だ。最高の仕事仲間だ。
僕たち2人を最も信頼している、と次長は言ってくれたことがある。

「後で…話します」

僕はそれだけ行って、会社を飛び出した。


頼む、頼む、頼む、と心の中で何度も叫んだ。

次長さん…顔に怪我してた。そのせいかすごく怖い顔してて…怒ってたわけじゃないんだよ。むしろ笑顔だったと思うんだけど…目が落ち窪んで青ざめてて、あんなに痩せてたかなって…ちょっとびっくりしちゃって…

美羽が電話で話していた言葉が脳内再生される。
怪我? なんで? 何があった?

お仕事お休みなんですか?って訊いたら “うん、ちょっと片付けなきゃいけないことがあって“ って話してて。家には戻らないんですか?って訊いたら、困ったような顔して “ごめん、ちょっと急ぐから。子供たちと夏希をよろしく頼むね。優吾や美羽さんがいてくれて本当に良かったよ” って言って、目の前でタクシー拾ってどっか行っちゃって…

“夏希をよろしく頼む”

僕もタクシーに乗り込み、野島家の住所を告げる。
乗り込んですぐ次長の携帯に電話をかけたが、繋がらなかった。

あなたの心と身体は今、均衡を保てなくなっているかもしれない。
どうしようもなくたゆたってしまっているかもしれない。

僕はあなたを最強に強い人だと思っていた。
同期も周囲もあなたのことをドSといい、優しく厳しく超優秀なビジネスマンだと思っていた。

奥さんのことになると頭が上がらない様なこと言って意外とかわいいところあったり、唖然とするほど圧倒的な愛情をあっさり表現したり。

でもあなたは僕に弱いところを見せてくれた。色々話してくれた。

奥さんのことをどうしようもなく愛しているがゆえに、過去に犯した過ちについて深く悩んでいることまで。

"俺はどうすればいい?"

頭を抱え子供のような目をして、珍しく僕にそう訊いてきたあの時。

"…奥さんに話すべきです。全て話したって、奥さんは次長から離れていったりしません。奥さんだってどれだけ次長のこと好きか…愛しているか、僕、あてつけられたことあります。だからわかります。次長が不安に思うほど、奥さんはそういったことで離れていったりしないと思います。全て話したら楽になりますよ"

次長は寂しそうに笑い、奥さんだけを連れて誰も知らない遠くに行きたいと言った。
2人だけになれる世界がこの世にないもんかな、と。むしろ奥さんの中に融けこんでしまいたいとも言っていた

あの時のあなたはもう限界だったんですね。

どんなに立派な役職者だって、人間ですし。
カッコよくて若い時から恵まれて見えても、内側が同じように華やかとは限らない。

そしてそんなことは、誰もが気づいてくれるわけじゃない。
だから、逃げ出したくなる。

けれどあなたはいなければいけないんです。
あなたに毒された人が、あなたを愛する人がどれだけいると思ってるんですか。

そうだ。僕は使命を受けた男のはずだ。
しかも本人からだぞ。

だから僕は…僕は…あなたの心と身体をつなぎとめます!
あなたには居場所がたくさんある。

僕はあなたをその場所に戻しますから。力づくでも。
あぁ、僕の腕力あまりないから心配だけど。

あなたがそばにいれば、それだけで満たされる人たちが、たくさんいる。

だから。



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