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あなたがそばにいれば #18

Ryuji

木曜日のASDの会合は最近ことさら調子がいいから月に1回行くことにしようと決めた。
それでも兄は毎週僕のところに来て一緒に飯を食ってくれる。

僕は一人の時はあまり食事に興味がなく適当もいいところだったが、兄の顔を見るとお腹が空いて、何でも食べられる気分になるから不思議だ。

初めの頃は兄に "俺のことなんだと思ってるんだよ" って笑われたけど、週に一度はちゃんとした飯を食わせるために、会ってくれているのかもしれない。

外食の時は赤ちょうちんだったり、めちゃくちゃ感じのいいレストランだったり、兄のチョイスで連れて行ってくれる。
僕は酒がほとんど飲めないけれど、自分では選ぶことのないそういう店に連れて行ってくれるのは嬉しかった。
行った店で僕が居心地悪そうにした場合は、二度と同じ店に行かない。
明るすぎるとか騒がしすぎるとか、環境に敏感な僕のことをわかってくれているから。

話し込みたい時は僕の部屋に来る。
部屋にはテーブルがないから床に飯の皿を並べて座り込んで食べる。まるで中東の食事風景だ。
兄は冗談で「ペルシャ絨毯でも買うか」と笑った。

蛍光灯の灯りが好きではない僕は、ルームライトをつけて薄暗い中での食事になる。

そんな風に部屋で食う時の兄はちょっと楽しそうで、僕も気分が良くなって更にたくさん食べてしまう。

ただ最近の兄は仕事が忙しいのか、疲れた顔をしていることが多かった。
他人の変化には気付かないこと多いけど、何故か兄については感じ取ることが出来た。

ある日、兄は変な話をしてきた。

コンビニで買ってきた唐揚げだのナポリタンだのの空き殻、更にビールやハイボールの空き缶や、僕が飲んだジンジャーエールのペットボトルが部屋に転がって、相変わらずの学生みたいな飯を食っていた時だ。

「隆次、お前、自傷行為はほとんどなくなったな」

「薬も飲んでるし、兄ちゃんもこうやって会ってくれるから」
「自分を切る時って、どういう気持ちになるんだ?」
「…どした急に? なんでそんなこと知りたいの?」
「何となく、どういう気持ちなのか気になったんだ」
「俺の場合はどうしていいかわからない時。普段は全部ちゃんと処理できる頭の中がオーバーフローしたみたいになって、何かで抑えないと爆発しそうになる時、切るとちょっと落ち着くんだ」

「どうしていいかわからない時…」
「ね、兄ちゃんどうしたの? なんかヤバいこと考えてるでしょ」
「いや…」

「兄ちゃんいい? 兄ちゃんが俺に言った言葉。『ヤバいことになりそうだったら、ナイフを手に取る前にこの腕時計を見て俺を思い出せ。深呼吸して、それから俺に電話をかけろ』兄ちゃんそう言ったでしょ。今の兄ちゃんの腕には俺があげた腕時計がある。そしたら兄ちゃんも俺のこと思い出してよ。俺、頑張ってる、兄ちゃんの言い付け守ってる。ね」

兄は笑った。愉快だからじゃない。

自嘲、だ。

兄が自傷したくなるほど、どうしていいかわからないことって何だ。

僕はそれを突き止めなければならない、と思った。
兄を苦しませるものは例え家族だって許さないから。

もしもそれが僕自身だったら、僕は死ぬ。
兄のために僕は死ぬ。

「兄ちゃんがどうしたら良いかわからない時って、どんな時?」
「チコちゃんに出てくる教授みたいな言い方だな、お前」
「なにそれ? 俺TV観ないからそういうのわからないけど。冗談抜きで、どういう時?」

兄は目を逸らした。
これはマジでやばいな、と思う。

「質問変えるわ。兄ちゃんはどういう時が幸せなの」
「幸せ?」
「そ。兄ちゃんが最もいい状態でいる時」
「そうだな…」

兄は転がるハイボールの缶に目をやったが、実際はそんなもの目に入ってなく、遠くに飛んでいるようだった。
ちょっと酔っているのかもしれない。

探してくれ。幸せなことって何か。
頭の中で、兄ちゃんのいいもので満たしてくれ。

僕はそう願った。

少しの間考えて、兄は言った。

「夏希と2人でいるときかな」
「家族と、じゃないんだ。子供は? もしかして邪魔なの?」
「邪魔じゃないよ。でも究極に削ぎ落としていったら、最終的には彼女さえいればいい」
「じゃベッドの上が最高ってやつか」
「お前、露骨だな」
「愛する妻と本能的に向き合える時が兄ちゃんの幸せな時、か」

兄はまた嘲笑した。

「お前はどうなんだ。どういう時が幸せを感じるんだ?」

兄からも質問返しされたが、僕は即答した。

「こうやって兄ちゃんが来てくれる時。話してくれる時」

兄は照れたようにほんの少し笑みを浮かべた後、すぐに泣きそうな顔をして顔を背けた。

「兄ちゃん…」

僕は兄を背中から抱きしめた。
ずっと敵わないと思っている、広い兄の背中。

* * * * * * * * * *

その週末。
兄から電話がかかって来た。通院日でも会合の日でもないのに珍しかった。しかも一昨日会ったばかりだし。

『隆次、お前今も睡眠導入剤って飲んでるんだっけ?』
「たまに飲んでるよ。軽めのやつ」
『それ、分けてもらうわけにはいかないよな』
「なんで? 兄ちゃん眠れないの?」
『…ちょっとな』
「そしたら俺の通院の日に一緒に行って兄ちゃんから相談した方がいいよ。合う合わないで最悪なことになるよ、薬って」
『まぁ…そうだな…』
「なんかあったの? 会社にこき使われてる?」
『そういうわけじゃない』

笑ったようだったけれど、声にいつもの張りがないと思った。
一昨日の件もあったし、やはり何かある。

早速、直近の通院日に兄には仕事を中抜けしてもらい、一緒に病院に行った。

兄も直接先生に診てもらい、睡眠薬を処方してもらっていた。

「ゾルピデム…超短時間型、マイスリーのジェネリックだな。まぁ最初はそんなところだろうな」
「さすが詳しいな」
「兄ちゃんも大変だよな。会社では管理職、家では2人の子供の父親、手間のかかる弟…不眠にもなるよな」
「だからそういうことじゃないんだよ」
「意外とそういうことだったりするだろ」

まぁいいけど、と兄は半ば諦めたように笑って言った。

「じゃあそういうことじゃなかったら、何なの?」

そう訊くと黙ってしまう。

「言えないことなの」
「…」
「兄ちゃん、一人で抱えるのが一番やばいってよく言うでしょ? 愛しの奥さまは知っているのかな」

兄は一瞬、酷く怯えたような顔をして僕を見た。すぐに目を逸らしてしまったが。

「なに? なんで答えないの? もしかして嫁も知らないのかよ…。マジでなに? 俺も一応本気で心配しているわけ」

兄は僕を見ないまま、ポツリと言った。

「本当に個人的な問題で…周囲を巻き込むわけにはいかない」
「兄ちゃん…既に巻き込んでると思うけど。少なくとも俺は気づいちゃったから」

僕は力いっぱい握られた兄の右の拳を取り「力抜いてよ」と言った。

「この手は絶対に刃物を握ってはいけない。兄ちゃんわかった? 約束できる?」
「何言ってるんだよ、お前…」
「俺があげた腕時計、絶対外さないでよ。俺だってずっと着けてるんだから。お守りなんだから。兄ちゃんも。ね」
「大袈裟だよ。眠れさえすればいいんだ。翌日の仕事に響くのが一番困るから」

精一杯取り繕ったような表情で兄はそう言った。

いつの間にか立場が逆転している。

兄が僕に言ったこと、そのまま兄に返している。
そんな時が来るなんて誰が想像した?

「最愛の嫁に甘えて、ぐっすり眠ったらいいんだ」

僕がそう言うと兄は消え入るような笑みを浮かべた。



#19へつづく

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