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魔性の馬

タイトルに惹かれて、図書館でジョセフィン・テイ著の『魔性の馬』という本を借りて読んだ。

本は新しく、中表紙も秀逸。

中表紙

が、著者は1896-1952年を生きた方で、したがって、話の設定も時代を感じるが、なかなか面白かった。殺人が絡むミステリーだが、警部や探偵といった人は出てこないし、これまでに読んだどのミステリーとも違うと感じた。何より、馬が出てきて、いきいきと描かれているのが良い。

馬が出てくるのは、ジョッキーとか、うまく乗りこなせる人と共に登場することが圧倒的に多いと思う。が、この本では馬にうまく乗れない子が次のようなセリフを何気ない会話の中で言っており、深く深く同意してしまった。

あなたたちは赤ん坊のときから馬に乗ってるからわからないでしょうけど、あんなに高いところで、つかまるものもないまま、あのとらえどころのない山みたいなものの上に揺られている気持ちがどんなだと思う? 立ってるときは馬ってすごくすてきで細長く見えるわ。自転車に乗るみたいに乗れそうな気がするのよ。でも乗ってみると、馬の背中って、だだっ広くて身の置き場がないの。ただそこに座って揺さぶられて、脚だってサイモンがやるとちゃんと1か所にあるのに、あたしがやると前後にぶらぶらして、マメはできるし、トイレで座ることもできないのよ。

小学館『魔性の馬』より

そうか、「つかまるものもない」から手綱にしがみついてしまい、なんとかバランスをとろうとするから「手綱にぶら下がるな」って言われるんだなぁ。

脚もうまい人はいつ見ても同じ場所にある感じに見える。私はいつも変な位置になって、今これを直すために、相当意識しているのだが、形状記憶のごとく、誤った場所に戻ってしまう。

乗馬の悩みは尽きず、1つ直したと思ったら、また問題が発生して、それに取り組むとまた違う悩みが勃発。。。ということを繰り返している。この歳になって初めて気づいたのだが、人は体の動かし方というのを逐一教わるわけではない。自転車に乗る、泳ぐ、など何かができるようになる方法は習うし、できるようになる。でももっと微妙な無意識な体の動かし方、筋肉の使い方は、アスリートではない私などは意識せずにここまで来てしまった。

それが突然乗馬をするようになり、これまでのように意識しないでいたら、うまく乗れないのだということに気づいた(のが最近で、遅い!と自分にカツを入れたい)。乗馬では、上体と下半身を別々に使えるようにならないと上達は難しい。昨日も、指導してもらっている方と話をしていて、バランスを崩したと言う状況で、人間はどうにかバランスを取り戻そうと体が動く。足元のバランスが悪いとなれば、両手でバランスをとったりするのは、綱渡りを思い浮かべてもらうと分かると思う。それを乗馬では、たとえば馬をもっと走らせたくて、脚を強く使おうと思うと、自然な流れなら、その分、体のどこかにも力が入る、つまり拳も一緒に動いたり、肩に力が入ったりするものなのに、それを脚だけでやる。つまり自然な体の動きではなく、体の使い方としては、これまでになかった動きをしなければならず、脳への指令もそうだし、使っていなかった筋肉を使えるように訓練しないとならない。

意識しなくても、最初から上手に使える人というのもいる。たとえば外国の乗馬の指導者の話に出てきたのだが、鼻をかむという行為は実は無意識に腹筋をうまく使っているそうで、腹筋の使い方がわからない、使っていない子供はうまくかめないという。(鼻をかむとき、チーンって親に言われた記憶はあるが、腹筋を使って、と言われたことはないと思う。)乗馬も、最初から腹筋を使って、体の前側、腹筋で固めた表面積に向かって体を押出すような動きができる人は、軽速歩にも苦労する人のことが理解できないらしい(もちろん、私は後者)。

というわけで、現在、乗馬での変な癖を直すために、長い事、惰性で使ってきた自分の体の棚卸をして、使っていない筋肉にもっと頑張れと発破をかけ、動いていたはずの体のパーツが動かなくなりつつあるこの歳の体に鞭打って、あれこれ癖を直して、いつかきれいな騎乗ができることを夢みて、頑張っている。

話が逸れたが、この本の原題はBrat Farrar。これは主人公の名前だ。あとがきの解説にもあるのだが、Farrarと見ると、装蹄師のFarrierとちょっと似ている。そんな感じで、英語で読むとそこここに、しゃれた言葉の遊びがあるようだ。防衛大学の出願書の書き方の例で苗字の欄に「日本」、名前の欄に「守」とあったのが、お堅いイメージだったのにクスってさせてくれて、楽しい気分になった、あんな感じなのかなって思った。


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