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絵描きの母に育てられた私は、「淋しい子ども」だった?

こんにちは!ママリ編集部・シンママみほです。

皆さんはお好きな「絵」ってありますか?
ダヴィンチやミレーのような写実的な絵が好きだという方も、ルノアールやモネの描くような絵…光と輪郭の境目が溶けて包み込まれるような雰囲気が好きな方もいらっしゃいますよね。

私はシャガールのような心象の風景を描いたものや、ダリのように心の奥深くをのぞいているような絵が好きです。

それには、「母」の影響が強くありました。
今回は「母」と「絵」について書きたいと思います。


カンバスと母の背中

母が絵を描き始めたのはいつからだろう。
私が幼稚園のころには、もう母はカンバスに向かっていたのを覚えています。カンバスに向かっている時の母は常に真剣で、話しかけづらい雰囲気を持っていました。

『月の家』母作

小学校に上がるころには、学校から帰宅すると、母はカンバスに向かっていました。喜多郎の「シルクロード」の曲が流れる中、「おかえり」という言葉も忘れるほど集中して黙々と描いていました。

私はランドセルを脇に置いて、母の邪魔をせぬように音を立てずに体育座りで母の背中を眺めていました。

目には見えない、心の世界

母のカンバスには、さまざまな色がぬり重ねられていました。荒っぽく、時に注意深く繊細に。描いているものが何かはわかりませんでしたが、子どもながらに「母の描いている世界は目には見えない世界なんだ」と感じていました。

家にはたくさん画集がありました。クリムト、ムンク、ダリ、キリコ、シャガール…ゴーギャンやゴッホ、マグリットにピカソ。
美術館にもよく足を運んでいましたが、見る絵の世界にもまた、「目には見えない世界」がたくさん描かれていました。

『扉』母作

両目をしっかり開けてみたって、そんな風景は目の前には現れない。でも、目を閉じて心の中にその風景を探してみると、心の扉の向こうに確かにそんな風景が存在するような気がしました。

たとえそれが画家の意図でなくとも、「絵」という装置によって心の世界がひらかれていく…それは紛れもない、私だけの真実でした。

そのころから、自分の中に概念として「心の世界」と「目に見える世界」の両方を意識するようになった気がします。

目に見えるものが全てではない

現実にはないような「目には見えない世界」を描く母。そんな母の絵が私はとても好きでした。

それは「母」を理解するヒントに感じていたからです。母が描く心の世界を見ていると、「目に見えるものが全てではない」というメッセージが伝わってきました。(『星の王子さま』に出てくるキツネも言ってましたね・笑)

数年前に美術館で開催された、母の個展の様子

この「目に見えるものが全てではない」という考え方は、成長するに従い「心」を理解するのに大いに役立ちました。

母や自分、それに他人を理解する上でもそうでしたが、自分自身もまた思春期に膨大なエネルギーを持て余していたころ、それが「心」に起因していたことにいち早く気づけました。

そして、そのエネルギーの放出先として、母と同じように絵を描いたり、文章を書いたりすることで、普段言葉にできない感情や思考を整理し、昇華できたように思います。

「淋しい思い出」ではなかった

私も子どもの母親となり、自分の幼少期や母との関係を要所に思いだすことが増えました。絵を描くことに熱中していた母は、「子どものころ、淋しい思いをさせたのではないか」と私に聞くことがあります。

確かに存分に甘えられたとは言えませんが、「カンバスと母の背中」は私にとって決して淋しい思い出ではありません。

母と暮らす日常…色彩あふれる絵画に囲まれ、何かを夢想していた子ども時代。心の世界がどこまでも広がっていくような楽しさもありました。

それは私にとってはいとしい記憶であり、今でも大方そのころの記憶が私の世界をおもしろくしてくれていると思っています。

友達に贈ったトイプーちゃんの色鉛筆画

娘は家で私が仕事をしている姿を見ることも多いですが、「淋しい」という思い以上に、応援してくれているのも感じ取れます。

仕事だったり、趣味だったり…親が生きがいを持って過ごしている姿は、子どもにとってうれしいものでもあるのではないでしょうか。親が子どもの幸せを願うように、子どももまた親の幸せを願っていますよね。

娘に「最近、ママ絵を描かないの〜」と言われるので、私も娘と秋の写生大会でもやろうかなと思っています。

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