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エゴイストだからこそ、人の幸せを願う

街を歩いていると、毎日無数の人たちとすれ違う。
おそらく、一生涯会話も交わすことがないであろう、多くの人たちと。

僕は神様ではないが、そんな多くの人たちに幸せになってほしいと思う。
それは、別に僕が心が広いとか、大きいからではない。

僕も1人の人間として、自分が第一だし、自分だけよければいいという考えだって当然ある。
僕は、まさしくエゴイストだ。

エゴイストだからこそ、多くの人に幸せになってほしいと願う。
えっ? 矛盾してないかって?

そんなことはない。
矛盾どころか、つじつまがあう理屈だ。
それはなぜなのか、お話したい。

まず、人が不幸によって泣いたり、嘆いたりするのを見るのは、気分が良いものではない。
もっとも僕が嫌いな人が、不幸になっているのを見ると、「ざまぁ見やがれ!」っていう気分になることは、多少は当然あり得るけど。

ここではそうじゃなくて、僕とは利害関係のない不特定多数の人が不幸な姿になるのを想像すると、胸が痛む。
これは別に僕が立派なのではなくて、多くの人に生じるごく自然な感情だ。

街を歩いていて、子どもの無邪気な笑顔を見ると、幸せな気分になることがあるだろう。
人の優しくて和やかな表情を見ると、それだけで心が満たされる。

僕は毎日を気分良く生きたい。ただ、それだけだ。
僕の気分が良くなるには、多くの人が不幸であっては困る。
人が幸せであれば、お互い楽しみや喜びなどの感情を共有できる。
それで、僕の気分も良くなる。
だから、人の幸せを願うだけ。別に立派でもない。

人の幸せを願うのは、それだけじゃない。

人はなぜ窃盗、詐欺、横領、暴行、殺人等の犯罪に走るのか?
それは、単純に言えば、何らかの不満があるからだ。
もっと言えば不幸だからだ。
経済的な事情であろうと、精神的な事情であろうと、人はその満たされないものを埋めるために犯罪に走る。

人は自分が幸せであれば、犯罪に走ることはまずない。
少なくとも、その確率はぐっと減る。

幸せな人が一人でも増えれば、犯罪のより少ない、安心した社会に住める。
僕はそういった安心した社会に住みたい。
そのためには、多くの人が不幸であっては困る。
だから、人の幸せを願うんだ。

とはいえ、現実はそんな幸せな人ばかりではない。
そんな時、僕は祈ることしかできない。
少しでも、人々が幸せに溢れた社会であってほしいと願う。

自分のために、人の幸せを願う、僕はそんなエゴイストだ。

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