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攻めと守り、いつも誰でもやっているーbyおさんぽ

2024年が始まりました。
能登地震で被災された皆様方に心よりお見舞い申し上げます。
未だ余震が続きますが、どうか早く揺れが収まって
皆さまに、穏やかな日常が戻ることを祈っています。

2023年終盤にこの記事を書き始め,書き終わらずに新年に突入しました。

振り返るほどの内容もない、
その辺のオバハンの1年ですが、
この年で、初めて
自問自答し、葛藤は吞み込んで、面の皮は厚めに塗って、
なんとか歩を進めた1年だったので、
あっさり忘れるには、ある程度のボリュームでして、
まとめます。。誰からもそんな要望はありませんが。。
そりゃアンタ、別に大した事してないし。
そうですよ、
両親の代わりに行政手続きなんて、できて当たり前のことでして。
目の前の、現実と両親から
逃げなかっただけで。

母の認知症が明らかになって、両親を介護施設に。
しかし、順当に、とはならない。まだらボケの父は、
わざわざですか?ってツッコみたくなる諸々を
ランダムにぶちこんで(わざとではないにしろ)
あー言やこー言う、で私は疲れ果てたんですが
総じて、苦しいだけではなかった。

苦しくさせる原因、それは何なのか、
なぜなのか、が ちょっとだけわかった、気がする。。
今更かいっ!
はい お陰様で。
これもまた、当たり前なんでしょうけど、
「家」の概念と、攻めと守りについて考えたことを書いてみます。



生きとし生けるみんなは、四六時中、攻めと守りに明け暮れている、
つまり試合中、ということ。そうです、それがまず1点です。
それぞれの世界、価値観が、ルールの無いぶつかり合いをしている感じ。
ボールのやり取りをしている限り、
世界の中に「居る」限り、
戦いの中にある、といえる。

「家」はその攻めと守りのせめぎ合い、の外に在る。これが2点目。
レヴィナスについて、私は決して詳しくないけれど、
たしか、「家」を、我々が「生まれる」ところであり、
眠り、目を覚ます場所。と考えていた、と思う。
部分的知識の表面だけの理解で、間違っていたら本当にすみません↓
ということで、哲学から一旦離れますが、
「家」とは、
〝自分自身“が姿を現す場所、〝自分自身“に帰る場所
自分にとって大事な場所、守るべき場所だ、という認識は
多くの人にあるのではないか。
外でせめぎ合いをしているうちは、常に気を張り、
変化し続けなければならないので
せめて、家では素のまま、バッハを聴きながら ほけーっとしてたいもの。
そこに、例えば
『族』が居るとすると?
自分以外の他者も「家」にいる状態。
まあ、大体いますよね。家族が。一時期であれ、ずっとであれ。
てゆーか、単独でこの世に急に姿を現せる人はいませんから。
すると、「家」の中にも「世界」が、
攻めと守りの試合が
あるんじゃないの?あって当然ではないか。

自分と他者、家と世界
それが、私には、あまり分かってなかった、ということだと思います。
なんだ、そーゆうことか。。

「攻めて、守る」と言えば、将棋とかチェスとか
野球もサッカーもそうだし、競技は大体そういう構成です。
攻めも守りも戦略的に同時進行で考えていなければ、
ドツボです、負ける。
一人のプレイヤーにおいても、当然ながら二つの視点が、
常に求められる。
考えてみれば、
何人も、常に全感覚を使って何かの試合をしてらっしゃる。
一瞬一瞬意識して、ある時は無意識で攻め、守っている。
私自身を切り開こうと、或いは危機に瀕してやむなくであっても。
結果として世界がアップデートする。
細胞レベルで、量子レベルでは、何事も常ならず。
生物学者の福岡伸一先生は「生命は動的平衡」と、うまいこと仰る。

攻めと守り。ならして平均すると凸凹はない。
生命はいつか果てるし、一定の関係性の持続もあり得ない。
残るのは
静けさでしょうか。
Almost OK. 
そうならないから、今も戦争してるんでしょうけどね。。

年末になってようやく、ですけど、諦めたんではなく、しぶしぶではなく
私と父の謎が解けたんですよ。
攻めモードあれば、そこには必ず守りモードあり。結論言っちゃってアレですが、それを感じられたこと、が、私の2023年の収穫だった。
やれやれ。

1. わからない、こと
2.どんな変化もウェルカムなのだ

1.ほとんどの人は宇宙人を知らないのに、異質な、理解できないことを「宇宙人みたい」と形容したりする。
知らないモノに例えるの?
つまり、わからないっす、ということです。

「わからない」は箱に入れて、見えなくして、「わからない」とレッテルを貼る。そうしないと、次に進めないので。
私なんか、そのうちに、棚上げした事実も、忘れます。

調べたり、理由を考えたりは するけれども
何であれ なんぼ計算したところで、よーく考えたところで、
分からないものはわからない。
中でも、先のことは分からない。
「今後も動向を注視していく」「継続して対応を協議」
それでいいことにしないと、社会としても遅滞が生じる。
実際にあること、起こったことであっても
理由が明らかにできないことも、ままある、ということは、分かっている。

人の頭の中も、全然わからない。
自分自身の頭と体の中がどうなってるのか でさえ、
全くわからない。
まさに、あなたも私も宇宙人なみ。
わからないことばっかり。
世の中は、"わかる”ことを留保されたモノばかり。
あっ、いえ
わかるよ、という方がいらっしゃるようでしたら、
すみません。私にとっては、ということです。
で、話を戻します。

言語が違えば、言ってることも、オチもわからない。
なのに
家族、親子、夫婦間では分からなければならぬ、のか?
何が何でもわかるべき、みたいな圧が。
んなもん、わかるかっ!!
或いは、
前時代的従順さを強いるオヤジ、あるいはオバハン。
「俺のいうことをきけ。きいてればいい。」
はあー??・?
因みに、後者の典型が父ですが、
ここでちょっと考えてみたい。
小さな赤ちゃんはどうだろう?
インタビューできないから、それこそ、わからないけれども、
赤ちゃんは、
このひとはママだなーとか、眠いなーとか、いい気持だなーとか。。

わからないけど、感じる。感じて表現する。
クサかったら、素直に「クサー!!」の顔をする。
そして
おそらく、わからなくても、
接する人の、言いたいコトや、気持ちや、自身の存在と環境を
受けとめている、受け容れている。
で、赤ちゃんに伺いたい。
ストレス感じてますか??価値観押し付けられて、オーノー!って感じですか?
そこは、ちょっとお答えはできかねます、オバチャンの言ってること、
まるでわからないのでー。
何せ まだ赤ちゃんなので、生命維持のため、成長するため
病原菌やなんかとは、せめぎ合いはしますけど、
オカンとお小遣いの件で駆け引きするとか、そうゆー攻防はまだできない。

「家」に守られているから、生きている。
そう、当たり前だから。特にあーせーこーせー、主張はしないんですわ。
もとい、赤ちゃんは「ですわ!」とかタメ口は叩かないと思いますが、
家族が見守っているから
無条件で愛してくれるから、
それを、端から信じて、「家」に生まれてきてるんで
攻めも守りも、最低限でいいんですわ。受け止めるだけで。
ちょっと、元気ありすぎで、大きい声で泣いたりはしますけど、
家族皆様、そこんところ、受けとめて頂きたく存じます!

受けとめますよー、あったりまえじゃあないですか。。。

互いのことが よくわからなくても
そうなのね、と感じて受けとめたら
攻めも守りもいらないし、
言葉が通じないくらい、宇宙的理解不能な
『族』が「家」にいても、試合しなくていい。
根本的信頼と受容。
家 がそういうところであったらいいのになー。。
いや、大体そうなんじゃないですか?
私と父の間に、信頼と受容が欠けているだけで。


2.自我とは、一体何を指すのか?
概念を、完コピして再現し皆さんが分かるように示す、とか
完璧に「誰かの自我」という指示対象を理解し共有することは、
おそらくできない。
ほぼ反射的に、私達は「わかりました」と返答しますけど、
表面的に「そうしろって言うんならそうなんやね」くらいの理解。
深く隅々まで、そのニュアンスまで狂いなく同じことを思い浮かべることができているか、というと、多分違っている。
意図的にそうしていることもあるでしょうけど、
所詮「わかる」は中途半端であって、カタチの上で指示通りであれば「わかったのね」とされている。それでいいことにしている、けれども内実は
ソゴがソゴを産み、「わかりました」っていったじゃん、とはいえ
親子や夫婦間の理解できない溝は深まる。
その上、自我なるものも、世界での攻めと守りの試合を重ね、
どんどん変わる。
もとい、変わらないという方もおられると思います、失礼しました。
しかし、多くの場合、赤ちゃんの頃からすれば、
自我は随分複雑化しているのではないでしょうか?
昨日までの自分とは決別して、生まれ変わるんだ、などと宣言しなくても
細胞レベルでは、同じとは言えないし
世界での、攻めと守りの経験が、自我をバージョンアップし、
誰しもが、どんどん生まれ変わっていく。
だから、
過去の、記憶の中の誰かさんではなくて
今この時の自分自身と、目の前にいる家族の存在をそのまま受け入れ、
相手を理解しようとすればいいのではないか。
実存主義的理解というのだろうか、
ここから、変わっていく前提での、受容。
過去に捉われると、身動きできないもの。

私を金目当てと決めつけ、縁を切るといい、そのくせ命令してくる父は、
おまえなんか信じられない、バカが、と、新幹線に乗って2時間以上かけてやってきた私を、何度も罵る。
そのたびに
私の全てが硬直し、父を拒絶した。
これまでの年月、考えるな、従え、と言われてきたことがよみがえり、
目の前の、惚けて瘦せて弱った父を前にしても、放り出したくなる。
そして
自分が親不孝の鬼だと感じ、いたたまれなくなる。
何度やっても学習できず、上手く対処できない自分が情けなかったが、

(父と)離れている方が寧ろいい、と
必要なら何度でも帰省したらいい、仕方ないじゃん、と
見守ってくれる夫や子供たちがいたから
一々落ち込んではいたが、なんとか復活できた。

家族というチームメイトとは、試合しない方が楽ですよね。

父は、自分が弱り、排泄すら思うようにできなくなって、
自分自身を守ろうと、必死で攻めているのだと思います。
介護職の方々に「現状を勝手に変更するな」と
呂律が回らないのに、大声で指示していた。

戦っているんだな。

日曜日になるたびに、具合が悪くなって訪看さんから電話がある。
「申し訳ありませんが、父が受診したいのなら連れて行ってやってください。」
肺に水が溜まっていて、あまりいい状態ではない。が、食事もできていて
ビールも飲んでいる。
介護してくださる方から、「頑張ってください。」と言われ、頷いていた。

いつか、父も、自身と私を ありのまま受容できる時が、来るのだろうか?
戦わなくていいんだと、
意見の相違はあるにせよ、
家族なんだから、チームメイトなんだから、
攻撃も、必死の守りもいらないのだと、
楽な方へ、変化してくれたらいいな、と思うこの頃です。

お読みいただきありがとうございました。
おさんぽでした。