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一度死んだから言えること!

◎閑話休題

こうして書いてますが、ここまで思い出すのには、実はずいぶんと時間が掛かっているのです。

最近、神戸を舞台にした『あなたのことをわすれても』というドラマを見たのですが、そこには記憶を定期的に喪失してしまう男性と、そんな彼に惹かれている女性の話です。

その彼は事故により脳にダメージを受けて一切の記憶が飛んでしまい、両親の顔も幼馴染の顔も忘れてしまったという設定です。それを彼に幼馴染が寄り添って、ある程度の記憶は戻るのですが、やはり定期的に記憶が飛んでしまいます。

ですが、日常生活や車の運転は出来ており、キッチンカーで軽食販売をしながら生きている中でヒロインと出会うのです。

これって不思議な様ですが、自分の経験からもこういう仕組みというか、死なない様に”保護プログラム”みたいなものが働くと思うんです。

例えば、私の記憶はICUでの生活の中では、基本的に今も思い出せない部分があります。靄が掛かっているような、なにも思い出せない部分があるのです。退院直後はICU以前のことは殆ど思い出せなくて、倒れる1週間前には人前でセミナーをしていたらしいのですが、それも覚えていません。

幻覚による妄想や悪魔のPTによるリハビリやお尻の問題とかは、強烈すぎて覚えていますが、ある意味で苦痛だったからであり、基本的には一般病棟へ移ってからの生活の中で、少しずつ思い出したのです。そこに家族の記憶と自分の記憶を繋いで、こうして書けるまでになったのです。

実際には、自分が入院してる事は理解してるのに、どういう経緯で救急車で運ばれICUにいるのか?や、死にかけたことなんて知らないのに、自分を介護している人たちのことは理解してましたし、何の疑問にも持たずに、その場所に順応していました。

どちらかというと、自分が日々の苦痛から逃れるために自分に気づいてもらい、早急にそれを癒してもらうことをいつも考えていました。声が出ないのですから、わずかに動く指先を目立つように気にかけていました。

それは、「お尻が爛れるので相変わらず肌が弱いな」とか、「ステロイド軟膏を塗るから肌は落ち着くけど、やっぱりステロイドは怖いな」とかは思うのに、その前後の流れは全く考えてませんし、気にしてないのです。

本当に緊急事態をどう乗り越え自分が安定するかだけに必死でした。そこには回復とかも無いのです。「家族の松家に戻らねば!」なんてドラマチックなセリフもありません。ただただ保身に明け暮れていました。。

前回にクリスマスイブに家族との感動的な出会いを掻きましたが、それは時系列的に書いているもので、実際にはその時に感動は家族との会話の中で思い出したものなのです。介護はあったとしても、ただただそれに順応して生きてきたのです。何曜日の何時もわからないし聞かない。全体像というか流れというか、そう言った枠組みが無いのに、日々生きてきたのです。

記憶喪失でも無い、でも曖昧というかそこに視点が行かない・・・これって例えば脳が損傷しても、残った部分で生き残ろうとしているんじゃ無いのかなと、そういう保護プログラムがあるのではないかなと思っています。実際に記憶喪失で生きている人たちがいるということは、人としての生きるために学んだ事は忘れていないことを証明しています。

状況を理論的に理解できなくても、記憶が無くなっても、その場のことができれば生きれるのが人なのだと確証しています。なんかドラマを見て伝えたくなって闘病日記から離れて、”閑話休題”として書きました。

それとこの日記をそもそも書こうと思ったのは、ワ〇〇ンばかりに話題は移行していてその根幹のコロ助に関しておざなりになっているからです。そして私のような重篤化する人はいても、殆どが1週間以内に回復し1か月後にはリハビリ病院へと転院していると聞きました。私ほど生死のラインまで行ったのは、ほとんどいないという事なのです。マスコミで日々死亡者数が上がっていたのにね。

そしてこうして書いている日々の中で、今時点もずっと救急車のサイレンは街中で響いています。四六時中です。私の住む街は都会の部類ですが、こんなに騒がしい街ではありませんでした。

だからオカシイのです。今日も誰かがワ〇〇ン珍のせいで倒れています。流行ってもいないウイルスの為に、不要で危ないものを打たされているのです。そこへ一石を投じたいのです。

まずは怖いという重症化した人が、病院でどんな状態だったのか?マスコミでいうほど、現場はひっ迫はしてなかったという事を伝えたいのです。陰謀論とかいう前に、生き返ってきた私が見たもの感じたものを、皆さんに公開することで注意を促したいのです。

「あのウイルスってほんまにあるの?」ってね。

次回へ続く!


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