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施しと信仰

人に何かをしてあげるとき、あなたは内心どう感じているだろう?人の為になっているという優越感?偽善者ぽくなってないかしら、という心配?相手に対しての憐み?ああ、いい事したという変な達成感?それとも別に何も考えずにそれをしているのだろうか?困っている人がいたら助けなさい、と子供の頃から教育されてきた。それは別に強制ではなかったけれど、困っている人を助けるともし自分が困ったときに助けてくれる人がいる、という風に教えられて、その教えが心にしみこむように身に着いた。だけど、成長するにつれてちょっとした疑問も持つようになった。もしも私が本当に困ったことがあって、助けも呼べなくて、そんな時にでも助けてくれる人は来るのかしら?良かろうとしてした事が、相手を傷つけてしまう事だってある。


ある学生は道端で金をせびるホームレスに自分の昼ご飯をあげたら、こんな物はいらない、金くれ!と逆切れされ、弁当を投げ捨てられたそうだ。人助けをして、人殺しに殺された人もいる。人助けのつもりで救助に飛び込み、自分の命を失った若者もいる。彼らは自分の意思でその人助けを行ったのであろうか?それとも小さな頃から信じてきた教えによりそうせざるをいけなかったのだろうか?小さな頃から人間について考える事が好きだった。例えば人間は生まれたときから悪であるとか、生まれたときはみな同じであるとか、そういう風な哲学上の議論や考えがすごく楽しくて仕方なかった。同じ両親から生まれた兄弟であっても、自分とは違う人間だ。だから人間は生まれた時からその”個”であり、様々な環境や人との交流でその内面が形成されていく、と今の私は思っている。同じ道徳観を教えられた同じ血の流れる兄弟でも、たった少し持って生まれた”個”の違いや、時の隔たりの中や出会う人間の違いで、全く違う思想の持ち主になってしまう。


世界には実にさまざまな宗教があって、信仰に頼って或いは縋って生きている人間が殆どだ。しかしその中でも日本はちょっと特殊な感じがして、カルト教団が重大な事件を起こしたりすることがよくあり、ニュースでも大々的に報道されるので、何らかの信仰をしていると結構変な目で見られたり、噂になったりする、という事が子供の頃あった。信仰の話は子供達の間ではタブーだった。私の家庭では母がある宗教の信者で、私と妹も強制的にその宗教の集まりに参加した。子供達にしてみれば母の教えは絶対であったし、何も根本的な事は教えられず、良いから、これしかないから、これが絶対だから、という漠然とした教えでただそれに祈り、縋った。そんなことで心は成長もせず、子供達の集まりで一風変わった私はそこでも虐められ、行き場をなくした。ずっと懐疑的だったのかもしれない。だけど疑う事は悪いことだと教えられてきたので、中々その考えから抜け出せない。それを否定されると、母親が否定された気がして苦しかった。他宗教のお寺や、神社は悪いから絶対に行ってはダメだと言われていた事も、すごく疑問だった。中学生の頃修学旅行で京都や奈良に行った。私はそこで見た歴史的建造物にすごく美を見出したし、人間の凄さを感じた。そんな価値のあるものを見てはいけないという母に怒りを感じて、沢山のお寺や像を写真に収めた。それからはもう母の教えなんてどうでもよくなって、表面上だけ言う事を聞いて心の中ではいい悪いにかかわらず、美しいもの、興味を引くものには情熱を注いだ。長崎の教会を巡ったし、いとこと箱根の神社に初詣に行ったし、キリスト教の宗教画やマリア像、メダイを集めた。全てのものに神様が宿るという神道にはすごく興味があるし、お守りやおみくじ、しきたりや儀式にはちょっとした夢が詰まっている気がして、それを避けて育てられたことが残念だった。祭りやお神輿も、悪いものだった。父の地元で行われる昔ながらのお祭りは、母抜きで参加した。色々な宗教についての文献も漁ったのだが面白いことに、どの宗教でも根本的な教えは大差のないものだった。


 私の中で宗教とは、一定の人間の心のよりどころであり、社会の秩序を形成し、そして人とのつながりを作る場である。宗教とは社会から疎外されないために、そして人々が美徳や道徳心を養う為に生み出された、一種の法のようなもので、信仰心によってある程度の秩序が保たれている。徳を積むことによって天国や極楽へ行け、悪い行いをすると地獄へ落ちる。生前の行いによって次の生の運命が決まる。それなら生きている間に良い事をしよう、と人は思うのであろう。私はある時を境に信仰心をなくした。心持が安定している人間はそもそも宗教なんて必要ないと思うし、何かに縋らずとも生きていける人間は存在する。その宗教が諸悪の根源になっているのなら、むしろ信仰から遠ざかった方がいい人間も存在する。信仰とは心の豊かさを養うものであり、決して苦しみを産むものであってはならないと私は思う。試練だなんてない方がいいに決まっているし、良識のある人間なら試練なんて無くても世の中を平等に見る力があるはずだ。心に余裕があれば、人にも優しくできるし、ほんの少しだけ人助けができるかもしれない。信仰しているからと言って、全ての人間が聖母のようではない。そして、母が言った、私達の宗教以外の人間は悪だという事とは裏腹に、私は良い人間に沢山出会った。逆に同じ宗教の人間達に虐められたし、母を罵る人間を目撃したり、他人の悪口を言う人間を見た。そういう組織の闇とか汚いものを間近で見たせいか、私は自分だけはそうならないように心掛けた。ある意味宗教に依存している母を見てきたことで、宗教とは何か、という事を客観的にみれたのかもしれない。子供達が生まれた時も、母はその宗教に入れたがった。私は子供達には自分の事は自分で決めさせたかったので、入れなかった。ライフスタイルや、何を信じるかなんて本人の自由だし、子供達には強制させたくなかった。


 こっちに来て連れの友達のパートナーたちと触れ合う機会が何度かあった。殆どの人は連れの友達の恋人なので、私と同じような趣味や嗜好を持っていたので、結構苦にはならなかった。アメリカ人なのに人見知りの子とかも多くて、結構心地よかった。でもその中で妻がベジタリアン、夫が肉オッケーの家庭に出くわしたときはちょっと驚いた。子供が二人いたのだけど、奥さんは子供達にも菜食主義を強制していて、一種の宗教のような感じさえした。ある日友達と集まりバーベキューをしたのだけれど、その子供達が肉を食べてしまったのだ。止める母親の事なんてお構いなしに、うまい!もっと食べたい!と言ったからお母さんが怒ってしまい大変だった。それがきっかけになったのかわからないが、後日彼らは離婚した。奥さんが子供達の親権を握り、遠くへ引っ越してしまった。ベジタリアンの事を抜きにすると、彼女は結構話もあったし、いい人だった。結婚したり、同居するにあたり、食生活の一致って言うのは結構大切だなあと思った。しかし、結婚してからそういう事に神経をすり減らす人もいるようなので、いつ人間って心変わりするのかわからないので、まあギャンブルみたいなもんだ。


 そういえば、施しについて話をしていたはずなんだけど、いつの間にか宗教の話になっていた。施しと宗教は切っても切れない関係にあると思うけれど、世の中には施しを受けるくらいなら死んだ方がいい、苦労した方がいい、という人間も存在する。そういう人間にはプライドが高い人が大半で、施しを借りと勘違いしてしまい、借りを作れば返さなければならない、と思ってしまう。私はそういう借りならどんどんと借りればいいと思うし、借りたら借りた分、今度は自分が困っている人を助けてあげればいい。探さなくても、この世の中には困っている人間があふれている。私は貧乏だったころ、お金がもったいなくて使うのが怖かった。使ってしまうと無くなってしまうし、母親は貯金をすることが大切だと教えたので、その頃はまだ母親の教えが絶対で、貯金もできない自分はクズだと思っていた。そのクズに拍車をかけるように連れはあればあるだけお金を使う人間なので、貯金なんてなかった。でも働くようになってから、不思議な事にお金にこだわらなくなった。余裕が出来たのか、安心感があったのか、定かではないが母親のいう事なんてどうでもよくなって、自分は自分の生き方をしようと思った。余裕が出てくると、今度は他人の事まで考えられるようになってくる。お金がなかった頃は、本当に困っていそうなホームレスの人たちに一ドルをあげる事さえできなかった。しかし、余裕が出てくると、本当に困っているホームレスと、アル中や薬中、はてはホームレスや貧困をビジネスにしているであろう人間までもを見分けられるようになってきた。本当に困っていそうな人は自分から積極的には声をかけてこない。そしてお金が欲しいとは言わない。食べ物をくださいと言ってくる。アル中・薬中の人は大体顔でわかるようになった。みんな同じような顔をしている。目がうつろで少し鋭くて、歯がない人が多い。そして金をせびってくる。そして一番厄介なのが、貧困ビジネスの人たちだ。赤ちゃんを抱っこして、お金をください、ミルクがもうないの、なんて悲しそうに言ってくる。あるいは、車がガス欠で止まっちゃって、あとから返すから20ドル貸してください、住所と電話番号を教えて、なんてのもある。前者は靴を見れば本物か偽物かが大体わかる。いい靴を履いていたら、明らかにビジネスの人だ。後者の20ドル詐欺は、結構普通の善良そうな人間がするので、みんなよく騙されている。私は二度ほどアジア人のおっさんに声をかけられたが、明らかに怪しかったので今現金持ってないと言って切り抜けた。現金持ってないと言ったら、あそこに銀行のATMがあるからおろせる、と言ってきたロマの女もいた。こちらではほとんど見かけたことはないが、イギリスではロマの子供達によるたかりが多いそうで、そういうのにはたいてい元締めが存在し、別の国に豪邸を持っていたりする。子供達にそういう事をさせるなんて許せないから、私はきっと子供達にはお金を渡さないと思う。


 日本人の知り合いは、ホームレスは自分が悪いから絶対お金なんてあげない、という。その考えはきっと彼女が貧困にあえいだ事がないからだと思うし、そこにいたことがないからだ。彼女は苦労して仕事を続けてきたし、異国の地で人並み以上の努力をしてきたと思うし、彼女には彼女の信念があるんだと思う。でもそこには本当に困っている人がいる。仕事をしたくても面接すらこぎつけられない人が沢山いる。私も仕事を必死で探しているとき、直接店まで行き、店に行くとオンラインで応募しろと言われ、オンラインで応募しても返事は来ない。そのオンラインに履歴書を送る、というのを何件もやったのだけれど、後から企業は殆どオンラインの応募を見ないし、採用するのは今いる従業員の知り合いばかりという事を聞いた。無駄な努力をするくらいなら、友達というコネを作れという事だった。後に私も3つの仕事をコネで探し出したし、単発の仕事もコネによるものだった。だから世の中にはコネのない人間だっていると思うし、そういう人が血眼になっても仕事は見つからないのである。例えば仕事を失い、次の仕事が探せないと、必然的にホームレスになる。ホームレスになったとしても友達がいればある程度は守られるかもしれない。しかし友達も家族も助けてくれなければ路上で生活しなければいけない。どうしようもない負のスパイラルに落ち込む人間だって存在するのだ。だからそういう人間が助けを求めてきたら、私は少しだけ助ける事にしている。少しだけなら自分の負担にもならないし、相手のちょっとした空腹の足しになるかもしれない。お金にこだわらなくなった時を境に、不思議とお金に困らなくなっていった。貯金をしようとしなくても不思議とお金が溜まっていくようになったし、大きな出費を恐れずに済むようになった。苦労は買ってでもしろというが、あの貧困の恐怖に怯えた日々が無ければ私はその人間の立場に立って考えることなど不可能だったし、試練は無ければいいに決まっていると書いておきながら矛盾するが、人の立場に立てる苦労ならしておいた方がいいと思う。かといって100人いれば100人とも同じ感じ方をするわけではないが、ちょっとなら共感出来るだろうと思う。


 施しとは、共有なんだと思う。世界の共有。この世界はもともと誰のものでもなかったはずで、それに所有者がついた事で貧困が生まれた。この世界はいつの間にか数字というものに縛られてしまった。数字は大きければ大きいほどよくて、紙切れや金属片がその価値を担った。施しを与えたからと言って、一方が優位になるわけではない。宗教的に言うなら、来世への貯金のようなもの。この世界は面白いように回っている。全てがまわりまわって、戻ってくるようにできている。善い行いも、悪い行いも、全て自分の元に戻ってくるように出来ている。そんな気がしてならない。だから私は宗教になんて縋るよりも、自分の心持を強くしておきたいのだ。自分の事を最もよく分かっているのは自分なのだし、自分が良いことをしたと思えばそれはよい事だったのだと断言できる。しかし良いことをしておきながら、後から変な後ろめたさが残るようなときは、あまりよくない事だったのかもしれない、と割り切ってしまう事もできる。そういう時は、ちゃんと反省して次同じような事があった時に活かせる。例えばホームレスにお金をあげる事だけが施しではないと思う。施しとは恵みを与える事であり、恵みとは救いや癒しである。誰かをゆっくりと待ってあげる事や、ドアを開けてあげる事や、道案内をしてあげる事だって、施しである。ただ笑顔でありがとう、というだけでも誰かの癒しや、救いになるかもしれない。そしてちょっとしたとき、ふとした誰かのそういう仕草が心を打って、癒される日が来るかもしれない。急ぐようになった人間たちは、もっと周りを見渡して、その静かな時の流れに心を委ねてみなければいけない。止まってみる事で見える事がある。困っている人がいるかもしれない。笑顔の美しい人がいるかもしれない。道端にごみが落ちているかもしれない。人間は、もっと人間と触れ合うべきだと思う。

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