自分を好きになる浪費なら、たまにはいいよね。#5
『孤独のグルメ』が好きだ。
というか、このドラマを嫌いになる人間はいない、と言いたい。
大ヒットというよりはひそかに浸透しているドラマなので、なんかタイトル聞いたことあるなあという人は多いと思う。
孤独のグルメ。主人公は松重豊演じる普通の営業マン。仕事柄、さまざまな地域のクライアント先に訪問する。一仕事終えたあと、毎度知らない街で飲食店を探し歩き、時に店員さんと会話し、食を存分に味わい、店を出るまでの一話完結ストーリー。ドラマだと一話で大体30分くらい。
時間や社会にとらわれず、幸福に空腹を満たす時、束の間、彼は自分勝手になり、自由になる。誰にも邪魔されず、気を遣わず、「物を食べる」という孤高の行為。この行為こそが、現代人に平等に与えられた最高の癒しと言えるのである。(孤独のグルメのオープニングナレーションより)
初めて観た時はなかなか衝撃だった。
誰かが笑ったり怒ったり泣いたりするわけでも、何かすごいことが起きるわけでもない。どこにでもいそうな営業マンが、ただ1人、外でご飯を食べる。
そんなドラマ誰でも作れるじゃん、って?
いやいやいや。逆にここまで単調なものをドラマにしようと思ったディレクター何者。ディレクターだったら「何としてでも面白いものを、普通じゃないものを、」って絶対なるって。凡人には到底ない視点に脱帽だ。
しかしどこまでも気の抜けた脱力感のあるドラマ。こんなに心地の良い浪費はない。「ああ、時間を消費してしまった」と感じる罪悪感がなぜか心地良い。心地良い罪悪感ってなんだ?って? それは観てみればわかる。
特に疲れて家に帰ってきた時、何も考えずに観るそれは最高だ。過ぎゆく時間。朝型の私は夜にダラダラするのだけは拒むけど、孤独のグルメなら、何話も何話も観て寝落ちする体験は一度してみたい。何かのご褒美にしようか。
そんな孤独のグルメの魅力といえば、松重豊が美味しそうに食べる飯。とよく言われている。
それもそうなんだけど、もっと奥深い、もっと人間の根底に訴えかけてくるような。
ドラマの中では松重豊がクライアントと会話している時も、歩く道中も、店の中でも、思ったこと全てをナレーションにして語っている。
そんな姿を見ていると、なんか、何もない自分を肯定できる。
日々ただ歩いている時でもご飯食べている時でも色々考えているはずなのに、1日を通すと、そんな大したことは覚えていなくて。仕事のこととか明日何やらなきゃとか。思考を取捨選択しながらじゃないと人は生きられないからこそ。忘れてしまった些細なことにも、実は思わぬ幸せがあるのかもしれない。松重豊の寄り道が、独り言が、気づかせてくれた。だからこそ、孤独のグルメを観る時間、(意味のないことに時間を使ってしまったなあ)と思いながらも、観終わったあとに自分をちょっぴり好きになれる。
人間誰もが持つ「食べる」時間をじっくり味わう。1人だからこそ、感じられる。
営業マンの仕事をしていたら、営業先の地域で食べる1人飯をより一層楽しめるんだろうな。内勤の私にはわからなくて残念だ。
ドラマ自体、強いメッセージ性もなく、「こうであるべき」ってものが一切ない。かといって、現実からかけ離れた話でもなく、それでいうと実際にあるお店での1人飯という現実味しかないストーリーに、自分も一体化できる感じ。近すぎず、遠すぎず、良い塩梅の距離感。マイナスにもプラスにもならない。今の私のままでいい、と教えてくれるドラマ。
大事なことだから二回言う。こんなに心地良い浪費はない。
身近にある幸せに気づかされた。
無駄に考えたり無駄に時間を使うことは、人生における大事な浪費時間なんだと。
孤独のグルメの影響か、私も特に何かメッセージを残そうとか、今日はそんな気持ちにならなかった。思ったことを、そのまま書いた。今夜は脱力感がすごい。もう夜も更けてきそうだ。
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