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近代麻酔法の夢に飲み込まれた歯科医師たち:歯科医療の歴史(19世紀アメリカ編②)

 歯医者、というと多くの人が連想するのが「痛み」です。もしもこの痛みをなくすことができたら、より複雑で長時間の外科治療が可能となります。その画期的な麻酔法が19世紀アメリカで創出されます。ウェルズとモートンの二人を中心に開発者たちの痛みだらけの人生について紹介します。(小野堅太郎)

 18世紀末フランス革命前、ラボアジェの時代になると気体の合成が可能になってきました。空気とは違う性質の目に見えないその存在は、工業化により高圧圧縮されて液体となり、金属管の中で大量に輸送できるようになります。ガス生成はガス灯をもたらして夜の世を照らしただけでなく、快楽パーティーと毒ガスといった2つの負の発展を導きました。毒ガスについては書けませんが、快楽パーティーは近代麻酔法の開発へと繋がります。

 「気持ちが良くなる」は「苦痛からの解放」でもあります。アヘン、コカインといった麻薬と同じく、気持ち良くなる気体を吸うパーティーが社会に広がっていきます(飲み会みたいなものです)。クロロホルムはその一つで、昔の犯罪ドラマでよく「人を誘拐するとき」に使われる吸引ガスとして描かれていました。現在はそんなシーンを見なくなりましたね。というのも、気を失わせるクロロホルムの濃度は、死に至る濃度と紙一重であり、吸引パーティーで多くの死者を出していました。ですので、マネする人がいてはいけないので、日本でもドラマや映画で使用されなくなったのです。その中で、比較的安全性の高い「吸うと笑ってしまう甘い気体」、すなわち笑気ガス(亜酸化窒素)も使われることになります。

 ラボアジェにより「フロギストン説」が消滅しますが、そのきっかけの情報を与えたのがイギリスの科学者プリーストリーです。ラボアジェが命名することになる「酸素」(1779年)を、先に分離することに成功しています(1774年)。プリーストリーはフロギストン説から思考を脱せずに科学界で孤立してしまいますが、たくさんの気体発見の業績を残しています。そのうちの一つが「亜酸化窒素」です。プリーストリーは「フロギストン化窒素ガス」と命名していたらしいです。

 そんな気体発見が相次ぐ中、気体を医療応用できないかとイギリス・ブリストルに「気体研究所」ができます。そこにハンフリー・デービーが助手としてやってきます(1798年)。彼はプリーストリーの発表した手順に従って亜酸化窒素を作り、吸引パーティーを頻繁に開きます。デービーは詩人仲間や、仕事率の単位(W)となったジェームズ・ワットとその息子も呼んでいて、みんな中毒になります。残念ながら、デービーは亜酸化窒素を楽しんだだけのようで、痛みを抑制する作用があることを知りながらも麻酔への応用はなされませんでした。

19世紀になり舞台はアメリカへと移ります。

 1814年バーモント州ジョージアに生まれたコルトンはニューヨークで医学を学んでいました。その時、「笑気ガスを吸引させると怪我した人が痛がらない」という見世物に成功します。収入を得た彼は医学校をやめて、興行師としてアメリカ中を回ります。あのヒットした映画「グレイテストショーマン」の時代です(モデルはコルトンではなく、フィニアス・バーナムですが)。1844年、コネチカット州ハートフォードでの興行の際、とある気の弱そうな歯科医師が見物に来ます。

 その歯科医師の名は、ホーレス・ウェルズ。近代麻酔の発見者として後に名を残します。1815年にハートフォードで生まれ、ボストンで歯科医療を学びました。そのボストンで数年間、ウイリアム・モートンと一緒に歯科医院を開業しますが、故郷ハートフォードへと帰っていました。コルトンの笑気ガス興行を見て、「無痛抜歯に使えるのでは?」と思いつきます。早速コルトンに協力を願い出ます。さらに、友人の歯科医師リッグスに頼んで自分の親知らず(智歯)を抜いてもらいます。その時、100%の亜酸化窒素を吸い込むわけです(100%は酸素と混ぜていないので、呼吸ができなくなり大変危険です!現在は酸素を混ぜます)。全く無痛であったという自身の経験から、「麻酔法になる!」と確信します。

 ちなみに歯を抜いてくれた友人のリッグスは、後に前記事の「ボルティモア歯科医学校」で歯科医療を勉強しなおします。そして、1875年に歯周病予防には歯石を取るのがいい、と発表し、歯周病研究の第一人者となる人です。(900年ほど前にアブルカシスも言っていますが)。

 さてさて、翌年、ボストンのマサチューセツ病院で公開実験を計画します。そのため、ボストンで共に開業していたモートンに話をし、モートンの友人で医者であったチャールズ・ジャクソン(地質学者でもある)を介して、外科医ジョン・ウォーレンが立ち会うことになります。ちゃんとした吸入器がありませんし、何しろ100%亜酸化窒素です。さらに、患者から抜歯を行うのはウェルズ本人でした。会場に集まった多くの医師たちに説明して緊張する中、万全の状態ではなかったのでしょう。抜歯時に、患者がうめき声を上げてしまいます。これにより会場から「詐欺師だ!」と叫ばれ、混乱の中、公開実験は失敗に終わります。

 失意の中、ウェルズはハートフォードへ戻りますが、亜酸化窒素吸入で患者を一人死亡させてしまいます(100%ですから)。さらに落ち込んだウェルズは歯科医師を辞めてしまいます。

 物語は泥沼へと入っていきます。

 失敗したウェルズの公開実験から翌年の1846年、公開実験にも立ち会ったウイリアム・モートンが、再度、麻酔法の公開実験を行います。モートンは、ウェルズの4歳年下で、マサチューセッツ州出身です。あのボルティモア歯科医学校の第一期卒業生との情報もあります。

 ウェルズの公開実験に同じく立ち会ったジャクソンから、「吸引パーティーで使われるもう一つメジャーなエーテルを使ったらどうかな?」という意見を参考にし、簡易な吸引器を作製します。モートンはウェルズより慎重でした。ウォーレンが執刀し、頸部がんの摘出の際にエーテルを使用します。見事、公開実験は成功し、モートンが「麻酔の発見者」として名声を得ます。

 モートンは、麻酔法にすぐさま特許を申請します。麻酔法を公開することを拒み、執刀したウォーレンさえ麻酔をすることができません。麻酔による利権を独占しようととしたわけです。すると、エーテルのアドバイスをした友人ジャクソンから「エーテル麻酔の特許権は自分にある」と訴えられてしまいます。

 そんな騒動の中、失意のウェルズは、クロロホルム中毒となり奇行を行い、精神病院にいました。公開実験からわずか4年後、クロロホルム吸入中に剃刀にて足の動脈を深く切り裂いて自殺します。33歳でした。

 一方、モートンはエーテルに色を付けて「あたかも違うものであるかのように」販売します。これがすぐにばれて「詐欺師だ!」となり、一気にモートンは名声を落としてしまいます。現在、彼は歯科医師となる前に数々の詐欺行為を繰り返していることが明らかにされています。結局、エーテルで多くの死亡者が出たこともあり、何ら収益を得ることはできず、裁判費用で破産し、1868年、ニューヨークで変死(48歳)しているのが発見されます。

 物語はさらにドロドロです!

 ジャクソンはモートンだけでなく、他の研究者たちとも発見に関しての先陣争いの喧嘩をふっかけまくっていました。1873年68歳の時、彼は墓地で金切り声を上げ、墓石を引きちぎろうとしているのを発見され、そのまま精神病院に入院します。その墓石とはウェルズのもので、彼の麻酔法発見を称える言葉が刻まれていました。精神病院で75歳の生涯を終えます。

 悲惨な物語を終わらせましょう。コルトンに戻ります。

 1849年、コルトンはカリフォルニアに行き、金鉱堀を始めます(ゴールドラッシュ)。しかし何も見つけられず、東部へと帰ってきます。1863年、ニューヨークでColton Dental Associationを設立し、歯科医療向けに亜酸化窒素を販売します。ウェルズは亡くなる前に「コルトンこそ一番初めに亜酸化窒素を麻酔薬として用いていた」と言っていました。この時点では、モートンもジャクソンも生きています。コルトンは亜酸化窒素でかなりの収益を上げます。これによりアメリカ歯科医療に標準として「笑気ガス」が使われるようになりました。

 余談ですが、エドガー・アラン・ポーの弟は事業家で、亜酸化窒素のガス管販売をやっていたはずです(不確か情報ですが)。あと、「笑気ガス」が出てくる映画として「リトルショップ・オブ・ホラーズ」はおススメの映画です。

 えらく長い記事になってしまいました。さては、アメリカ歯科医療を駆け足で追っていきたいと思います。


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