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「生きなくて良い」という救い


ふと思い立ち、過去載せて頂いた新聞やらをまとめてみた。
有難いことに、25歳から様々なメディアへ取り上げて頂いて、想像以上の記事が集まった。

ところが、去年の下半期からペースダウンが目についた。

それもそのはず、2022年はひさしぶりの希死念慮が猛威を振るい、死なないことで精一杯だったのだ。

折角良いペースでやれることも増え、チャンスに恵まれていたのに、余裕が無くてなにも出来なかった。

その事実がまた首を絞めて、あれよあれよと自殺志願者。

起こる全てが死ぬ理由に繋がる日々は、正に生き地獄。
精神が病めば身体も病んで、毎晩熱と頭痛・吐き気で眠れず、日中も起きることすら億劫に。そうして、寝て過ごせば「何も出来なかった」でまた自己嫌悪の無限ループ。

生きれば生きるほど苦痛が増してゆく。

『ゴミみたいな人生だ』

何度そう思ったろう。

そんな地獄に耐えかねた先月の終わり、「よし死のう」と決めた。

「物品の処分や片付けもあるし、死ぬのは二日後にしよう」

そうして、死に向かう余命二日間。

これが本当に楽しかった。

死を決断したことで「希望の無い未来」から解放された。
それだけで、こんなに軽くなるのかと驚いた。

ずっと押し殺し続けた「死に支度」は、私にひさしぶりのよろこびをもたらした。
余計なことを考えず、ただ嬉しかった、楽しかった過去の思い出に浸る。

「生きなくて良い」という、誰に与えられたでもない宥恕は、私から未来と共に「将来の苦悩」という迷妄を取り去ってくれた。

生きたいとは思わない、全く思えない。

しかし「いま死ぬ必要は無い」と思い始めた。

「いつ死んでも良い」という、ともすれば幇助にもなりかねない心が、今日の私を生かしてくれた。

「死にたい」「生きることが苦しい」という人には「死んではいけない」「生きろ」と反射のように返す現代。

しかし、時として「生」は毒にもなり得る。

苦手な物事とは距離をはかるように、生きることに苦しんでいるのなら、少し離れてみることも有りではなかろうか。

命ある限り、生は必ず付いてくる。

だからこそ、自分なりの付き合い方を見出すことが肝要なのかも知れない。

「生は幸福」と宝物のように扱う者も在れば、「いつ捨てても良い」と投げやる者。

携え方に正解は無く、有るのは己に合うか否か。

対人関係と同様、全ての事象において人には間が必要なのだ。

片岡妙晶(kataoka myosho) 真宗興正派 慈泉寺 1995年1月17日生まれ 世間へ仏教を広めることが専門の布教使として、日々邁進中。



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