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宇宙一尊敬する祖母が死んだ話①

令和2年に 
宇宙一尊敬する祖母が死んだ。

祖母は大正生まれにしては
身体が大きく、
認知症も進行してしまったため
施設に入っていた。

令和2年、コロナ騒動真っ最中。
施設に入っていた祖母とは全く会えない。

コロナ騒動の前でも
私が引き取ろうと準備するたびに、
骨折で長期で入院してしまったり、
一時期危篤になったりと、
祖母にあまり思わしくないことが
あまりに次々起こるので諦めた。

そんなこんなしてるうちに、
永遠に会えない日が来た。

不思議と涙は出なかった。

当時は、私自身気づきがあり、
現実に左右されることが
なくなっていたし、
覚悟もできていた。

不謹慎かもしれないが
家族に会えず、ひとりぼっち。
自由のきかない施設と
肉体からようやく自由になれて
よかったね と正直思った。

死に顔はとても安らかだった。
死に化粧をしてもらったら、
より べっぴんさんになっていた。
ホント、少女のようだった。

生前も私たちと過ごした時間より
子供頃の記憶の方が鮮明だった。
祖母は一番自由だった
幼少期に戻れたのだろう。

普通ならすぐに通夜、葬儀となるが、
祖母の最愛の孫の兄(男の初孫、初内孫)が
仕事の調整をし、帰ってくるのを待つため
通夜も葬儀も2日遅らせた。
(目に入れて痛くないほど)

実は、同時期 主人の父親も
大病を患い、あまり思わしくない状態だった。

私の実家に帰った次の日
義父の容態がよくない知らせがあり、
一度様子を見るために戻ることになった。

私は、祖母の葬儀は出れないことを覚悟し、
しっかり別れをして
家族で義父の入院する病院に向かった。

到着して会ったが、
義父はほとんど意識はなかった。
ずっとついていられないこともあり
私は子供を連れて、一度家に帰った。

そして程なくして、義父が亡くなったと
主人から連絡がきた。

すぐに、私の実家に祖母の通夜もお葬式も
出られないことになった旨を連絡した。

祖母と最後の別れはできないのは残念だったが、
ここでも不思議と動揺はなかった。

もう肉体では会えないのだが、
分離感がないというか、
寧ろ、生きている時より
祖母を近くに感じていた。

祖母は孫を本当にかわいがってくれた。
私達孫3人だけでなく、
寿司屋を営む叔母の子供(私の従姉)も
一時期預かっていたらしい。

年齢は一回りほど上なので
生活的には被ってはいない。

私達が幼稚園の頃、
祖父母は既に還暦を過ぎていた。
それなのに、祖父母は本当に
全力でわたし達と向き合ってくれ、
時には60歳過ぎても小学生の孫たちを
追っかけたりもしてくれた。
考えられない!!!Σ(・ω・ノ)ノ!

当時腰も既に悪くしていたのに。。。
(身体の動く子供には理解できてなかった)

まだ50歳にならない今でも
走って子供を追いかけるなんて
もう、できない💧

祖父も生前は孫を溺愛してくれていて
明るく優しかったので
当時は祖父の方が好きだった。

祖母はどちらかというと厳しい人だったので
一時期は自分のことは嫌いなのではないかと
勘違いしていた。

でも思春期の頃から、
祖母の深い深い愛情を感じていた。

反抗期の時も、鬱の時も
人間では唯一祖母だけが
態度を変えることなく
私を否定することなく
そのまま受け入れてくれた。

今は両親を責めるつもりはないが
どちらの時も
両親は手を差し伸べるどころか、
私をお荷物として一家の恥だと
分離を強めた扱いをしていた。

後に祖母に 60歳過ぎて
私達孫を育てるのは大変じゃなかったか?
と尋ねた。

祖母は間髪入れず 
子供、孫を育てるのに
大変、辛いと思ったことは一度もない。

と 即答した。
私は衝撃だった。

私は幼少期から
かなりひねくれ者で
頑固者。

兄はいたずらでやんちゃで
カツオのようだった。
近所によく謝りに行っていた。

弟は静かで弱く、あまり他者に
心を開かないところがあった。

正直、わたしたち3人だけでも
どちらかといえば
育てにくい要素満載なのだ。

比較してはいけないが、
母はよく虐待のニュースを見て
私達子どもの前で
「殺したい気持ちわかるわぁ~」
と呟いてした。
しかし、正直母の方が一般的だと思う。

子育てで行き詰るのは理解できる。
どうしていいか分からないことも
あるからだ。

でも、祖母は言い切った。
末っ子の叔父を生まれてすぐに亡くした
経験もあったからなのかもしれない。

そうだとしても。
きっぱり言い切ることができるだろうか?

祖母生前
「生きる、ほつる(死ぬ)以外のことは
 たいてい問題ではない」
というのが 口癖だった。

私自身も
子供たちが小学校までは
子供たちには愛情いっぱいだったが、
何が正解かが分からず、
正直 苦戦した。

社会に合わせようと、
しつけ、教育など 
ありのままを受け入れてあげれなかったため
子供たちにトラウマを植え付けてしまった。

未熟だったとはいえ 子ども達には
心底申し訳なく思っている。

祖母は私達をありのまま
いつも受け入れてくれていた。
もちろん怒ることはたくさんあった。
(今では虐待になるのかもしれないが
 背中にしっかりお灸の後も残っている(笑)
 恨むとかという気持ちは微塵もない
 寧ろ今は、勲章くらいに思っている。)

でも、祖母はもっと深いところの
存在、命そのものとして
扱ってくれていたのです。

それが芯から理解できたとき、
祖母の偉大さに痺れました。

優しく、甘えさせてくれる
ことだけが愛ではないことを
教えてくれたのは
祖母でした。

表面上のやり方、
小手先のメソッドなんか
ホントどうでもいい。

自分も他人も
命をどう扱うか、ただそれだけでした。

次回、
祖母もなかなかのキャラクター、
危篤復活劇などエピソード満載なので
ご紹介出来たらと思います。

最後までお付き合いいただきまして
ありがとうございました。


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