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noteヘルプセンターの「創作活動でもっとも大事なこと」は間違いだらけ


ほとんどが、間違いです!


     これから俎上に上げて…ちょっと乱暴な言葉を使いますが…ぶった斬ろうとしている文章は、2022年11月30日20時31分に私がプリントアウトしたものです。
    そこには、タイトルに〈8日前・更新〉と付記されていますから、その後も更新がなされたのかも知れません。
   その点お含みおきのうえ、本稿をお読みください。
 
     以下に引用する文章は、すべてではありませんが、ほとんどが間違いです。
     これだけ短い文章に、これほどの間違いが書き込まれていることは、ないわけではありませんが、非常にまれです。
    私がすぐに連想したのは、手塚治虫先生が『ぼくの漫画人生』(岩波新書)で、ライフワーク『ジャングル大帝』について語った(正確に言うと、その主人公レオについて語った)くだりです。ちなみに手塚先生が、その生涯において、「ライフワーク」と認めた作品はふたつあります。ひとつは『ジャングル大帝』で、もうひとつが『火の鳥』です。
     問題の箇所で、手塚先生、最も愛する自作の主人公について、それはもう、めちゃくちゃなウソ、デタラメばかり並べています。
    手塚先生は、万人が認める天才クリエイターであり、直(じか)に接した人のほぼ全員が認める人格者でした。しかし一面、かなり困った人なのです。どんなふうに困った人かといえば…というのは、本稿の主題から完全にそれるので割愛します。
    noteヘルプセンターさんの、この文章には、タイトルに反して「もっとも大事なこと」は、何ひとつ書かれていません。
    私は、現在無職ですが、かつて出版社の編集者、取材記者、フリーの文筆家として仕事をしてきた人間です。
    しかし、この文をお読みの多分すべての方が「お前なんか知らないよ」と思われるとおり、仕事も作品も大したものではありません。才能もない人間です。  
    とは言え、少なくとも、一定程度の資質はあります。そうでなければ、商品になる文が書けるわけはありませんから(語義的に「資質」と「才能」の間に明確一義的な境界線を引くことは不可能なのですが、本稿ではあえて便宜的に両者を区別して使います。その意はおくみ取りいただけることと思います)。
    そうした職歴と、実はまったくないわけではない矜持をもつ人間として申し上げたい。
    noteに投稿しようと思われている皆さんに。
 
    こんなモノを真に受けちゃダメですよ、と。
 
     なお、「創作活動」は、もちろん文章表現に限ったものではありませんし、noteも文章に限定された創作発表の場ではありません。しかし、この『最も大事なこと』は、どう読んでも文章表現について述べたとしか思えないものです。
   ですから、私も(無理であること、誤った前提であることは承知のうえで)創作≒文章表現と仮定して書きます。
 
 

異議申し立て、いたします


 
    順次引用します。なお、①②③…のナンバリングは、原文には存在しない、
私が挿入したものです。
 
①みなさんにnoteを使っていただくにあたって、何よりも優先していた だきたいポイントが2つあります。
 
②・創作を楽しみ続けること
 
③・ずっと発表し続けること
 
 
 この①②③が「間違いである」とは言えません。私に限らず、誰にも。
 なぜならば、①は複合文ですが、「優先していただきたい(と考える)」の省かれている主語は、明らかに「noteヘルプセンター」さんだからです。
 それは、何を「…していただきたい」と望もうが、筆者の方(あるいは方々)のご自由です。他人が正誤を決めつける筋合いのものではありません。
 しかし、私にも異議を表明する自由はありますから、申し述べます。
 ②も③も、ひと言で言えば、大きなお世話、です。

「楽しみ続け」「発表し続け」なくたって良い


 ②について言えば、あたり前のことですが、創作は楽しいことばかりではありません。ほんの一例を挙げれば、倉田百三の『出家とその弟子』は、苦悩の中から生まれた名作です。そのことは、本編よりもむしろプロローグに端的に表されています。
 三谷幸喜さんや大石静さんは、「命を削って(脚本を)書いている」と話されたり書かれたりしています。創作家として、このお二人が特別な例外でないことは、言う間でもありません。
  ③については。
 マーガレット・ミッチェルは35歳で『風と共に去りぬ』を発表し、大ベストセラーとなって以降、49歳で没するまで、一編の小説も書いていません。    
    もちろんオファーなら山ほどあったのに。
 『風と…』は、彼女が発表した唯一の小説です。
    ミッチェルは新聞記者の経験もあったので、その意味では「発表し続けた人」と言えなくもありません。
    しかし、『風と…』のような世界を創造する力は、新聞記者としてのキャリアを積み重ねる延長線上には生じ得ません。絶対に。
    彼女ほどの才能の持ち主でなかったら、逆に、せっかくもって生まれた物語的空想力を、記者としての職業的訓練がスポイルして(ダメにして)しまったかも知れません。
    ミッチェルがクリエイターとして評価されるのは、ただ1編の長編小説です。でも、それだけで、彼女の人生には十分過ぎる栄光が輝いています。
 アルチュール・ランボオ(今は「ランボー」と表記するのが一般的なようですが、スタローンの顔が頭にチラつくのはイヤなので、こう書きます)は、若干21歳で詩作を止め、39歳で亡くなるまで、1編の詩も書いていません(もっとも、ランボオの場合は、詩作を始めたのが15歳と早かったことも付け加えておきます)。
  ずっと発表し続けたい人は、そうすれば良いのです。とにかく渾身の一作にすべてを懸け、それで満足できる人はそうすれば良い。発表することを止めたくなったのなら、誰だってそうすれば良いのです。
 発表せずに自分の机にしまっておきたい人はそうすれば良い。もちろん、そうするのはnoteに投稿する意志のない人たちですから、ここでは除外しておきましょう。
 漫画『タイガーマスク』(梶原一騎・原作/辻なおき・作画)に登場する天才的テクニシャン・レスラーのスター=アポロンは、せっかく来日しても全然試合しないで京都の名所めぐりや茶道の手習いなどといったことばかりしていました。そのわけを問われたアポロンの答えが、こうでした。
「私は芸術としてプロレスをやっています 芸術家は気がむかねば すぐれた芸術を生み出せません」
 学校の授業で、まあぶっちゃけて言えば無理強いされた場合を除き、自分で創作に手を染めようなどと思わない、世の多数派の人たちが「芸術家」という言葉から思い浮かべるイメージは、こうしたものでしょう。
 実際に、こうしたタイプの創作家たちはいくらでもいるのですが、面倒になってきたので、いちいち名は挙げません。
    なお、スター=アポロンは、結局タイガー・マスクと試合して、リング上でプロレス・テクニックの芸術を披露します。あたり前ですね。そうでなきゃ何のために出てきたんだって言われるもん。
 

この断定が、問題を生む

 
④上の2つは、ページビューを増やすことよりも、お金を稼ぐことよりも、あるいはフォロワーを集めることよりも、なによりも大事なことです。  

    こうなってくると問題のある文章です。  
 なぜか? この文は、「(筆者が)〇〇していただきたい」と述べている①②③と異なり、「〇〇と〇〇は」なによりも大事なことです、と言いきっている、断定している文だからです。 
 私のように馬齢を重ねた老人だったり、かつて文筆の仕事に関わっていたり、あるいはうんと若くとも(10歳とかでも)、うんと賢くて、かつヒネクレた性格の人なら問題はありません。
「あ、そう。そーゆー考え方もあるのね」 
    と受け流せば良い。ただそれだけのことです。 
 しかし、この文を読まれる大半の読者は、そうではない。 
    私のような年寄りは少なく、どう自己表現して良いかに悩まれている若い人が多いはずです。   
 表現に関わる仕事で対価(=おかね)を得た経験のある人より、ない人のほうが確実に多い。   
 賢い人は多いと思いますが、うんと賢い人はハッキリ言ってそれほど多いとは思えません。ヒネクレた性格の人は、ほんの一握りでしょう。しかもこの二つの資質は、ともに受け流せるための必要条件です。どちらか一方が欠けても、問題は生じてしまいます。  
  どういう問題か。
 noteというプラットフォームの運営会社が言いきっていることを、何の疑いもなしに信じ込んでしまう、という問題です。   
 ここで「なによりも大事なことです。」と断定されていることは、明らかな間違いです。 
 私は、文章の書き方を、他人(ひと)様に指南できる能力も実績もノウハウも、まったく持ち合わせない人間です。 
 しかし!
「みなさんにnoteを使っていただくにあたって」「なによりも大事なこと」が何であるかにつきましては、正解を書き記すことができます。
 それは「パソコンあるいはスマホに向かうこと」です。 
    日本を代表する写真家のひとり、秋山庄太郎さん(1920~2003)は、「撮影するために一番大事なことは何ですか?」と問われてこう答えていました。「カメラレンズのキャップをはずすことだよ」と。   
 それと同じです。 
 昔だったら「原稿用紙に向かうこと」。 
 今でもそうされている方はいらっしゃるかも知れません。   
   そうした方がnoteに投稿されようとした場合、彼もしくは彼女がいたら、自分は手書きに専念して恋人に入力を任せるのはアリです。とても素敵な方法だと思います。   
    ただし「彼または彼女」に限ります。「夫または妻」の場合は、そんなことをさせようとしちゃダメです。なぜダメなのかは、説明しなくともお分かりでしょう。分からない人には、説明したって分かりっこありません。   
 なお、パソコン、スマホに加えてタブレット何とかもここに付け加えて良いのかも知れませんが(良くないかも知れませんが)、私は博物館級のデジタル音痴老人なのでそのへんのことは分かんない。極端な怠け者なので調べるのも面倒です。ですから、タブレット何とかにつきましては分かんないまま除外しておきます。ご諒承ください。  
 従って、noteヘルプセンターさんが最も大事なことと断定されている②③は、私に言わせれば(というより誰がどう考えたって)、「二番目に大事なこと」でしかありません。 
 続けてnoteヘルプセンターさんは、④に例示した三つのことがらよりも、②③のほうが大事ですよ、と念押ししておられます。 
 これも大きなお世話です。 
 何を二番目に(これはまあ認めて良いと思うのですが、多くの人の主観としては一番目に)大事と思うか、なんてことは、人それぞれ。   
    その意味で正解なんてありません。  
 「ページビューを増やすこと」と思う人がいたら、それはその人の自由です。「お金を稼ぐこと」と考える人がいたって良い。
「フォロワーを集めること」だって同様です。「出版社から注目されたい」でも。「思いを寄せている人に心の内を打ち明けたい」だってアリです(恋心を告白できずに悩んでいる人が、その心情を不特定多数の人に公開することで、ただひとりの人に伝えるやり方は、昔から珍しくありません。かつてラジオの深夜放送には、そんな投稿がよく寄せられていました)。
「日々の暮らしを綴りたい」「体験談を伝えたい」「自分の悩みを書くことで論理化したい」「好きな映画について語ってみたい」「表現について語りたい」「生き方について語りたい」…こうしたことを意図として書かれた文章は、noteによくありますね。 これらは、それぞれの書き手が「最も大事なこと」としていることです。
 もちろん良いのですよ。「創作を楽しみ続けること」「ずっと発表し続けること」と考えても。それは賢い選択だとさえ思います。 
 でも、「この二つこそが正解だ」という決めつけは、要らぬおせっかいというものです。   
 私が見つけた中には、「男社会の不公正を正すこと」だと考えている人がいました。この方(女性)はフェミニストです。文中そう自認されていました。 
 このように特定の主義(イズム)を主張すること、と考える人がいても良いのです。確固たる主義(イズム)をお持ちの人たちの多くは、noteという場や、文章という表現手段に限らず、それこそが、人生にとって、世界にとって、最も大事なことだと考えています。 
 実際に見つけたわけではありませんが、「マルクス主義の復権を目指したい」とか、反対に「共産主義の悪を断罪したい」とかでも、もちろん良いのです。  

理解不能、意味不明です


⑤名文や超大作を仕上げようとして手が止まってしまうくらいなら、駄文でも短文でも悪ふざけでも、とにかく気軽に投稿しましょう。 

⑥短い文章、下手な文章、ラクガキ…、そういったものを恐れて手を止める必要はありません。まずは、創作したいこと・伝えたいことを世に送り出す。表現力もファンも、あとから十分ついてきます。  

 ⑤では、〈名文・超大作〉と〈駄文・短文・悪ふざけ〉を対比しています。   
 ⑥では〈短い文章、下手な文章、ラクガキ〉を並列的に扱っています。 ⑤では、明らかに前者を「(書き上げることが)困難な文)」と、後者を「容易な文」と見なしています。⑥に例示した三つについては、それらを「表現力が不十分でも書ける文」と決めつけていることは明らかです。いずれも小学6年生ていどの読解力があれば分かることです。 
 あのねえ。 
 一体何をおっしゃりたいのですか? 
 どうして「短文」なら容易に書けるのですか。 
 なぜ、「短い文章」だと、表現力が不十分でも書けることになるのですか。 
 だとしたら。  
 アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』の、「【大砲】国境線を引っ張る道具」や、ジュール・ルナール『博物誌』の、「ちょう 二つ折りの恋文が、花の番地を捜している」 は、容易に書き上げられる文、表現力が不十分でも書ける文章、ということになります。 
 中里介山はエライけど、稲垣足穂はエラクない、とでもおっしゃりたいのですか。 
    バカバカしくってお話にもなりません。  
 ウィンストン・チャーチルは、友人に宛てた書簡をこんな断り書きから始めたことがあります。「申し訳ないが、今、短い手紙を書いている時間がない。だから、長い手紙を書く」 
 多くの場合、文章を書くさいには、チャーチルの言葉が語っているように、書き流した、あるいは書き流したらと想定される文章量よりも、圧縮し削減(彫琢とも言います)することが重要です。端的に言えば、そのほうが良くなります。 新聞社や出版社の社員記者は、必ずこの訓練を受けます。 裏を返せば、最初から適切な長さの文を書く、あるいは長さを構想することは無理、ということですね。もちろん無理でない人もいますが、そんな人はごくまれです。 
 ただし、「多くの場合」とお断りしたとおり、これは文章を書くうえでの唯一の真理でもなければ、絶対の方法論でもありません。 
 ローレンス・スターンの『トリスラム・シャンディ』のように、饒舌に任せて書きたいことを書いた(だからこの作品は、もはや「文章表現」から脱線すらしているのですが)からこそ成立する世界もあります。カール・マルクスの『資本論』も、過剰な文章だから、あんなにおもしろい(しかし、この本の場合、「おもしろい」ことが良いことか否か、私には何とも判断しかねますが)。 
 けれども、これから文章表現を始め、上達したい、と思われている(すぐのちにも述べますが、そう思わなくても良いし、それはその人の自由です)方たちには、こう申し上げたい。 
 noteヘルプセンターさんの言うことなんかより、チャーチルの金言を範とされますように、と。  

表現力はついてきません

 
 ⑥で結論づけられているように、「下手な文章、ラクガキ」であっても、投稿し公開することはして良い、と私も思います。   
 本人が石ころだと思っていたものがレアメタルだったり宝石だったりすることも、ないわけではありません。しかし、そうしたことは例外中の例外です。以下に述べることと、矛盾ではないのですがハレーションを起こしますので、ここでは除外して考えます。   
 つまり、石ころは石ころのままに、ガラクタはガラクタのままで、公開して良い。それは自由ということです。   
 ただし、⑥の「下手な文章でも表現力はあとから十分についてくる」という主張は、完全な間違いです。   
 この文は、noteでも活躍されている、少なからぬプロのクリエイターに向けて発信されたものではないでしょう。だとしたら、失礼きわまりない。   
 明らかに、文章表現に経験も自信もない初心者を対象とした文章です。だとしたら、その人たちが、下手だと自認している文章を公開し続けることで、文章力が向上することは、まずあり得ないと考えるべきです(何ごとにも例外はあるのですが、除外して考えます)。 
  なぜか。 
  その人たちの文章は、自分で思っているよりも、もっと下手だからです。  
  そうした人たちが、自分で「OK/NG」のハードルを下げてしまったら、向上心がごっそり欠落し、安逸と怠惰に流れます。   
 どんなに無能な書き手であっても、一応プロとして仕事をしていたら、編集者や校閲者によって必ず文章のチェックを受けます。noteの世界には、原則的にそれがありません。   
 別に文章表現に限ったことではなく、人間は自分を正す、律することの極めて困難な生き物です。『スーダラ節』の「分かっちゃいるけど止められない」はまさしく真理なのですが、実は「分かっちゃいる」ことよりも、それ以前に「分かっちゃいない」ことのほうが、はるかに多い。ここがより重要なポイントです。
 そもそも、ここで言う「下手な文」とは、「伝えたいことがうまくまとまらない、伝えられない文」のことです(そうではない「下手な文」もあります。すぐのちに述べます)。   
 ですから、その人たちに「まずは創作したいこと・伝えたいことを世に送り出す。」なんてそそのかすのは、明らかな言語矛盾です。無責任きわまりないタワゴトとしか言いようがありません。   
 ⑥に書かれているように「恐れて」だったり、あるいは「とまどったり」だったり「ひっかかったり」だったり、言語化できないもやもやだったり、原因はいろいろあるでしょうが、手を止めたくなったら、止めましょう。    それが単なる杞憂ということはあり得ても、重大な判断ミス、禍根を残す選択ということは、あり得ないのですから。 

才能のある人は特別です


   もちろん、才能がある人なら良いのですよ。そういう人たちは、向上心など意識しなくとも、いきなり内容やクオリティのある文章が書けてしまいます。文章表現においては、才能は圧倒的に努力に優ります。努力は絶対に才能を凌ぐことができません。   
 典型的な例を挙げましょう。   
 テレビドラマ『裸の大将放浪記』は、実在した天才画家・山下清の、同題で出版された手記を原作としています。山下は思春期を知的障害児施設で過ごし、のちに放浪の旅を繰り返した人です。その文章は、お世辞にもうまいとは言えません。文法的におかしなことは珍しくありませんし、語彙力なら私のほうがずっとあります。   
 しかし、そこには私にはまったく欠落しているもの、つまりオリジナリティーがあります(私は意識的な模倣によってしか文章が書けません。もっとも特定のひとりではなく、数人のお手本をミックスしてはいますが)。さらに言うと、私が敵いっこない、人の心を摑む「何か(Something)」が、しっかりとあります。   
 そんな文章なのに「伝えたいこと(山下は読者を想定して書いていませんから、正確に言うと〈山下清の世界〉)」がちゃんと伝わっています。それは並みはずれた集中力のなせる業(わざ)だと、私は思います。   
 山下清は、常識的なモノサシでは、下手な文章しか書けない人でした。執筆のさい、集中こそしていましたが、「努力」は一切していません。しかし、類(たぐい)まれな才能に恵まれていたがゆえに、文章表現においても、私などが及びもつかないクリエイターたり得たのです。  

文章表現と筋トレは違います

⑦創作活動は、筋トレやランニングと同じです。一時期に集中して取り組んだら、それで終わりではありません。ちょっとずつで良いので日常生活の一部にすること、クセをつけるのがポイントです。    

 この文の誤りは、大まかに言って、すでに述べたことと重複しています。一時期に集中的に取り組んで、それで終わりという人は当然いて良いし、ちょっとずつでも日常生活の一部にする人も、もちろんいて良い。 
 あたり前のことですが、寡作な作家、多作な作家、どちらがあるべき姿勢か、なんて問うのは愚の骨頂です。 
 なお、創作活動は筋トレと同じではありません。 
 私はこれと言って誇れるものをもたない人間ですが、筋トレについてだけは、唯一ちょっぴり自慢できます(「ちょっぴり」ですよ、ご大層なものではありません)。  

【違いの①「必須のことがら」のあるなし】  
 筋トレをする人間には、「スケジュール(週や月単位などで、どの日にどの筋肉部位を鍛えるか)」と「メニュー(どのような運動をいくつ、またそれぞれ何セットやるか)」を組むことが絶対に必要です。   
 これなしの筋トレはあり得ません。   
 初心者も最上級者もこの点では変わりはないのです。   
 もっとも、スケジュールにしろメニューにしろ、ガチガチの確定的なものでは決してありません。仕事や学校の都合で、火曜にトレーニングできなくなったから、水曜や木曜に移すというのは、もちろん普通にアリです。今日は調子が良いからベンチプレスを2セットふやそうとか、反対に調子が悪いから、今日は肩や上腕の運動はナシにして上ろうとか、そのへんは融通を利かせれば良い。   
 スケジュールもメニューも、できるものなら、トレーニー(鍛錬者)の好きなように、完全に自由に組めれば良いのですが、そんなことができる人は存在しません。   
 モチベーションや目標といったこと以上に、トレーニーの筋力レベルや身体的特性・段階に応じた発達度(これも各部位が均等に伸びるというものではありません)などに、まず時間的・内容的枠組みが器械的に限定されます。トレーニーたちは、その枠組みの中で、さまざまな工夫を凝らしているのです。もっともその工夫の仕方に、たぶん筋トレについてご存じない方がイメージされているものより高い自由度は、あります。 
 文章表現には、このように「絶対に」必須なことがらなど、何ひとつありません。 
 文章表現に絶対の方法論、セオリーなど存在しないのです。 
 また、筋トレの自由度が確実に限定的なのに対し、文章表現の自由度は、もちろん無限とは言えませんが、比較にならないくらい非限定的であると言って、間違いではないでしょう。  

【違いの②筋肉と脳機能の違いでは?】  
   筋肉の増強肥大運動は、中断したら発達が必ず停止し、その状態が続けば、筋量も筋力も確実に低下して行きます。 
 しかし創作活動は、一度あるレベルの創作力やノウハウ、その人なりのスタイルを獲得出来たら、中断があっても筋肉のように顕著かつ確実な低下が生じるというものではありません。   
 たとえるならば、むしろ餅つきとか自動車運転に近いでしょう。「昔取った杵柄」と古くから言われるように。   
 もちろん、自動車運転がそうであるように、中断によって低下が生じることがないと言っているわけではありません。しかし、自動車運転とは異なり、中断によって新たな気づきを得るなど、良い効果を生むことだってあり得ます。   
 私は医学や脳科学にあまりにも無知なので、断定はできないのですが、この点につきましては、文章表現や創作活動に限らず、筋肉と脳機能一般の、発達および維持、停滞、低下のあり方の違いに還元できるのではないか、と思っています。 

「人それぞれ」を尊重しましょう


「クセをつけるのがポイントです」なんて、繰り返しますが大きなお世話です。 
 私は今年(補注1・2022年)の7月26日に、最初のnote発表作を公開して以来、11月5日に第2作を公開するまでの間、創作と呼べることは何もしていません。 
 気が向いたら書いているだけです。 
 それの何が悪いのですか。 
 代金銀行口座振込みの前提で、納期を指定された商品作ってるわけじゃないんですから。 
 社員記者として、またフリーランスとして文筆の仕事があった当時は、業務命令や注文があったときには書きましたし、その頻度が高く忙しかったこともあります。 
 しかしそれは「クセをつける」のとはまったく異なることがらです。   
 すでに述べたとおり私は極端な怠け者なので、ずいぶん長い年月、給与や原稿料・印税にならない文章は、見事になんにも書きませんでした。  
 もちろん、意識的にクセをつけようとして、日々書き続けることだって、悪いわけはありません。あたり前です。
 私がnoteで見つけた中には、そのようにされている素晴らしいクリエイターがいました。ナオコさんという方です。彼女は日記を公開し続けていらっしゃるのですが、ほぼ毎日アップされているタイトルを、いつクリックしても新鮮で、文章がみずみずしさとオリジナリティーに溢れ、完成度の高さには目を瞠らされます。私はどえらいものを見つけてしまいました。 
 相対的な比較をすれば、ナオコさんのお書きになるものは短文で、noteに公開した(する)拙稿は明らかに長文です。しかしクオリティーという点では比較になりません。才能とはこういうものだと思い知らされます。 
 私が次回noteに文を公開する機会が、もしもありましたら、ぜひナオコさんの作品の素晴らしさについて解説したもの(note感想文)を書きたいと思っています。

(補注2・その解説文は2023年2月16日に脱稿・公開しました。タイトルは『これがnoteで日々読める名文! 元文筆業(笑)が解説します』です。
補注3・その後私も短文を2作noteに投稿しました)

【附記】

 この作品は、2022年12月15日に投稿・公開したものですが、note創作大賞に応募するにさいし、補注を記し、加筆修正を行ないました。加筆したのは僅かですが、削除は結構ばっさりしています(2023年7月16日・記)。


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