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何日経っても僕のお父さんは帰ってきませんでした。

 なんにちたってもブンのお父さんは帰ってきませんでした。森のなかにひっそりと建つ、木でできた小さなおうちにブンと病気のブンのお母さん、そして大きなくつを残して。
 お父さんはおうちを出るまえにブンに、お母さんのために医者を呼びに行ってくると言っていました。しかし生まれてからおうちを出たことのないブンは、お父さんがどこに行ったのかさっぱりわかりませんでした。ブンがベッドで寝ているお母さんにそのことについてきいてみても、お母さんはずっとねむり続けていてなにも答えてくれません。時にはお母さんはほんとうは聞こえているのに聞こえないふりをしているんじゃないのかと腹を立てることもありましたが、ブンの興味はすぐほかに移ってしまいます。
 それにブンはよく窓から顔を出してお天道さまとおはなしをするのでちっとも寂しくなんかありません。「お天道さま、お父さんはどこまで行っているのかな」「そりゃあ医者のいるところさ」「医者はどこにいるの」「お父さんの向かっているところにいるさ」と、お天道さまとのおはなしはいつもこんな調子です。
 またお父さんが出ていってからまいにちのお食事を、ブンは自分でつくるようになっていました。部屋のすみに高く積んであるじゃがいもの山からいくつか取ってきて、どろんこで汚れている皮をナイフでむいて鍋で煮ます。お母さんが元気だったころはナイフも火も危ないから使ってはいけないと言われていましたが、お母さんは病気だしお父さんはおうちにいないししようがないと自分の意思で使いはじめました。
 ある朝ブンがいつものようにナイフでじゃがいもの皮をむいていると、外から聞こえてきた小鳥のさえずりで目を窓のにほうやってしまい、指をちょっぴり切ってしまいました。深い傷ではありませんでしたが、はじめてナイフでけがをしたブンは驚いて思わず泣いてしまいました。でも、むかしみたいには誰も背中をさすってくれません。ブンはベッドのほうを見てそのことに気づき泣くのをやめました。ブンはお父さんが医者に会いに行っていることを思い出し、自分も医者のところに行ってけがを見てもらおうと思いました。そうすればお父さんにも会えると思いました。おうちを出たことのないブンですが、このときばかりは自信たっぷりに自分ひとりで医者のところにたどり着けると思い込んでしまいました。
 さっそくブンは出かける準備をはじめました。お母さんがむかし髪をとくのに使っていたブラシでぼさぼさの髪を整え、お母さんがむかし買い物に使っていたバスケットにじゃがいもをいくつかとナイフを入れ、すこし迷ってからブラシも入れました。ブンはお母さんとお父さんの出かけるときのようすを見ていたので、出かけるときになにも持たないのはよくないことを知っていました。ブンはバスケットを片手にお父さんの残していった大きなくつをはきました。ドアを開けて生まれてはじめておうちの外に出ます。
 森のなかへと続く道は、ドアを出てすぐ見える一本しかありませんでした。どうやらお天道さまの降りていく方向にその道は続いているようです。ブンは真上からすこしだけお昼すぎの方向に進みはじめていたお天道さまについていくことにしました。
「お天道さまはこの道がどこに続いているのか知っているの」とブンは歩きながら、目は前方を見たまま言いました。
「おまえさんはどこに続くかもわからないのにこの道を行くのかい」とお天道さまは言いました。ブンは答えます。
「おうちのまわりにはこの道しかなかったもの。それでこの道はどこに続くの」
「おまえさんの行きたいと思うところへ続いているさ」
お天道さまはそれっきり、ブンが話しかけても黙ってしまいました。
 もう小一時間も歩いたでしょうか。だんだん歩きにくくなってきました。ブンのはいているくつがぶかぶかだからではありません。道がぬかるんでいるのです。それでもブンは前に歩みを止めませんでしたが、だんだん霧がかかってきて視界も悪くなってきました。前はよく見えませんが、まだあたりは明るいのでお天道さまが森の向こう側に降りるまでにまだ時間はあるようです。
 ブンは前途も見えないのにこのまま進むのがこわくなってきました。お天道さまに導いてもらおうと口を開けたとき前になにか見えました。誰かの影が前を歩いています。お父さんでしょうか。ブンはぱあと気もちが明るくなり、走り寄ろうと思いましたが、ブンが追いかけるとその影も走って逃げてしまいます。ブンが思いっきり走っても、その影も同じように思いっきり走りますし、ブンが速度を落とすとその影も速度を落としました。
 ブンは気づきました。ははあん、自分の影だな。ブンは後ろにも自分の影ができて追いかけてくるのにも気づきました。なんだか楽しくなってきたのでしばらく自分の影と追いかけっこをして遊んでいました。こういうのを堂々巡りというのかしらとブンは思いました。
「そんなんでいいのかい」
 突然黙っていたお天道さまが言いました。
「堂々巡り、堂々巡りかな」
「医者のところへ行くのだろう。そしてお父さんに会うのだろう。病気のお母さんをひとり家に残してきてまで外に出たのに、それでいいのかい」
 どうどうめぐり、どうどうめぐり。ぶつぶつとつぶやいているうちにブンは、今前と後ろの影のどちらを追いかけていたのかわからなくなってきました。そもそも自分はお父さんを追ってきたのか。いやほんとうはただある道をたどってきただけなのかもしれない。お天道さまが導いてくれる。自分の頭で考えなくても、きっとお天道さまは連れていってくれる。
 ブンはだんだんと自分の頭や脚が役に立たないように思えてきましたが、そう感じてしまうこと自体がいやでした。そうだ、自分のからだの外のもののせいにしよう。ブンはとっさに思いつきで、自分がうまく行くべき方向に進めないのは全部このぶかぶかで歩きづらいくつのせいだと脱ぎ捨てました。すると、足がずぶずぶと地面に沈んできました。もうブンは助けを求める気力もなくて、自分の重さに任せてどんどん沈んでいきました。

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