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自分のための基準を持つことの重要性

「現代美術って、よくわからないね」というフレーズも使い古された感が出てきた昨今、運良く私は夫が写真を使った現代美術家であり、結婚と同時にその世界を学ぶきっかけをいただいて今に至る。
私の花嫁修行は料理でも洗濯でもそのほか家事一切の上達でもなく、写真集をひたすら観て、写真史、特に夫(となる人)が影響を受けてきたアメリカのニューカラーの歴史を一から勉強するところに注力されていた。
毎食のご飯に強いこだわりのない夫に助けられ、しかしそれはもしかしたら私の様子を見かねてこだわっていないよと言ってくれる優しさだったのかもしれないのだが、ともかく写真史だけを携えて嫁に来た私は、どうにか結婚生活を続けてもうすぐ8年となろうか。

結婚が決まってからの半年、偶然、東京都写真美術館が改装中で図書室が使えず、当時東京の西荻窪という荻窪でも吉祥寺でもないちょうど良い窪地のようなエリアに暮らしていた私は、恵比寿にある有名な写真集食堂に通い詰め、コーヒーを飲みながら手当たり次第に写真集をめくっていた。
当時本当にお金がなかったので、西荻窪から恵比寿まで歩いていっていた。事務所のウォーキングレッスンや演技レッスンにも、レッスン室がある表参道まで歩いて通っていた。頭がおかしい。そして若い。若さゆえの気合いを感じる。

さて現代美術と言っても実はそれは一言では括れないような範囲を持っている。
写真に注目するとそれだけで1つの大きな流れがあるし、それがどの国の系譜の話なのか、日本の写真史はまた独特の流れがあるし、時代とともに発展してきた撮影器材の影響を大きく受けながら進んできた写真史は、絵画や彫刻などの流れとはまた違うものを持っている。

もちろん絵画を長く手がけてきた人が彫刻もしたり、写真もやったり、映像も撮影したりすることはある。むしろそんなに珍しい話ではない。
しかも最近になると、デジタルの表現方法が飛躍的に拡大し、これから先にもまた新しい潮流が編み出されていくことは確実だ。美術の売買一つとってもデジタル資産と連携してNFTなるものが出てくるなど50年前のアート業界ではそれこそSF映画のような話だったことだろう。

もちろんこれまでの長い歴史の上に積み重ねられた現代美術の系譜も大切にして守られていくことと思う。私はペインティング(絵画)も好きだし彫刻などの立体も好きだし、もちろん写真作品も好きだし、それが古いものでも現存作家の新作でも、いいなと思うものは良いと思うし、特にジャンルや時代にこだわりがあって選別しているわけではない。

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』をここ数日のようやく出来たまとまった時間で読んだ時に思ったのは、やっぱり私たちは私たちが構築した「神話」の中に生きているのだけなのだなということ。経済という神話、お金という神話、国境という神話。これらの現代における現実生活と神話という言葉をくっつけようとすると、批判的否定的な印象になるかもしれないが、決してそういう話ではなく、現代人が全員で信じて守っている現代人によって決められたルールがこの社会にはあるんだよという話である。それらは地球には今これくらいの重力が働いていますよね、というような抗うことのできない普遍のルールとは別のものだ。

現代美術も現代美術史、アートワールド、アートマーケット、アート業界等々の大枠から細かいところまでの様々な「現代美術神話」によって回っている。
アートバーゼルのような大きなアートフェアに行くと、それをひしひしと肌で感じることができる。
別に私はその現代美術神話を嫌いなわけでも否定したいわけでもない。ただ、あくまでも神話なんだよというのを、時々は思い出さねばならないと思うのだ。
一旦離れたところから俯瞰して見てみることができれば、新しい面白いことに気がつけるかもしれない。その未知の新しいものすら、そのうち何々神話として確たるものになっていくのだろうけれど、今のところまだ海のものとも山のものともつかないところに紛れている一粒の金の粒を見つける面白さは、きっとまだ存在する。

だからこれまでの自分なら引っ掛からなかったようなことが、もし理由もなく気になるなと思うのなら、素直に近づいてみるのもいいんじゃないかなと、最近は柔軟に考えたくなってきた。それがこれまで判断基準としてきた「現代美術」の範囲に入っていなかったとしても、5年後に何か全く新しい面白いものに成形されるかもしれない。

だからと言って、なんでもありなわけではない。
じゃあ、自分の中にある基準はなんなのだろう。

しばらく考えて出てきた答えは「自分のことを真剣にやっていること」が、私の中でのありか、なしか、決めるときの基準だということだった。

抽象的な表現で難しいのだが、どうしても表出したくて、それが誰かのためになるとか、お金になるとか、もっと言えば一体何のために作ったり表現したりしているのか説明がつかないようなことなのに、自分の中から出てきてしまうものがある時、それは「自分のことを真剣にやっている」ということになる気がしている。

形としてできたものは、何だっていい。文章でもいいし、イラストでもいいし、漫画でもいいだろうし映像でもアニメでも、料理でも建築でも、服を作ることやファッションコーディネートを組むことや、髪型をアレンジしたり、スポーツをしたり、冒険に出かけたり、未開の何かを調査をしたり。
もしもそれらを「自分のこととして真剣にやって」いるのなら、私の中では全部ありなんだなということが、だんだんと見えてきた。

もちろん社会経済の仕組みとの相性として、多くの人が買いそうなものを作ったり、どうしたら売れるのかをよく分析して行動したりするものも、存在して然るべきだと思う。
ただ、私が探しているのは、自分の限られた時間とエネルギーをかけてまで真剣に向き合うべき面白さであり、それは社会経済のシステムに組み込まれた消費とは、少し距離があるように思っている。

私だって生きている限り、消費はする。物を買うし、買えるものが社会にあることに感謝もしている。でも全て等価なエナジーで向き合っていたら、生命力がいくらあっても足りない。特に私はそんなにエナジー多めの生命体ではないので、通常運転時は節電モードでの運用が不可欠だったりする。

新しくて面白いことは、常に、成熟した中心地を囲った線の淵から、一歩外に出たところに湧き出てくるような気がしている。

最近読んでいた本に出てきた坂口恭平さんの言葉にこんな文があった。

熊本だよ。おい、南島、革命は離れたところからしか起きてないぞ。過去の革命を調べてみろって。離れろって。でも離れたって、怖いぜ、根無し草で生きるって。じゃあ、ルーツに戻るしかないんよ。

『坂口恭平の心学校』(晶文社)著:みなみしま 話者:坂口恭平 pp.36-37


中心地はどんどん濃縮されて、洗練されて、何かが磨き上がっていって、それはそれですごいとは思うのだけれど、積み上がるにつれて余白が消えていく。
余白がないと、遊びが生まれづらく、自由度が下がっていく。
自由度がないと、失敗が許されず、わけのわからないことへの挑戦が難しくなる。
結果、全く新しい面白いものは生まれにくくなるのではなかろうか。

私は濃度が上がったピカピカの洗練されたものも嫌いじゃない。そういうのを楽しむ時もあってもいいかな、とは思う。
けれど本当に自分の持っているエネルギーをかけられるなと感じるのは、余白から湧いて出る面白さの方だ。

これかな?と思って手にしてみて、あれ間違えちゃったなと思うことも、もちろんある。
違ったなと思ったら、また自分自身の修行を積んで、次に向かえばいい。
若い頃は1ミリも失敗なんてしたくないと思っていて、余白に踏み出す勇気もなかった。
だから常に、そこそこ良い何かしか選ぶことができなかった。全くの自由さだとか、まっさらな可能性のようなものに、手を伸ばせなかったのだ。

なんか違ったな、と思うこともいっぱいあると思う。
面白いことなんて、そうそうあるものでもない。
10個のうち1個が面白い。そんな確率なら、9個が違ったなと思うことになることを、恐れてはいけない。1個目で当たりが来ることもあるし、9個目までハズレが続いて、もうやめようかなと思うこともあるだろうから。

今日も私は最近見つけた面白そうなものを、これはありか、なしかを、真剣に検討している。




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