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『本を書く』 # シロクマ文芸部

本を書く、そう言って先輩は姿を消した。
あれは、今頃の、サークルの飲み会の二次会か三次会のこと。
先輩と2人きりだったから、三次会より、さらに後だったかもしれない。
俺は本を書く、その夜、実際にはもう朝だったけれども、そう言って先輩は僕たちの前から姿を消した。
姿を消したと言っても、学生運動華やかなりし頃の地下に潜るようなことではない。
文字通り、姿を消した。
誰かが下宿を訪ねたが、もぬけの殻だったらしい。

その後、先輩の卒業がどうなったのかはわからないが、僕たちも卒業する年になった。
ちょうど阪神タイガースが21年振りのリーグ優勝を果たした年だ。
その頃には、どこからか、先輩は故郷の神戸に帰っているらしいと、噂ではあるが耳にしていた。
僕にその噂を届けたのはKだ。
Kと呼ばれたのは、イニシャルではなくて、あだ名がKと言う同級生だ。
カフカが好きだと言いふらしていたので、Kになった。
僕たちのサークルは文芸系の、とは言え、実態は飲み会ばかりの、いわば無頼派を気取った学生の集まりだった。
もちろん、そのまま無頼派を続けられないのはみんな知っている。
四年生になれば、無精髭も剃り、髪も七三にわけて、スーツを着る。
そして、それぞれの会社説明会や面接の後に集まっては「いちご白書をもう一度」を歌うのだ。
そんな僕たちでも、いくつか会社訪問をしているうちに、それぞれ適当なところにおさまることができた。

本を書くとは、どういうことだろう。
小説を書く、詩を書く、戯曲を書く、随筆を書く、それならわかる。
しかし、小説や詩を書いたからと言って、必ずしも本になるものではない。
いや、むしろならないことの方が多い。
本を書くとは、小説にしろ、詩にしろ、戯曲にしろ、随筆にしろ、評論にしろ、あらかじめそれが本になるとわかって書く時に用いる言葉なのではないか。
それなら、先輩はあの時、何かそんなあてでもあったのだろうか。
当時は、何か賞でも獲らない限り、素人が本を出すことなどあり得なかった。
もちろん、先輩は何の賞も獲ってはいない。
それに、先輩が時折り書いていたものは詩で、それも恋をし始めた中学生の域を出ないものだった。
もちろん、隠れて大長編小説を書いていたかもしれない。
しかし、その後も先輩の名前を新聞その他の広告で見かけたことはない。

僕だって、そんなサークルに入っていた以上、いつかは作家になれればいいなとは思うこともあった。
しかし、そもそも書きたいことなどなかった。
どこか世を拗ねるようなふりをしていても、親の脛を齧るだけの学生には、書かなければならないテーマなどある筈もない。
何度か短編のような作り話を書いて、ガリ版刷りの冊子を作ったくらいだ。
そんなものは、思い出作りのひとつでしかない。
その証拠に、社会に出てからは、日記すらつけなくなったし、本すらほとんど読まなくなった。
時代はバブルに向かい、僕も毎週のように金曜日になると、柄にもなく踊り明かした。
そのバブルも崩壊して、僕の会社もいろいろな経費が締め付けられるようになった頃、神戸であの震災が起きた。

卒業後も唯一連絡を取り合って来た、と言っても年賀状と、思いついたように出す暑中見舞いくらいだけれども、そのKからメールが届いた。
先輩の住所が今燃えているところだと言う。
Kは、いつの頃からか先輩と年賀状のやり取りを続けていたらしい。
どうしてそのやり取りが始まったのかは聞いていない。
その年賀状に書かれている神戸の住所が、今テレビで中継され火が燃え広がっているところだと言う。
電話番号はわからない。
被害の全貌がわかった頃に、Kが手紙を書いたけれども、返事はなかった。
死亡者、行方不明者のリストを確認したが、そこには先輩の名前はなかった。
もちろん、穴の開くほど確認したのかと言われれば、自信はない。
Kはその後も何年か年賀状を書き続けたが、それにも返事は来ないため、そのうちにやめてしまった。

それから、何十年も経った。
あれ以降も、各地で大きな災害はあったが、そこに知り合いのいたことはない。
いや、いたかもしれないが、僕がそれほど人と深くは関わってこなかったということだ。
そして、Kも先日この世を去った。
大腸癌の手術をしたことは聞いていたが、その後が良くなかったのだろう。
僕も今は時間だけはあるので、少し遠かったが通夜に参列した。

毎年、あの震災の日になると先輩を思い出す。
その逆はないけれども。
結局、先輩はあの震災の犠牲になったのだろうか。
もしも先輩が生きていて、僕などの知らないペンネームで本を出していたら、それはわかる筈もないが。
でも、そんなことはないような気がする。
生きていたとしたら、今でも、俺は本を書くと言いながら、恋をし始めた中学生のような詩を書いているのだ、きっと。


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