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小説を哲学へ。

 まず、なぜこのような考察が可能なのか。それは本当のところ、小説で表現できること(伝えられること)と哲学でできるそれが同じだからである。(当然だが技法が違うのだから伝わるものは全く同じでない)してみれば我々には、突然だが[小説をする]という表現が可能なのである。
 とすれば、私が今から論じるべきは技法についてなのだからそれについて今からは述べることにする。すなわち、例えば我々は小説では同情するし、哲学では共感するのだが実のところそれいうのは、感じるということ(人に感じさせるということ)において同工である。 しかし、そのことは情を介するのか、あるいは知性を介するのか、というこの点において相反している。(言うまでもなく)そうして人は小説と哲学を別けるのである。
 まあそれは以下のことによって生じる。すなわち、人は五感を主にたしなむがその一方で知を愛用する者は数少ないのだが、それとは決して知というものが人間を必ずしもうんざりさせるからでなく本当のところ、知というものが[感じることを無理に強要する]から人々はなかなか知を愛用しないのであって、だからつまりは人というのが自発性ということに対して強烈なこだわりを具備しているという由のみによって情と知を区別しては(結果的に)小説なるものは物語へと変容してしまったのである。つまり人は基本感じることを好むがそれとは主に情を抱くことであるということである。(明らかに少なくとも近来の小説は物語を主体とすることでまさしく人間経験であるそれを駆使することで確かに人間に思い出させるということをさせて感じさせるのだから感じることにおいてはより一層効果的だから人は小説をいつしか物語にしてしまったのである)
 こういう経緯から小説と哲学は上記の通り別れることとなった。実のところ、小説は人に感じさせることで主に娯楽を与えるようになった。(人は感じることを好むから)しかし一方で哲学はその感じるということを手伝うだけのものへとなってしまった。実際そうである。というのも、この世の全ては思潮、すなわち哲学だからである。つまり、哲学は人間の種々たる感じることを助けたということをのみ功績としてもらえるようになってしまったのである。(まあ私はこのことがすこぶる好かんのである)
 ではつまり小説を哲学にするには、(極論を言うのならば)人に何かしらを教え込むというような態度を取るしかないのである。そうして[知ること]をさせることでしかそれは成し得ないことになる。がしかしここで一つ断っておきたいのだが、[ただの物語と論説なるものは全く別物]である。まあつまりはそういうことである。

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