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【読書録53】行動へと駆り立てるものをどう持つか?~司馬遼太郎「峠」を読んで~

 久しぶりの司馬遼太郎作品。

 高校時代に読んだ「竜馬がゆく」。坂本竜馬という一人の英雄が時代を切り開いていく姿に猛烈にあこがれた。社会に出てからは、個人の活躍というよりも、秋山兄弟を主人公としながらも明治という国家をつくった群像劇を描いた「坂の上の雲」に惹かれるようになった。

 本書「峠」は、その2冊の間に書かれたという。
しばらく前に古本屋で上・中・下巻セットで購入し、上巻を少し読んだあと、進まず積読になっていた。
 なんだか、河合継之助を他に超越した英雄めいた描き方になんとなくリアリティを感じることができず、読み進められなかったのかなと感じている。

 今回、濃厚接触者として自宅待機中に、なんとなく軽い気持ちで再度手に取った。

 著者の描く世界観に入り込み一気に読み進めた。

最後の侍の一生

 
 ものごとの原理を知ろうと江戸や備中松山へ遊学し、継之助の人間形成を描く「上巻」

藩主に見出され、改革を実行するも、大政奉還という時代の流れに巻き込まれる「中巻」

一藩独立を夢見るも小千谷談判で敗れ、北越戦争を巻き起こし、ついには敗れる「下巻」

福沢諭吉との会談で、継之助の価値観を感じ、
小千谷会談で運命のいたずらに泣き、
下僕に自分の棺をつくらせ、火を焚かせ、それを見つめ続けて死んだという姿に侍を感じた。

 著者は、本書で、「侍とはなにか」ということを考えてみたかったという。

 開明的でありながら、長岡藩の藩士という役割の中で自己を規定して如何に美しく生きるかにこだわった継之助。
 福沢との会談では、2人の価値観の違いがそこに凝縮されているのを浮き彫りにする。今日に生きる私は、福沢の藩や階級を超えて何が正しいかで判断し行動する姿に共感をする一方、継之助の姿に「侍」を感じる。

気に入った言葉・場面

陽明学とは、人を狂人にする。つねに人を行動にかりたてている。この思想にあっては、つねに自分の主題をもやしつづけていなければならない。この人間の世で、自分のいのちをどう使用するか、それを考え続けるのが陽明学的思想であり、考えにたどりつけばそれをつねにもやしつづけ、つねに行動し、世の危難をみれば断乎として行動しなければならぬという、つねに激しい電磁性を帯びたおそるべき思想

上巻 P.29

即決対処できるには自分自身の原則をつくりださねばならない。その原則さえあれば、原則に照らして矛盾の解決ができる。原則をさがすことこそおれの学問の道だ。

上巻 P.57

志ほど、世に溶けやすくこわれやすくくだけやすいものはない。

上巻 P.77

知れば知るほど人間の行動欲や行動の純粋が衰退するという信条をもっている。(中略)行動精神のない知識主義者をこの男は、
ー腐儒
とよんでいた。
継之助の知りたいことは、ただひとつであった。原理であった。

上巻 P.193


心をつねに心を曇らさずに保っておくと、物事がよくみえる。学問とはなにか。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。

上巻 P.219

学問はその知識や解釈を披露したりするものではなく、行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の学問を見る以外に見てもらう方法がない。

上巻 P.309

そのあたりの草も、石ころも、流れる水も、飛ぶ鳥も、その鳥の影も、すべておのれと同質である。すこしのかわりもない。
というのが、継之助の覚悟であった。
(中略)
自然に融けて呼吸しておればよい。死も生も自然の一形態にすぎず、一表現にすぎず、さほどに重大なものではない。

中巻 p.191

ものごとの敗因というのは、つねに一つではありえない。いくらかがそこにあり、それが単に個々に存在せず、それがたがいにからみあい、ときに掛け算になって勢いを崩していく。
が、この鳥羽伏見の戦いの第一日の敗因の原因を一つだけあげれば、徳川方の高級指揮官たちの人としての弱さであろう。

中巻 P.316

「意見じゃないんだ、覚悟だよ。これは。官軍に抗して起つか起たぬか。起って箱根で死ぬ。箱根とはかぎらぬ、節義のために欣然屍を戦野に晒すかどうか、そういう覚悟の問題であり、それが、きまってから政略、戦略がでてくる。政略や戦略は枝葉のことだ。覚悟だぜ」(中略)
覚悟というのはつねにひとりぼっちなもので、本来、他の人に強制できないものだ。まして一つの藩が他の藩に強制することはできない」
(中略)
「要するにてめえの覚悟を他の者ももつとおもって、そういう勘定で事をなすととんでもないことになる」

中巻 P.516

一案を採用し、一案を信じられよ。たとえそれが地獄へ堕ちる道であってもいい。君臣ともに地獄に堕ちるならばともに堕ちようではないかという不退転の覚悟だけが藩を救う唯一の道でござる。

下巻 P.197

智謀などはたかが知れたものだ。智力のかぎりをつくし、あとは天にも震わせるような誠意をもって運命を待つしか仕方がない

下巻 P.257

河井継之助の光と影

 
長岡戦争は、戊辰戦争の最大の激戦であった。
著者が、以下で言う通り、河井継之助がいなければ、起きなかったであろう。

長岡という小藩にうまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を生んだことは不幸であった。継之助は、長岡藩という藩に対し、分不相応の芝居をさせようとした。

下巻 P.347

 本書では、快男児として描かれる継之助について、解説では、政治家として、自分の育てた藩の武力を信じすぎて、時勢の動きに背き、なんの得ることもない戦に長岡藩のすべてをつぎ込み、民衆を戦に巻き込んだ負の面に触れる。

 民衆は、死後の継之助のまで怨嗟して、
「墓碑ができたとき、墓石に鞭を加えに来るものが絶えなかった」
「墓碑はその後、何者かの手で打砕かれた」

ことを紹介している。

 政治家、治世者としての評価はたしかに分かれるであろう。結果として国土を焦土と化してしまった責任は免れまい。
そんな負の面を知りつつも、「実行するは我にあり」を貫いた、河井継之助の生き方には惹かれるものがある。

どんな志をもって行動するのか?

いざという時に行動できるようにあなたはどんな原理を持って生きていますか?

著者や継之助に問われているような気がする。

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