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[質問箱]なぜ歴史を学ぶ必要があるのですか?

「歴史」と聞くと思い出す言葉がある。島田洋七さんの『佐賀のがばいばあちゃん』(徳間文庫)の一段である。

中学に上がった昭広少年にとって、試験勉強は最も苦痛な時間でした。「苦手な英語はどうすればいいか?」と聞かれたばあちゃんはこう切り返しました。
ばあちゃん「じゃあ、答案用紙に『私は日本人です』って書いとけ!」
昭広少年「でも、ばあちゃん。俺、漢字も苦手で・・・」
ばあちゃん「『僕はひらがなとカタカナで生きてます』って書いとけ!」
昭広少年「ばあちゃん、俺、歴史も嫌いでな・・・」
ばあちゃん「答案用紙に『過去にはこだわりません』って書いとけ!」

私は率直に「凄え」と思った。何と斬新な、その場の真理を衝く言葉なのか、と。

歴史を学ぶ絶対的理由?

先般「なぜ、歴史を学ぶ必要があるのですか?」と聞かれた時に、実はこのばあちゃんの言葉が脳裏をよぎった。

歴史を学ぶ意味? 私は、絶対的な必要性は「ない」と思っている。

たとえば、何百年何千年も同じ形態の生活を続けているジャングルの民族や遊牧民に歴史は必要か? と聞かれれば、端的に私は「要らない」と答える。現に、ダニエル・エヴェレットが研究した民族「ピダハン」の人たちは「過去」という概念を持たず、そもそも彼らの日常語には「過去形」が存在しない。過去に言及することができない。それでも彼らは不自由なく生きている(というか「ピダハンの方が私より幸せそう」と素直に思う)。

生存において歴史は不可欠なものではない。もちろん、教訓めいた神話が必要なケースはある。けれど、そこで役立っているものは「時間軸に沿った経緯や出来事=歴史」ではなく「物語」だ。

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歴史は無意味なの?

一方、歴史が意味を持つケースがないわけではない。

歴史を必要とする社会において「は」歴史を学ぶ意義はあるといえる。

「ダンバー数」という語を聞いたことがあるだろうか。人間が安定的な集団社会を維持できる最大人数のことだ。何人が限界かというと

150人

だとされている。これが何を示しているかをざっくり言うと、「誰もが他の構成員のことを『ああ、Aはね……』と語れる最大人数」のことである。150人を超えると、人は、集団内で交錯し合う人間関係を捉えきれなくなる。集団が巨大化すると、「Aは今ごろ何をしてるんだろう?」という想像がまったく及ばない世界ができる。Aさんが現在進行形で何をしているかがわからない。でも、何となくAさんと自分はつながっていると感じられる。そんな「集団」意識が生じる。その時に、人と人を(見知らぬ部分があるにもかかわらず)つなぐ役割を担うのが、物語であり歴史だ。

歴史を学んで起こること

物語や歴史を共有していれば、良いことがたくさん起こる。「共通のテーマで大人数で盛り上がれる」とか「この流れの中でそういった振る舞いはしないよね? ね? が通じる」とか。どれも「社会」を成り立たせるのに重要な要素だ。歴史は、集団の人間関係を強化・維持する。

ちょっと極端な例だが、政治家が国際的な舞台でしばしば失敗するのは、「歴史を踏まえない」からである。相手にとって何が良(善)いのか。相手にとって何が不快なのか。「歴史を必要とする社会」では、それらを知るのに歴史が有益だ。歴史を知らないことは、現代社会において時に暴力につながる。

仮にドイツで、ナチスやヒトラーを連想させるグッズを身に着け敬礼し、特定のセリフを吐いたとしたら――。時機によって、あるいは日本人が想像もできない心象をドイツ人に抱かせるかもしれない。

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また、物語や歴史は「こういう場合は、こうすべき」といった判断材料にもなる。過去の類例に学び、今おきている出来事を「より価値的」に受け容れ可能にする(ただし、完全にダブる出来事が歴史の中で起こることは原理的にあり得ないので、過去の成功物語をそのままなぞっても上手くいかないことが多い)。

歴史の特徴

加えて、物語という概念に比して「歴史がより前景化させている特徴」があることは見逃せない。それは「よりハッキリとした時間軸」を持つという点である。

たとえば、「物語」が普遍性の高い表現で教訓等を導き出すのに対し、「歴史」は背景やプロセス・経緯を踏まえることで個別性の高い出来事として捉え返すことができる。歴史を踏まえれば、「こういう場合は、こうすべき」という規範を導き出す適切さが増すのに加え、「自分が今、どのような時と場に立っていて、つまりどうすればいいか」という問いに対するより適確な答えが出せると期待できる。この点において歴史は優れている(だが、中途半端に学んで逆に地雷を踏むこともある)。

歴史に造詣がある実業家・出口治明さんは、そこにプラスして「専門分野に近い領域と遠い領域の、どちらのほうが新しいアイデアを生むのに役立つだろうか」と問い、「答えは後者です」(『リーダーは歴史観をみがけ』中公新書ラクレ)と断言し、ビジネスシーンにおいて、雑談以外のシチュエーションで歴史が役立つとしたら「イノベーションだ」と語っている。

なぜなら、歴史は全方位的に、「いま目の前にあることがら」から「遠い」からだ。時間的にも空間的にも、歴史は「遠い」。そういった歴史の知と「今」の距離の遠さを活かすと、「思わぬ創発性」が働きやすくなる。確かに、イノベーションに必須な「知の掛け合わせ」において、ジャンルレスというか、一見、関連がなさそうな「知」同士が大切にされるというセオリーが語られることは多い。

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学び方次第で歴史から読み取れるものは変わる

また、歴史の学び方一つとっても、豊かにできることがある。「出来事重視ではなくプロセス重視」という態度がそれだ。要は、「何が起きたか」ではなく、「なぜその出来事が起きたか」を問い続けるスタイルである。

特に「教科書的な歴史」からは、大衆・民衆の姿が見えにくい。「〇〇〇年に〇〇の乱が起きた」と知っただけでは、見えてくるものはほぼ「ない」。直近の話だが、ウェブで「パソコンがない時代って、みんなどうやって働いてたんだろうね?」と質問する若い子を見かけた。こういった疑問にGoogle先生はなかなか答えを出せない。なぜなら、それが「あたりまえすぎて記録されなかった(されにくい)事柄」だからである。PCがない時代に、「将来、今している紙業務は消滅するから、そんな科学が発達した時代が来る前に今をしっかり描写しておこう」と考える人は、まずまず存在しない。

歴史から生活を読解するのは難しい。だからこそ、そういった「あたりまえ」を歴史から読み取る手法を示した点で、歴史学者・網野善彦などが高く評価される。歴史学者トインビーは「時代を動かすのは、新聞の見出しの好個の材料となる事柄よりも、水底のゆるやかな動き」だと言ったが、水底の出来事は史料として残りにくい。しかし、大衆の鼓動を史料から読もうとする試みは、とても大事だ。それはそのまま「いま市場で何が起きているか」を読み解くビジネスメソッドに転化できる。

趣味と向き合う

と、いうように、歴史を学ぶ意味は「ない」とは言えない。「ホロコースト」や「南京大虐殺」といった知は大切だ。「東日本大震災に学ぶ」といったことは不可欠ですらある。けれど、絶対的で強烈な意義があるとは言いきれない。歴史が役立つシーンは生活の中でも限られている。集団意識、たとえば「われわれは日本人だ」という意識を持つ意味を大切にする人にとって歴史は有意だが、「役に立つ」という視線で日本固有の神話を見ると、役に立たない場面も多く、学ぶこと自体に「ムダさ」を感じる人も出てくるだろう。それを否定しきることはできない。

現代社会は「歴史を必要とする社会」といえる。その意味で歴史は、あなたを少しだけ生きやすくし、少しだけコミュニケーションの質を変え、「時事的な事柄」を捉える共感フックを少しだけ増やしてくれるだろう。で、まれに「知らないがゆえの致命傷」を与えてくるだろう。

その「まれ」のためだけに歴史を学ぶのは、ビジネスマンにとっては「コスパが悪い行為」と見做されるかもしれない。

私は、楽しいから歴史を学んでいる。そして上記の「少し」や「まれ」に価値があると信じてもいるので、歴史書をひもとく。しかしそれは趣味の問題だ。ここからは、あなたがどう考えるか次第である。


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