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今年の総括~小説編

2018年ごろ、仲間と週刊誌でお題に沿ったエッセイを書くということをやっていた。よかったのは、載せる前に添削してもらえるということだった。推敲の勉強になったし、書き直すという筋肉がついたのではないかと思っている。小説なんて書けるわけがないと思っていたので、エッセイのネタが尽きたらわたしはもう書けなくなるかもしれないと漠然と思っていた。そんな中で800字、1600字の小説を書いたりするようになった。もしこれがもっと長いものだったらわたしは書けなかっただろうし、今も書いていないだろうと思う。
どんなものを小説と呼ぶのか。
それは今でもわたしにはわからないままだ。初めて書いたときに感じた「これでいいのか?」はまだわたしの中にある。
今年、30枚や50枚の短編で「詰め込みすぎかも」と言われることが多くなった。長編にしなければ、と思いつつ、書けなかった。長編をどうやって書いていいのかわからなかった。少し書いてはボツ、を繰り返した。デスクトップのアイコンが増えていき、締め切りのぎりぎりになって書きはじめる、ということが続いた。推敲が足りないとわかっているから、何だか情けなくて苦しかった。
「長編はマラソンみたいな感じ」と言う人がいた。
呼吸、なのだろうか。文章の呼吸。
わからなかった。短編も書けない、長編も書けない。そんな状態が続いた。
夏ごろになって、書かなくてはいけない短編があるのに、違うものが書きたくなった。
短編が終わってから。そう言い聞かせていたのに、どうしてか違うものが書きたい。その衝動が止められなかった。書きだしたら120枚になった。そんなふうに書いたものがいいものかどうかわからない。わからないまま、書き終えたのが7月だった。
いろんな人の作品を読みながら、いい小説とは何だろうと考えた。
文学フリマのために作った本を、ある人が「哲学だね」と言ってくれた。またある人はわたしの小説を読んで手紙をくれた。

ーー小説って読み手が勝手に想像していいのが好きです。なので、私は国語のテストが大の苦手でした。

漫画を描いているこの人の手紙にふっと力が抜けた気がした。主人公の気持ちは全部当てはまるので、勝手に想像していつも外していたと書かれていて笑った。
自分の小説を自由に想像してくれるというのはなんと贅沢なことだろうと思う。読み手に依存しすぎてもダメかもしれないけれど、物語自体が自立して自由に飛べる翼を持ってくれたなら。
わたしからも読者からも離れて小説が自由になれるにはどうすればいいのだろう。長短の問題ではない。
わからないことだらけ。自分で考えなければいけないことだらけ。
だから、きっと、小説はしんどくて、おもしろいのだ。

何かがふっきれたわけでもなく、わたしはまた書いたり、書けなかったりするだろうと思うけれど、書きたいと思う気持ちがゼロにならない限り、書いていけたらと思う。

#エッセイ #総括 #小説 #振り返り

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