見出し画像

【適応障害休職中】適応障害が教えてくれたこと

ちょっぴり感傷的になる…?


10月の終わりに近づいている。

私の住んでいる東北地方は、早くも白鳥がぞくぞくと来訪を終え、生活の様々なシーンにその鳴き声が彩りとして添えられ、初冬の気配がすでに濃厚となっている。


私のバカンス(注:休職期間)も終盤にさしかかっている。11月からは、転職先での新しい仕事がはじまるとともに、夫と娘と3人の生活パターンも新しいものへと変化しつつある。


その具体的な変化や、休職中に得た気づきや学びなどは、最近も記事に書いたばかりだ。

(私が休職中に活用させて頂いたリソースなどにも触れているので、興味があればこちらもどうぞ↓)


転職前1週間は、せめてゆったりと心穏やかに過ごそうと想像していたのだが、その思いも儚く、様々な予定が立て込んでいる(備忘録兼ねて、記録)

〇退職手続き(先方の郵送物を待ち・返却物の梱包材待ちの状態)

〇明日、コロナワクチン接種2回目

〇転職手続き(個人貸与のPC送付待ち・初日オリエンテーションに向けての準備・入社書類の転送)

〇保育園転園の願書提出

〇子ども向け媒体の記事のリライト・編集者さんやデザイナーさんや取材先とのやりとり

〇ネットスーパー・生協宅配の利用登録

〇衣替えと、衣料品のチェック

〇ホルモン注射後の体調管理

☆サツマイモの出荷調整・ミニトマトの収穫

☆スマートフォンの修理?

などなど…


7月頭からはじまった適応障害による休職期間を終えようとしている。丸々3か月ほどのこの間、本当にいろいろなことがあって、その度に多くを考え、noteで記事を書くことにもつながったという実感がある。

休職してしばらくの間は、まずは正常に働いてくれなかった心身を回復させ、自己肯定感を正しく高めて保持する必要に迫られていたし、それが第一優先課題かつ重要課題だった。

医療や様々なリソースに頼りながら、心身の状態が「私の正常値」に少しずつ戻ってきたとき、今度はお金の不安やアイデンティティーの危機が訪れた。それは、とりもなおさず「仕事に対する不安」そのものであり、仕事を通じて自分自身を見たときに感じ続けてきたコンプレックスや、私が乗り越えるべき必要のある人生の課題とでもいうような、ある「障壁」と向き合うきっかけとなった。

友人や家族のサポートのおかげで、ひとつの企業に限定した形で転職活動を始めた。エントリー書類を作成する過程で、これまで経験しなかったほど自己洞察を深め、そのおかげで自分の弱さを含めた丸ごとの自分を徹底的に見つめ、ようやく本当の意味での自己理解に至った。

この過程で、社会に出る前に済ませておくべきだった、または社会人としてもどこかのタイミングで気づいて行えたはずの思考プロセスを、私がすっ飛ばしたままここまで来てしまったのだということに気づき、ひどく落胆し、滅入ったりもした。

しかし、この落ち込みも、結局は「他者との比較」に起因していて、「他のうまくいっている(ように見える)人たちであれば、当然若い頃に経験して克服しているはずであろうこと」という私の勝手な解釈によるものだと気づく。

きっと、私にはこれまでの紆余曲折が必要で、それらの経験が(私が思い込んできたよりもずっと)私の思考と行動に多くの影響をもたらしてきて、それらが論理的にも非論理的にも、私自身を形作る要素として溶け込んでいるのだろう。

そして、その紆余曲折がなければ、私が得た気づきや学びはきっとなかった。言い換えれば、「今だからこそ」、深い自己洞察や自己理解に至ったのだろうという確信がある。



感傷的な気分になったような気もするが、結局はそんなセンチメンタルに浸る間はたっぷりなくて、今日はただただ、その「学び」をもう少し綴ってみたいと思う。



自分で決めた「フロー」に従う


さっき上げたTo Doリストについて、少し。

特に、☆のサツマイモのことは、気がかり。

画像1

夫がすでに、今期の冬場の酒蔵勤め(一週間休みなしの働きづめ!)に入っており、畑のことが全く出来ない状態に…

もともとひとりオーガニック農業で手が回らなかったうえ、2年前からは育児が加わり、物理的に時間が完全に不足。

そのうえ、今年はサツマイモの収穫も終わらないうちにスタートしてしまったため、私が芋ほりや袋詰めなど、引き継いではみたものの、おそらく(かなりの確率で!)半分も掘り終えないうちに、畑には行けなくなってしまうだろうと…予想される…(悲しすぎる)

毎年、直売所でも近所のコープでも、もちろん知人に配っても大好評のムラサキイモ。今期は何袋食卓に届けられるだろうか…(悲)


しかし、この芋たちを通して得た気づきがある。

①優先順位を見極める

②そのうえで諦める

③でも、タダでは起きない

芋の収穫をし、乾燥させ、持ち帰り、砂を落とし、袋詰めし、出荷する。このプロセスを一人で行うにはかなりの時間を要する。

今の私が抱えていることは、農作業だけではないし、かつ農作業には天気という条件も大きく影響する。なので、今の全ての前提を考慮して、転職までの残された時間をどのように過ごすか、ということを毎日変更せざるを得ない。

で、最近意識しているのが、上の3つのフローだ。

出来てる人には当然のことなのかも知れないが、これまでの私は完璧主義ゼロかヒャクか思考が加わり、一度決めたはずのことを後からまた反芻してみたり、くつがえして時間の見積もりを見誤ったりして落ち込む、ということが多かった。そして、この道理に気づかづに「自分の能力が低いせいだ」「いつもこういう結果になる」という悲観主義のネガティビティバイアスに陥りやすかった。

休職前後で、これをかなり意識できるようになった。

頭がモヤモヤしてきて、視界が狭くなりつつある最中や、暗雲が立ち込めてきて(本当にそういう風なイメージを持っている)、胸のあたりがすこし窮屈になってきた時に、このことに気づきやすくなったのだ。ささいなことが、私にとって大きな変化であり、成果と思っている。


サツマイモたちには申し訳ないが、掘れるところまで掘って、あとはそのまま畑の肥やしにする。出荷できるものについては、11月以降も土日を使ったりして、少しずつ換金したり、お世話になった人にプレゼントしたり、家で芋ようかんを作って頂こう。潔く。

③のタダでは起きない、ということについてだが、これは「パラレルワークのアイディアを得た」ということが挙げられるかと思う。この間、(唯一の)地元の親友と娘2人を畑に招いて、収穫体験をした。私の娘と5人で行ったのだが、これがなんとも不思議な感覚を得たぐらい楽しかった。フロー体験と言えるものだった。

こんなにワクワクしたことは久しぶりだったし、自分が全く予想していなかった出来事から、こんな感情を得られたこと自体が発見だった。パラレルキャリアで生計をたたている人もいれば、自分の「楽しい」という感情に正直にそれを続けている人もいる。この体験と感情を大切にしたいと心から思い、何かしら将来に行うことの発想を得た。タダでは起きない、つもりだ。


ダジャレのようだが、奇しくも2つの「フロー」が登場した。自分で納得した「フロー」を持ち、一度決めたら迷わない、振り返らない。そして、「フロー体験」に出会ったときは、貴重な機会と捉えてその気持ちに従ってみる。これも、休職中に得た教訓だ。



「ネガティブ」への耐性


既に長くなったけれど、どうしてももうひとつ記録しておきたい。

2つめの☆、スマートフォンの修理について。


昨日、スマートフォンの液晶画面にヒビが入った。とんでもない落ち方をして、まさかの故障。挙句、修理や交換の補償サービスにも入っていなかった。

以前の私なら、かなりのダメージを受けてしばらく落ち込んでいただろうと容易に想像がつく。自分自身の行動、それまでの経緯を振り返って後悔、「いつもこうだ」「なぜこんなことになったのか」と、お得意の悲観主義のネガティビティバイアスがフル発動。


昨日は違った。

娘を迎えに行った帰り、コンビニでネットワークプリントで必要な書類を印刷しようと思った矢先だった。「ママ、こわれちゃったの?」と娘。「うん、やってしまったよー、ママ。あらー、困ったね、失敗!」と、まずは状態を確認。

ひとまず動作に異常なく、プリントアウトを済ませて帰宅。娘「ママ、シールでなおすよ!」とテープをヒビにはってくれる。思わず笑みがこぼれる。「スマホ 液晶 ヒビ」でググって、実際にテープを張って応急処置した方が良いと書いてあり、「〇〇すごいね!当たってたね!」と娘に感心する。その後も娘の遊び相手をしつつ、修理してくれるところや相場などをググる…

その後夫が帰宅して、何かのきっかけで思い出すまで、そのことを忘れていたぐらい、ダメージを受けていなかったのだと思う。あとから気づいて、そのことに非常に驚いた。

納得する形で就職が決まり、転職先が決まっていたことで、お金の不安が小さくなっていたこともあるのだろうが、これもひとつのポジティブサイコロジー実践の成果だと思ったし、レジリエンスが少しずつ戻ってきたという実感だ。(「モノはいつか壊れる」「たまたま起こった」「何とかなる」「あとは行動にうつすだけ」と、自然発生的に思えるようになってきた)


これはもしかしたら、適応障害だけではなく、育児を通して「カオスへの耐性」とも言えるようなものがついてきたことも合わさっているのかもしれないな、とも思う。以前の私は、仕事場で極限まで我慢したり、「大人でいよう」「良い人でいよう」とふるまい過ぎて、それを家庭内に持ち帰って、結果的に家族に甘える形になっていたのだと思う。

これからは、仕事/家という区切りをなるべく設けたくない。どんなに価値観の一致した企業や職場だろうと、公私の違いは多かれ少なかれあるだろうけれど、「私の感情の器」は、その区切りを当てはめて十分な耐性を持っていないだろうし、感情に公私の色をつけて明確に整理するなんて無理なことだと、やっと今更気づいた。

仕事でも、家でも、出来る限り自然な私としていられるのが理想だし、今後の目標だ(基本的にまじめだし、さぼって誰かに迷惑をかけたこともないし、イやなやつと干されたこともないのだから大丈夫なはず)


液晶ヒビ割れ事件のおかげで、自分が「転職しても大丈夫」だというお墨付きを得た気がしている。一見してネガティブな出来事の中でも、冷静に観察し、出来ることに集中し、笑えるなら笑う。リラックスしたら、パフォーマンスも上がるのだし、そうしなければもったいない。


気が付くのに、だいぶ時間がかかってしまったけれど、忙しい日々のなかに、強力なマインドセットを手に入れた気持ちでいる。


アイディアを形にするため、書籍代やカフェで作戦を練る資金に充てたいです…